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第42話「火を囲んで」

 朝霧の奥から、薪を割る音が乾いた響きを残して消えていく。


 まだ陽が昇りきらぬ時間だった。

 屋敷の土間には、夜の冷気がまだ薄く沈んでいる。その中央で、ちゃたろ〜は囲炉裏の火を起こしていた。


 くすぶっていた炭に細い薪をくべ、身をかがめて息を吹きかける。

 赤い火種は最初、頼りないほど小さかった。だが、何度か息を送るうちに、じわりと色が広がり、やがて炎となって立ち上がる。火が石の囲いに映り、壁の影がゆっくり揺れた。


 鍋の中では、刻んだ芋や根菜が静かに泡を立てている。

 鼻をくすぐるのは、土の匂いと油の匂いだった。焦げた鉄も、血も、薬品も混ざっていない。ただの、暮らしの匂いだった。


(こういう匂いの中で、毎朝起きられるのか)


 その実感は、少し遅れて胸へ落ちてきた。


 あの砦で目覚めた朝には、いつも何かが死んだあとの匂いがあった。乾ききらない血、焼けた木、腐りかけたもの、薬草の苦い湯気。朝が来ても、それらは何ひとつ消えていなかった。


 今は違う。

 鍋の中で柔らかくなっていくのは、食べるためのものだけだ。


「……サナ、もうすぐできるぞ」


 鍋の蓋を少しずらしながら声をかけると、土間の隅で洗濯桶に手を沈めていたサナが、ぱちりと瞬きをして小さく頷いた。


 桶の水は、朝の冷たさを残しているはずだった。

 それでもサナはためらわずに袖をまくり、ちゃたろ〜の作業着をすすいでいる。泥の筋が浮いた布を細い指先でしっかり掴み、ぎゅっと絞る。力はまだ弱い。だから、絞るたびに手元が少しだけぶれる。けれど、止めない。


 半月前まで、サナは水に触れること自体を怖がっていた。

 井戸の縁に座るだけで身体が強張り、桶を近づければ視線が逃げた。冷たいものへ触れることが、そのまま何かの記憶に繋がっているようだった。


 今は、自分から手を入れている。

 表情はほとんど変わらない。

 それでも、それだけで十分すぎる変化だった。


(……慣れた、って言うにはまだ早いか)


 ちゃたろ〜は木の柄を握り直し、鍋の底をさらう。


(けど、逃げてはいない)


