第43話「森の牙」
朝の霧が、庭の地面すれすれを流れていた。
洗濯物を干していたちゃたろ〜は、濡れた袖をしごきながら、物干し竿にシャツをひとつ掛ける。
しゃらり、と布が揺れ、その向こうで白い息がほどけた。
そのとき、背中に落ちた声は、本当にか細かった。
「……白い部屋に、いた気がする」
手が止まる。
振り返ると、サナが草履をはいたまま、庭石のそばに立っていた。
寝起きの髪が少し乱れ、胸元の銀のペンダントだけがきちんと整っている。
「夢か?」
思わず問い返すと、サナはしばらく言葉を探すように視線をさまよわせ、それから、ぽつりと続けた。
「……わかんない。でも……呼ばれた。“エー”って。数字みたいな、アルファベット」
エー。
その音を口にしたとき、サナの表情は少しだけ遠くを見る人のものになっていた。
色も匂いもない何かを、手探りで思い出そうとしているような顔だった。
ふらりと足が動き、サナは庭石に腰を下ろす。
草履の先で、霜の残る土をかすかに蹴る。
顔を上げた瞳に、薄い空の色が映った。
その背中を見ながら、ちゃたろ〜の胸に嫌な感覚が走る。
白い部屋。
呼ぶ声。
人ではなく、何かの分類みたいな響き。
どこかで見た記録の断片が、喉の奥でざらついた。
名前ではなく、記号で呼ばれるもの。
個ではなく、“対象”として数えられるもの。
苦いものが広がりかけた、そのとき。
階段を下りるやわらかな足音とともに、ローブの裾が視界の端に入った。
「ちゃたろ〜。ギルドから依頼が来ている。近郊で牙ネズミが群れているそうだ。……同行する」
いつも通りの、抑揚の少ない声だった。
ヴィリスは庭の様子を一瞥する。
ちゃたろ〜とサナ、洗濯物、物干し竿、空。視界に入るものを一度で把握してから、きちんとちゃたろ〜へ焦点を戻した。
ちゃたろ〜は洗濯バサミをひとつ口にくわえたまま、肩をすくめる。
「はいはい。じゃ、サナは昼までミーナさんに預けとく」
サナの方へ近づき、目線を合わせる。
「昼まで、ミーナさんの家。おやつも出るぞ、多分」
嘘ではない。
ミーナはいつも、誰かが来れば焼き菓子を多めに出してくれる。
サナは少しだけ迷ったように唇を噛み、それからこくりと頷いた。
銀のペンダントを無意識に握りしめながら。
ちゃたろ〜はその手をそっと離し、かわりに頭を撫でた。
「すぐ戻る。森の鼠どもを叩いてくるだけだ」
サナは視線を落としたままだったが、その肩の震えは、恐怖というより、名前のわからない不安に近かった。
◇
雑木林の入口は、いつもより静かだった。
踏み固められた獣道の脇には、数日前のものと思しき獣の死骸が横たわっている。
皮は剥がされ、骨はすでに半ば白くなりつつあるが、土に染み込んだ匂いはまだ残っていた。
ちゃたろ〜はメイスの柄を握り直し、鼻で短く息を吐いた。
「今日こそ、前に出るのは控えるさ」
軽口のつもりで投げた言葉に、横を歩くヴィリスがちらと視線を寄こす。
「最初からそうしていれば、こちらの術式も無駄にせず済むのだが」
皮肉を含んだ声色。
だが、その足取りは一分の乱れもない。
ローブの裾が落ち葉を払う。
靴底が地面をとらえる角度は常に一定で、枝を避ける動きに迷いがない。踏めば音が出る場所を、最初から選ばない歩き方だった。重心は低いのに沈みすぎず、退くにも踏み込むにも半歩で変われる位置をずっと保っている。
(……本当に、戦うために歩いてる人間の足だ)
ちゃたろ〜がそう思った直後――
茂みの奥から、低い鳴き声が走った。
次の瞬間、枯葉を蹴散らして牙ネズミが群れをなして飛び出してくる。
灰色の毛並みに、黄色く濁った目。
普通の鼠より一回り大きく、牙が異様に発達している。
群れで動き、獲物を噛み砕くための身体だった。
先頭の一匹が、一直線にちゃたろ〜の喉元を狙って跳躍した。
「《ホーリーボール》!」
唱えた瞬間には、正属性の光球が手の前に形成されていた。
投げるというより、打ち出す。
光が牙ネズミの顔面を直撃し、音もなく弾けた。
一匹が地面に叩きつけられ、痙攣して動きを止める。
だが群れは止まらない。
残りが左右に散開し、包囲するように動きを変える。
前後左右からの足音と、湿った鼻息。
囲まれた、というより、囲ませられている感覚。
「《サイレント・フィールド》」
ヴィリスの低い声が、空気を切った。
瞬間、世界から音が消えた。
牙ネズミの鳴き声も、落ち葉を踏む音も、服が擦れる気配も。
すべてが不自然なまでに静まり返る。
耳を切り落とされたような静寂だった。
群れの動きが、一瞬だけ乱れる。
鳴き声や足音で互いの位置を拾っていた個体が、指標を失ったのだろう。飛び出しかけた前足が止まり、尾が空を切る。その乱れはほんのわずかだったが、戦場ではそれで十分だった。
ヴィリスの指先が、空をなぞる。
「《マナ・コンバージェンス》」
目には見えない線が、空気の中で一瞬だけ結ばれたように感じた。
収束。圧縮。爆ぜる直前の沈黙。
――音のない衝撃波が、牙ネズミの群れに叩きつけられる。
