表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

51/53

第44話「囲炉裏の告白」

 囲炉裏の炎が、静かに木を舐めていた。


 湿った薪がときどき、ぱちりと弾ける。

 そのたびにオレンジの光が天井の梁を照らし、煤けた木目を一瞬だけ浮かび上がらせては、また闇へ沈めていく。


 サナは毛布にくるまり、炎の揺らぎをじっと見つめていた。

 瞼は半分ほど落ちかけているのに、胸元の銀のペンダントだけは、しっかりと小さな指で握りしめられている。


 ちゃたろ〜は炎のそばで、メイスの柄を磨いていた。

 使い込まれた革が手の中で馴染み、布に染みた油の匂いがかすかに立ちのぼる。囲炉裏の火の匂いと混じるその気配は、戦いのための手入れでありながら、どこか暮らしの延長でもあった。


 ふと、視線を横へ滑らせる。


 隣に座るヴィリスは、炎を見ているようでいて、その向こうを見ていた。

 目の前の火ではなく、火に照らされて浮かび上がる、もっと遠い何かを。


 その横顔には、いつもの平板な静けさがあった。

 けれど、それだけではなかった。

 今夜の彼女は、言葉を置く場所を探しているようにも見えた。


「……私は、かつて研究員でした」


 唐突に落ちた声は、炎の爆ぜる音よりも低く、それでいて確かに空気を震わせた。


 ちゃたろ〜は手を止めた。

 磨き布を握ったまま、視線だけを向ける。


 ヴィリスは、こちらを見なかった。


「十数年前、《天使契約》と呼ばれる禁忌の研究が進められていたのをご存知ですか?」


 噂だけなら、聞いたことがある。


 神性を人に宿し、永劫の命や完全な魔力制御を得ようとした計画。

 成功すれば“神に並ぶ力”を。

 失敗すれば、人の手で触れてはいけない何かをこの世界に残してしまう。

 そういう種類の話として。


 ちゃたろ〜は静かに頷いた。


「研究は、やがて破綻しました」


 ヴィリスの声に、余計な抑揚はない。

 それがかえって、事実そのものの重さを際立たせていた。


「実験体の大半は崩れ、残されたのは制御不能な魔力の残滓だけ。人の形を保てなくなったものもあれば、形だけを残して中身が別物になったものもあった」


 囲炉裏の火が、ふっと小さく揺れる。


「……そこで、上は決めたのです」


 そこで初めて、ヴィリスは言葉をわずかに切った。


「隠すしかない、と」


 短い沈黙が落ちる。


 国か。

 辺境伯か。

 あるいは、その両方か。


 名前をはっきり口にしないほうが、かえって現実味を持つことがある。

 誰かひとりの判断ではなく、そういう流れそのものが生まれてしまったのだと伝わるからだ。


「地下施設ごと潰し、瓦礫と闇で覆う。研究の痕跡も、そこで失われた命も、“危険な遺構”という言葉の中に押し込める」


 ちゃたろ〜の背筋に、砦の冷気が戻る。


 崩落する石の音。

 上から迫る闇。

 足元の震え。

 逃げる間もなく押し潰されていった悲鳴。


「《地震魔法》で地下を崩したのです」


 ヴィリスはそう言って、ようやく火へ視線を戻した。


「……あの“死の砦”こそ、その覆い隠された研究施設でした」


 言葉が、過去の光景と静かに結びついていく。


 偶然ではなかった崩落。

 止められなかった悲鳴。

 “危険だから”という名目で、上から終わらせられた命。


 ちゃたろ〜は思わず息を呑んだ。


「あれは……最初から、そういう“終わらせ方”の場所だったってわけか」


「ええ」


 ヴィリスの返事は短い。

 だが、その一音にこもる重さは、炎より濃かった。


「けれど、完全には消えませんでした」


 火の粉がひとつ、はらりと舞い、すぐに灰へ変わる。