 匙の先に、ごろりと芋の角があたる。

 ひとつすくい上げてみると、中心にはまだわずかに芯が残っていた。


 だが、それも悪くないと今日は思えた。

 少し固さが残っているくらいのほうが、噛んだ時に「今ここで食べている」と実感できる。


「今日は……ちゃんと“朝ごはん”だな」


 小さく呟く。


 サナが、洗い終えた布を桶から上げながらこちらを振り向いた。


 囲炉裏の火に照らされた横顔は、まだどこか遠くを見ているようにも見える。

 それでも、椀を受け取り、湯気の向こうでスープを啜った時――


 その頬が、ごくわずかに緩んだように見えた。


 ほんの一瞬だった。

 唇の端が、一ミリ上がるかどうかというところで止まったような、そんなかすかな動き。


 それを見逃す者は多いだろう。

 けれど、死なずに生き延びた者の目は違う。泣くより難しい笑いを知っている。ほんのわずかな生のほころびが、どれだけ大きいものかを知っている。


 ちゃたろ〜は、火のはぜる音に紛れるくらいの小さな声で、ほとんど自分にだけ聞こえるように言った。


「……うまいなら、それでよし」


 サナは何も答えない。

 ただ、もう一口、ゆっくりとスープを口に運んだ。


 胸元では、銀のペンダントが火の光を受けて淡く揺れていた。


    ◇


 昼前。

 ちゃたろ〜は戸口でサナの頭をひとなでしてから、外套を羽織った。


「留守番、頼む。ヴィリスも屋根裏にいる。何かあったら、すぐ呼んでいい」


 サナはきゅっと布の端を握り、小さく頷く。

 言葉はない。

 けれど、目はちゃんとこちらを見ていた。


 土の道を下り、村の中央へ向かう。


 秋の空気は乾いているが、どこか甘かった。

 干した藁と果実の匂い。それに混じって、遠くから焼いたパンの香りもする。人が住み、食べ、直し、また明日を始めるための匂いだ。


 村のギルド支部は、王都のそれとは比べものにならないほど小さい。

 石と木で組まれた素朴な建物に、古びた看板がぶら下がっている。魔封印の結界もなければ、大層な紋章もない。ただ、人が出入りし、生活の相談を持ち込む場所だった。


 扉を押すと、油を吸った木の匂いがした。


「いらっしゃい……あら、ちゃたろ〜君ね?」


 受付にいた四十代ほどの女性が、顔を上げて笑った。

 数度顔を合わせるうちに、もう名前で呼ばれるようになっていた。


「軽めの依頼があれば。日帰りで終わるやつ」


「はいはい。王都からの人って聞いて、最初はみんな構えてたけど……蓋を開けてみたら、畑仕事も屋根修理も黙ってやってくれるんだもの。“うちの若い衆よりよっぽど働き者だ”って評判よ」


「それは……その若い衆がかわいそうだな」


 苦笑しながら、掲示板に目をやる。


 『近隣の森にて魔獣の鳴き声/注意』

 『地下断層からの振動報告/調査依頼』

 『家畜小屋の板のきしみ/補修希望』


 魔獣、振動、板の修繕。

 並べて読むと、妙に不釣り合いな三つが、ひとつの板の上で共存していた。


「また貼られてるわね、変な報告が」


 受付の女性が、書類を整理しながらため息をつく。


「昨日なんて、“森が光ってた”って話もあるのよ。焚き火でもしてたのかしらね」


「獣の目なら夜は光るけどな」


「そういう光じゃないってさ。“ふわっと白く揺れてた”って。あんたみたいな人なら、何かわかる?」


 そこへ、たまたま手伝いに来ていた若い冒険者が口を挟んだ。


「俺も見たんすよ。森の上が、ほんの一瞬だけぼんやり光ったんす。嫌な感じっつーか……背中がぞわっとしてさ」


 ちゃたろ〜は肩をすくめた。


「森は、何かが死ねば光るときもある。何かが生まれても光ることがある。……どっちかは、実際に行ってみないとわからないな」


 軽く答えながらも、心の奥では別の勘が囁いていた。


 日常に紛れ込んだ、わずかな緊張。

 普段なら笑って流される“変な話”が、少しずつ数を増やしている。


(……少しずつ、来てるな)


 独り言のように漏らし、掲示板から目を離す。


 依頼の紙を一枚受け取り、支部をあとにした。

 秋の空はやけに澄んでいた。雲ひとつない青が頭上に広がり、それがかえって落ち着かなかった。


 空が綺麗な日に限って、地面の下では何かが軋んでいる。

 そういう嫌な感覚を、戦場で嫌というほど覚えた。


    ◇


 屋敷へ戻ると、庭先でサナが洗濯物を取り込んでいた。


 背伸びをしながら、まだ少し大きい布を両手で抱え込んでいる。布が風を受けるたびに身体ごと持っていかれそうになるが、それでも離さない。下手に急がず、一歩ずつ土間へ運ぼうとしている。


