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第45話「おべんとう」

 夜更けの冷気が、まだわずかに残る朝だった。


 霧は庭の地面を覆い、その向こうの畑や木立を白い膜のように遠ざけている。囲炉裏には昨夜の火の名残があり、灰の下で赤い脈が呼吸みたいにくすぶっていた。


 ちゃたろ〜は火吹き竹を口に当て、そっと息を流し込む。


 ぱち、と小さな音がして、火はもう一度息を吹き返した。

 細い薪の先が赤く染まり、そこから橙の火が立ち上がる。鍋の底がじわじわ温まりはじめ、やがて中の米が小さく踊るように揺れた。


 湯気は甘く、どこか懐かしい匂いがする。

 焦げた鉄でも、血でも、薬品でもない。

 穏やかな生活の匂いだった。


 そんな朝に、細い声が落ちてきた。


「……今日は、わたしが。お弁当を、つくりたい」


 聞き返すより先に、ちゃたろ〜の胸に小さな驚きが立った。


 振り向けば、サナが両手を胸の前で握りしめ、畳の上に細い影を落としている。目は揺れている。声もかすれている。けれど、逃げない。その言葉の奥には、折れない芯があった。


 ちゃたろ〜は、火の音に紛れるほど小さく笑った。


「また変な夢でも見たのかと思ったけど……違うな」


 そう言って、囲炉裏のそばを少し空ける。


「よし。やってみよう。包丁の持ち方からだ」


「失敗して泣かれても知りませんわ」


 部屋の端で茶を啜っていたヴィリスが、冷ややかに言った。


 その声は相変わらず平板だったが、ほんの少しだけ柔らかい。

 それを誰も口にはしなかった。


    ◇


 包丁を握るサナの手は、思っていた以上に震えた。


 刃先は野菜の丸みに沿って滑るばかりで、なかなか入っていかない。力を込めると今度は斜めになり、にんじんは妙な角度でぐらりと転がった。


「ちがう、そこじゃない。指はこう……切るんじゃなくて、押す感じで」


 ちゃたろ〜が横から手を添える。


 サナは肩を跳ねさせた。

 一瞬だけ身体に力が入る。けれど、逃げなかった。深呼吸をひとつして、それから静かに体重を預ける。


 包丁がようやく野菜に入り、ぎち、という鈍い感触のあとに、にんじんは不格好な輪切りになった。


「……切れた」


 かすかな声だった。

 でも、それはうまくいかなかったことへの落胆ではなく、たしかに前へ進んだ人の声だった。


「真っすぐじゃなくていい」


 ちゃたろ〜は、まな板の上のばらついた輪切りを見ながら言う。


「大事なのは、誰かのために作ろうって気持ちだ」


「感覚論に逃げるの、悪癖ですわよ」


 ヴィリスが即座に返す。


「塩は三つまみ。手の大きさで誤差が出るので定規を使いなさい」


「料理に定規使うやつがあるか」


「私はあります」


 真顔で言い切られて、ちゃたろ〜は思わず吹きそうになった。

 サナはまだ状況についていけない顔で二人を見比べている。


 台所は慌ただしかった。


 鍋はときどき吹きこぼれそうになり、サナは慌てて蓋をずらし、今度は蒸気に驚いて身を引く。団子は丸めるたびに形がばらつき、小さいものと大きいものが同じ皿に並んだ。ゆで卵の殻はひとつ、少しだけ白身にくっついたままになった。おにぎりは最初、握りが甘くて持ち上げた瞬間に崩れた。


「あっ……」


「大丈夫だ。もう一回」


 ちゃたろ〜が言う。


「米は逃げない」


「逃げる場合もあります。圧力不足です」


 ヴィリスが横から補足する。


「優しく握るのと、弱く握るのは別概念です」


「お前、料理だけ妙に理屈多いな」


「生存に直結する行為ですので」


 そんな具合に、失敗ばかりだった。

 けれど、その失敗の中には笑いが混じっていた。


 ヴィリスが焦げかけた鍋底を魔法の微火で救い上げ、サナが驚いて目を見開く。ちゃたろ〜が塩を入れすぎてヴィリスに無言で見られ、言い訳の代わりに咳払いをする。サナがつられて、ほんの少しだけ口元を緩める。