三匹が同時に宙を舞い、そのまま木の根元に叩きつけられ、動かなくなった。
(……やっぱり、こいつ、ただの観測係じゃねぇ)
ちゃたろ〜はほんの一瞬だけ、メイスを持つ手の力を抜く。
その間に、別方向から影が飛んだ。
視界の端。背後。
「後ろ!」
ヴィリスの声が、音のない世界の中で、はっきりと届いたように感じた。
実際には、術式の外縁で彼女の声だけが通るよう調整されているのだろう。
「読めてる!」
ちゃたろ〜は反射的に振り向き、飛びかかってきた牙ネズミの顎をメイスで叩き落とした。
音がないぶん、骨が砕ける感触だけが腕を通じて鮮やかに伝わる。
それは昔、何度も感じた“戦場の手応え”と同じだった。
息と動作を整えながら、ちゃたろ〜は前へ踏み込む。
ヴィリスが術式で止めた群れを、その隙に滅多打ちにする。
光球で。
鈍い一撃で。
時に足払いで体勢を崩しながら。
牙ネズミたちは、次第に数を減らしていった。
十数分後。
森は、再び静寂を取り戻していた。
◇
《サイレント・フィールド》が解除されると同時に、世界は音を取り戻した。
鳥の鳴き声。
風が梢を揺らす音。
そして、自分たちの呼吸。
ちゃたろ〜は額の汗を拭いながら、ぐるりと周囲を見回す。
倒れた牙ネズミはすべて沈黙している。
「……あんた、やっぱり相当だな」
ようやく余裕ができてから、ヴィリスの方へ視線を向ける。
彼女はすでに魔弾書を開き、冷静に記録を書き始めていた。
「当然だ。監視役に選ばれたのは飾りではない。あなたが“万が一”暴走すれば、私が止める」
淡々とした声。
だが、その言葉の核には嘘がなかった。
ちゃたろ〜は肩をすくめ、口の端を上げた。
「俺を止める? ずいぶん大役押し付けられたな」
「そのために訓練され、術式を選んだ。……少なくとも、無力な観測者ではない」
言いながらヴィリスは、落ち葉についた血の飛沫を一瞥する。
それから視線を森の奥へ投げ、空の色を一度確認し、戻ってきた道の方へ足を向けた。
その横顔には、“任務だけ”では説明がつかない影があった。
地下研究施設。
契約の履行と破棄。
かつて人と天使という二つの種が、同じ場所にいた記録。
ヴィリスもまた、その延長線上へ立たされている。
そう直感するには、十分な重さがあった。
◇
帰路。
林道を歩く二人の足音だけが、乾いたリズムで続いていた。
枯葉を踏む音。
小枝が折れる音。
遠くでカラスが一声鳴き、すぐに飛び去る。
「……さっきの、“エー”の話、聞いてたか?」
ふいに、ちゃたろ〜が口を開く。
ヴィリスは視線を前に向けたまま答えた。
「白い部屋にいた、という話のことか?」
「ああ」
「聞いていた。……意図的に、聞かせてもらった」
隠すつもりはないらしい。
ちゃたろ〜は苦笑し、頭をかいた。
「やっぱり、ああいう話は、お前の記録にも残るのか」
「残す価値がある、と判断したものだけ」
そこで、一拍の間。
「そして、報告するかどうかを決めるのも、私だ」
その言い方が妙に引っかかった。
「全部、“上”に流してるわけじゃないってことか?」
「あなたは、よく喋りすぎる」
そう言って、ヴィリスは前を向いたまま、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑っているのかどうか、判別できない程度の、わずかな変化。
森を抜ける風が、二人の間を静かに通り過ぎる。
(やれやれ……思ってた以上に“重い役”を背負わされてるのは、俺だけじゃないってわけか)
ちゃたろ〜は心の中で舌を巻いた。
自分は、砦から生還した異物として。
ヴィリスは、その異物を観測し、必要とあらば処理するための術式の束として。
そして今、その二人が並んで森を歩き、同じ村へ帰っていく。
足元の土は相変わらず冷たい。
だが、その先に待っているのは、血の匂いではなく――小さな家と、ひとりの少女だ。
◇
屋敷へ戻ると、サナは縁側のあたりで座っていた。
膝の上には、ミーナの家から借りてきたらしい小さな布人形。
胸元には、いつもの銀のペンダント。
ちゃたろ〜の姿を見つけると、サナはほんの少しだけ目を見開いた。
「ただいま」
そう言って手を振ると、サナは――迷った末に、同じように小さく手を振り返した。
それだけで、森で張っていた緊張が少しほどけていく気がした。
「牙ネズミ、もう大丈夫だ。道も畑も、しばらくは安全」
言葉の意味をどこまで理解しているかはわからない。
けれどサナは、胸に抱いていた布人形をぎゅっと抱きしめ、ほんの少しだけ息を吐いた。
安堵に似た、短い呼吸。
その横で、ヴィリスがそっと視線を外した。
記録用の帳面を取り出しかけて――やめる。
指先が表紙に触れたまま、そこで止まる。
今日の森でのことは、あとで思い出しながら書けばいい。
今は、ここにある息と眼差しだけを、静かに見ていればいい。
ヴィリスは帳面をしまい、何も言わずに縁側の柱へ背を預けた。
森を抜けてきた風が、屋敷の庭を通り過ぎる。
銀のペンダントが、かすかな光を跳ね返した。