 ちゃたろ〜の姿に気づくと、サナは布の影からちらりと顔を覗かせた。


「ただいま」


 声をかけると、サナは小さく首を縦に振る。

 それから、ほんのわずかに歩み寄って、抱えた布を土間の方へ運び始めた。


 縁側に腰を下ろし、ちゃたろ〜はその様子を眺める。

 畑の向こうでは風が稲穂を揺らし、遠くの木立では鳥が鳴いている。


 ふと、視界の隅で小さな動きがあった。


 サナが、庭石の上にそっと指を伸ばしている。


 その指先には、一匹の小さな甲虫が乗っていた。

 光沢のある黒い殻に、小さな脚。サナは怖がるでもなく、追い払うでもなく、ただ黙って、その小さな命を見ている。


「……怖くないのか」


 問いかけると、サナは少しだけ顔を上げ、こくりと頷いた。


 甲虫は、彼女の指先を足場にしばらくじっとしていたが、やがて羽を震わせ、ふわりと空へ飛び立っていく。

 残された指先が空を切る。


 その刹那、サナの口元がふっと緩んだ。


 笑顔だった。


 声が出るわけでもない。

 歯を見せるほどでもない。

 けれど、確かにそこには“今、この瞬間を見ている子ども”の表情があった。


 ちゃたろ〜は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


(……守らないとな)


 言葉になる前に、感情が形を持つ。


 あの砦で守れなかったもの。

 何度も届かなかった手。

 その全部を抱えたまま、それでももう一度手を伸ばすと決めた先に、今この笑顔がある。


 その直後だった。


 空気が――震えた。


    ◇


 風はない。

 それなのに、屋敷の梁がごくかすかに軋んだ。


 耳鳴りにも似た圧が、空間全体を覆う。


「……っ?」


 ちゃたろ〜が反射的に立ち上がるより早く、サナの両手が淡い光を放ちはじめていた。


 指先から肩へ、そして胸元へ。

 目には見えない“何か”が、彼女の身体の中心へ向かって集まっていく。


 空間が揺れた。

 まるで、遠くから巨大な鐘の音が無音で響いてくるような、そんな歪みだった。


「サナ、待て!」


 叫ぶのと同時に、ちゃたろ〜は前へ飛び出した。

 光の軌道とサナの身体の間に、ほとんど反射で割り込む。


「プロテクトウォール!」


 盾を構えるのとは別の、もっと深いところから。

 ただ“守りたい”という衝動のほうが先に動いていた。


 透明な壁が音もなく立ち上がる。

 淡い光の波がそれにぶつかり、霧のように細かく散った。


 数秒。

 長いようでいて、一息分の時間。


 やがて揺らぎは収まり、梁の軋みも消えた。


 サナはその場にしゃがみ込み、肩を震わせている。

 胸元のペンダントが、まだ微かに熱を帯びているように見えた。


「サナ!」


 ちゃたろ〜は膝をつき、彼女の肩に手を置く。

 サナはしばらく呼吸を整えようとするように唇を震わせ、それからかすれた声で呟いた。


「……ごめ、なさい……」


「謝ることじゃない」


 即座に返しながら、その顔を覗き込む。


「何か……思い出したのか?」


 サナは視線を宙にさまよわせ、言葉を探すように間を空けた。

 そして、ぽつりぽつりと、ひとつひとつ石を置くように言う。


「……知らないはずの光景が、浮かんできた。白い部屋……誰かがいて……」


 そこで一度言葉が途切れる。

 喉の奥に何かが引っかかったように、息だけが漏れた。


「名前を……呼ばれた気がして……でも、思い出せない……」


「そっか」


 それ以上は追わなかった。


 引きずり出すことはできるかもしれない。

 だが、それをしていい段階ではないと、本能が告げていた。


「大丈夫。俺がそばにいる」


 それだけを、はっきりと告げる。


 サナの強張った表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 胸元のペンダントを、小さな手がぎゅっと握りしめる。銀の鎖が光を弾き、炎のようでも、涙の粒のようでもない輝きを見せた。