 うまくいかないことだらけなのに、温かかった。


 完成した弁当は、歪だった。


 色合いは揃っていないし、形も綺麗ではない。

 けれど、野菜の煮込み団子、ゆで卵、少し塩辛いおにぎり、干し魚。それらの全部に、サナの指の跡が残っていた。


 それが今日いちばん大事なことだった。


    ◇


 昼前、三人は緑の丘を登った。


 木々はまだ夏の名残を残した濃い葉を揺らし、小川のせせらぎが遠くで細く笑っている。土の道はところどころ草に覆われ、踏むたびに柔らかい音がした。


 サナは何度かつまずいた。

 足元の小石に引っかかり、草の根に靴先を取られ、そのたびに身体が前へ傾く。


 ちゃたろ〜は、そのたびに腕を差し出して支えた。


「大丈夫か」


「……うん。ありがとう」


 声は細い。

 けれど、ちゃんと相手へ届く声だった。


 丘の上へ辿り着くと、世界がふっとひらけた。


 村が小さく見える。

 煙が細く上がり、人の営みが点描みたいに穏やかに散っている。畑の区切りも、家々の屋根も、遠くから見ればみんな小さい。けれど、その小ささが逆に、守るに値するものとして胸へ入ってくる。


 三人は布を広げ、ぎこちなく食べる準備をした。


 弁当箱の蓋を開けると、まだ少しだけ湯気の気配が残っている。

 おにぎりは形が不揃いで、団子は大小がばらばらだ。ゆで卵の殻もひとつ、やはり取り切れていない。


「いただきます」


 重なった声は三つだった。

 それだけで十分だった。


 ちゃたろ〜が団子をひとつ口に入れる。

 塩はやや強く、形は少し崩れている。けれど、噛むとやわらかくほどけて、根菜の甘さがあとから出てきた。


「……うまい」


 その一言に、サナは息を飲んだ。


 目を大きくして、それから――笑った。


 前みたいに、一ミリで止まる笑みじゃなかった。

 花がひらくみたいに、頬全体がやわらかくほどける笑顔だった。


 ちゃたろ〜は、その顔を見たまま少し黙った。

 砦の暗闇の中で見た怯えや沈黙とは、あまりにも反対側にある表情だったからだ。


 ヴィリスは無言で弁当を食べ終え、それからサナへ水筒を差し出した。


「……喉、渇くでしょう。水分摂取は作業効率を上げます」


 言い方は相変わらずだった。

 けれど、その手つきは今日の陽光より温かく見えた。


 サナは小さく頷き、水筒を両手で受け取る。


    ◇


 食後、三人は木陰に座り、遠くの村を眺めた。


 子どもの声。

 家畜の鳴き声。

 穀物を干す匂い。

 どれも戦いの音ではない。

 生きている音だった。


「今日は……普通の日だったね」


 サナが呟く。


 両手を膝に揃え、視線はやわらかく地平を見ている。

 その横顔を見ながら、ちゃたろ〜は胸の奥が熱くなるのを感じていた。


(――この時間を守りたい)


 砦の闇の中で、何度も思い描けなかった未来の形が、今は目の前にある。


 ヴィリスは風に髪を揺らしながら、何も言わなかった。

 ただ一度だけ、三人の影が重なっている地面を見た。


 風が吹く。

 草が波打つ。

 世界は、何事もなかったみたいに静かだった。


    ◇


 夕陽は西の森の端へ沈み、鳥たちの影が長く伸びた。

 三人の影もまた、寄り添うように重なって、やがて夜に呑まれていく。


 弁当は、形も味も完璧じゃなかった。

 でも、その不格好な温かさが、今日いちばん大切なものだった。


 このひとときが永遠ではないと、誰よりも彼らが知っている。

 だからこそ、今日という普通の一日は、強く胸に残る。


 手で作って、手で運んで、同じ場所で食べた。

 それだけのことが、今はちゃんと意味を持っていた。

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