 ヴィリスはその軌跡を追うように視線を落としながら続けた。


「残された魔力反応は、なお災厄の芽になり得た。崩れたから終わりではなく、崩したあとも見続けなければならなかった」


 そこで、彼女は自分の膝の上へ置いていた手をわずかに握る。


「だから私は、知識を持つ者として“監視役”に回されました。対象を見張り、異常が芽吹けば記録し、制御し、必要なら排除するために」


 炎に照らされた横顔は、鉄でできた仮面のように硬かった。

 感情を削ぎ落とすことでしか、その役目に耐えられなかった者の顔だった。


「……ずっと私は“機械”でした」


 ぱちり、と薪が爆ぜる。


「任務を理由に感情を切り捨て、目を逸らしてきた。私が報告書に書くのは、“対象A・対象B・対象C”。行動、魔力波形、危険度――それだけです」


 言葉に合わせるように、ヴィリスの指先が膝の上でかすかに動く。

 羽ペンを握る癖が、まだ抜けないのだろう。


「ですが――」


 そこで初めて、彼女は炎から視線を外した。


 毛布に丸くなっているサナへ。

 胸元のペンダントを握りしめたまま、規則正しい寝息を立てている少女へ。


「あなたや、この子と暮らすうちに、気づいたのです」


 声が、わずかに細くなる。


「この子は“対象”ではない。記号でも、番号でもない」


 ひとつひとつの言葉を、確かめるように。


「サナという名を持ち、笑い、泣き、誰かに花を渡されれば嬉しそうに握り返し、にんじんの抜ける音で目を丸くする」


 ちゃたろ〜の脳裏に、畑の端での小さな仕草がいくつもよみがえった。


 花を差し出されて固まっていた肩。

 太鼓を恐る恐る叩いた夜。

 虫を指に乗せて離してやった時の、息ほどの笑み。


 どれも、本当にささやかなものだ。

 だが、そのどれもが、記録の行間へ押し込めるにはあまりにも人間らしかった。


 ヴィリスは続けた。


「……私は初めて、観測記録の向こうに“人間の顔”を見ました」


 囲炉裏の火が揺れ、サナの影が壁に映る。

 小さな影は、ただ眠る子どもの輪郭をしていた。


 沈黙が落ちる。


 ちゃたろ〜は、しばらく火を見ていた。

 炎の中に、砦で失ったものと、今ここにあるものとを重ねる。


 言葉を選ぶというより、選ばずに済むところまで沈黙を置いたあとで、ようやく口を開いた。


「名前ってのはさ」


 低い声が、炎の音に混じる。


「誰かの中に“居場所”ができた証なんだ」


 ヴィリスが、ゆっくりこちらへ視線を向ける。


「コードでも数字でもねえ。“サナ”って名前で呼ばれて、ここで飯食って、畑で土いじって、眠くなったら寝る」


 言葉は簡素だった。

 けれど、一つひとつが今ここにある生活へきっちり足をつけていた。


「それで十分だろ」


 それ以上の理屈はいらない。

 そう言わんばかりに、ちゃたろ〜は小さく肩をすくめた。


 ヴィリスの肩が、かすかに震えた。


 火の粉がひとつ舞い上がり、空気の中で消える。


「……ならば私は」


 彼女は息をひとつ整えてから、言った。


「監視者ではなく――この家の一員として、彼女を見守りましょう」


 その声は、いつもの平板な調子に似ていながら、どこか違っていた。

 研究員としての報告でも、命令への返答でもない。


 ただ、自分の意志として選び取った人の声だった。


 ちゃたろ〜は何も言わない。

 ただ、磨いていたメイスの柄を握り直し、囲炉裏の火を見つめた。


 サナの寝息は、変わらず規則正しい。

 胸元のペンダントが、小さな鼓動に合わせてかすかに揺れている。


 ――この小さな静けさを守るために。


 囲炉裏の炎は、赤く、やわらかく揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