 その光が何かを押し返したのか、

 それとも逆に呼び込んだのか――

 今はまだ、誰にもわからない。


    ◇


 その日の夜。


 囲炉裏の火が、赤く、ゆっくりと燃えていた。

 鍋は既に空で、残っているのは器と香りだけ。火の光が天井の煤を照らし、時折、薪がはぜる音が静寂を割る。


 ちゃたろ〜とサナは並んで座っていた。

 彼は背を柱に預け、サナは毛布に包まれながら炎をじっと見つめている。


 外では虫の声が細く鳴き、風が板壁を撫でる。

 遠くに、犬の吠える音が一度だけして、すぐに消えた。


「……今日は、疲れたな」


 ちゃたろ〜がそう言うと、サナは小さく首を縦に振った。

 それから、躊躇いがちに口を開く。


「……ごめんなさい。あの、ひかり……」


「さっきも言ったろ。謝るな」


 言葉を遮るというより、支えるように。


「お前が悪いみたいに言うな。悪いのは、勝手に呼んでくるほうだ」


「……よんでくる?」


「知らない部屋とか、知らない声とか。お前の許可もらわずに“思い出せ”って押しつけてくるやつらだ」


 少しだけ言葉に棘を混ぜる。

 この世界の“上側”に対して、ちゃたろ〜の中にある感情は、最初からあまり綺麗なものではなかった。


 サナは、膝の上で手を握りしめた。

 その指先が、ゆっくりと胸元へ移動し、銀のペンダントに触れる。


「……こわかった。でも」


 言葉が続く。

 小さく、けれど確かに。


「さっき、ちゃたろ〜が、まえに立って……それで、すこしだけ、だいじょうぶになった」


「そうか」


 ちゃたろ〜はそれ以上何も言わず、ただ炎を見つめた。


 サナの「ありがとう」は、その少しあとだった。


「……ありがとう」


 火が柔らかく彼女の横顔を照らす。

 まぶたの影が長く伸び、睫毛の影が頬に落ちる。


 ちゃたろ〜は返事をしなかった。

 ただ、ゆっくりと頷き、少しだけ身体の位置をずらして、サナとの距離を縮める。


 肩と肩が触れるか触れないか――そのぎりぎりのところで止まる。

 触れたいわけでもない。

 触れてほしいわけでもない。

 ただ、“一人ではない”と身体でわかる距離だった。


 炎が、ぱち、と音を立てる。


 その背に、誰も気づかないほどかすかな震えが走っていた。

 サナの身体の奥底で、何かが目覚めようとしている震え。

 そして、ちゃたろ〜の胸の奥で、何かがかすかに軋む震え。


 それはまだ、“兆し”に過ぎなかった。

 けれど確かに、見えない鎖がこの小さな暮らしを締めつけはじめていた。


    ◇


 同じ頃、屋根裏。


 ヴィリスは小さなランプの灯りの下、机に広げた報告書と向き合っていた。

 羽ペンの先には乾きかけたインク。

 紙の端には、昼に記した文字が並んでいる。


《対象A:短時間の魔力暴走を確認。外部刺激によるものか内因かは不明。》

《プロテクトウォールによる抑制成功。魔力波形、現時点では安定に復帰。》

《今後も経過観察が必要。優先度:中――否、再検討の余地あり》


 最後の一文を書きかけたところで、ペン先が止まった。


 窓の外では、秋の虫が鳴いている。

 近くの森の方角から、ごくわずかに、空気の揺らぎが伝わってきた気がした。


 ヴィリスはそっと目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、夕方、甲虫を指に乗せたサナの姿。

 そして、そのあとで見た、光に包まれた小さな背中。


「……観察対象」


 自分で書いたその言葉を、かすれた声でなぞる。


 羽ペンを置き、報告書を伏せた。

 封筒はまだ開いている。封蝋は打たれていない。


「今、送れば――」


 この情報は、必ずどこかで“処理”される。

 王都か、辺境伯か、あるいはもっと別の誰かの手で。


 ヴィリスはしばし黙り込み、それからランプの火を少しだけ絞った。

 紙の上の文字が、闇に半分沈む。


「……記録は、もう少し、私だけが持っていましょう」


 独り言のように呟き、報告書を引き出しの奥へしまう。


 下の階から、囲炉裏の火のはぜる音がかすかに聞こえていた。

 それは、まだ確かにここにある“暮らしの音”だった。

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