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第5話「薬草の森と、毒牙の気配」

 陽が真上から、わずかに傾き始めたころだった。


 村の柵を抜け、東の森へ向かう道は、踏み固められた土の色が少しずつ濃くなっていく。畑の土の匂いが薄れ、かわりに湿った草と木の皮の匂いが混じり始める。遠くで聞こえていた人の話し声は消え、鳥のさえずりと、枝葉のこすれる音だけが残った。


(ここから先が、“森”か)


 一歩踏み入れるたび、空の色が緑に塗り替えられていく。木漏れ日がまだらに落ち、風が葉を揺らし、そのたびに影がゆっくりと形を変える。


 ティナの言葉どおり、入り口付近には魔物の気配はなかった。耳を澄ませても、聞こえるのは小さな虫の羽音と、鳥の羽ばたきだけ。


(安全地帯、ね……)


 “安全地帯”。


 元々はゲーム内で、出現モンスターのテーブルから敵を除外した区域の呼び名だ。だが今この世界には、その設定を管理する運営も、デバッグ用のコマンドも存在しない。


(安全“だった”場所が、今も安全だとは限らない)


 それでも今は、前に進むしかない。地図で示された印の方向へ、慎重に足を運んだ。


 しばらく進むと、森の雰囲気がわずかに変わった。


 草丈が少し低くなり、日差しが地面に届きやすくなる。土の色も、湿った黒から乾いた茶に変わっていた。風が吹くたび、すこし甘いような香りが鼻をかすめる。


(このあたりのはずだな……)


 膝をつき、葉をかき分ける。


 そこには、小さな群生が広がっていた。背丈は低く、丸みのある葉が地面を覆い、その中央から、薄い青色の小さな花がいくつも咲いている。


「……いたな」


 〈スウィートリーフ〉。


 ぶーぶークエストの序盤で、ポーションの代わりとして設計した回復用の薬草。口に含めば微量の活力を戻し、煎じれば簡易治療薬になる。


(ゲームだと“つまらない作業”の象徴みたいに言われてたっけな……)


 単純で、地味で、時間ばかり食う採取クエスト。だが今は、命をつなぐ資源そのものだった。


 根を傷つけぬように指を差し込み、土を崩して株ごと持ち上げる。余分な土を軽く払ってから、布袋へ丁寧に詰めていく。


 一握り。

 また一握り。


 土の冷たさと草の感触に指先が慣れ始めると、作業に集中しすぎて、時間の感覚が少しずつ薄れていった。


(これだけあれば、初期の回復には困らない……もう少し、数を――)


 そう思った矢先だった。


 ……風が、止んだ。


 さっきまで木の葉を揺らしていた空気の流れが、すっと消えた。木漏れ日の模様も、鳥の気配も、すべてが一瞬だけ“固まる”。


 耳に届くのは、自分の呼吸と、布袋がわずかに擦れる音だけ。


(……嫌な静けさだな)


 次の瞬間。


 草を踏みしめる、重い音がした。


 ズ……ッ。

 ズ……ッ。


 か細い獣ではない。大人の男が全力で走ったときと同じか、それ以上の質量が地面を叩く音。


(気配……ひとつ。小型じゃない。中型か、それ以上)


 ちゃたろ〜は、条件反射のように身を低くして茂みに身を伏せた。布袋の口を絞り、揺れないように押さえ込む。息を細く整え、胸の動きさえも殺す。


 やがて、木々の影から“それ”が姿を現した。


 灰色の毛並みは、ところどころ黒く汚れ、ところどころは逆立っている。四肢は地を抉るように踏みしめ、筋肉の筋が皮膚の下で波打つ。むき出しの牙からは、透明な液体が糸を引いて滴り落ちていた。


 甘ったるいような、喉の奥を痺れさせるような匂いが鼻を刺す。


(毒……)


 目と鼻、喉と皮膚。毒の匂いは、敏感な粘膜をじん、と焼く。


(毒牙ウルフ……)


 本来なら、この東の森でもさらに奥、初心者が足を踏み入れない深度に配置したモンスターだ。俊敏性と噛みつき攻撃、そして毒。“単独の初心者が遭遇したらゲームオーバー確定”とまで言われてもおかしくない初級キラー。


(おかしい。ここに出る予定じゃなかった……)


 脳裏で、かつての仕様書データが高速でめくれた。出現エリア。発生条件。リスポーン間隔。


 どれを取っても、“ここ”には該当しない。


(世界が、俺の知らない方へズレ始めている……)


 毒牙ウルフは、鼻を鳴らしながらゆっくりと歩を進めてくる。その進路の先には、スウィートリーフの群生。


 湿った鼻息が草葉を揺らし、鋭い赤眼が周囲を探る。


(……匂いを追ってる。獲物じゃなく、“何か”を探している嗅ぎ方だ)


 それでも、見つかった瞬間、襲いかかってくるのに変わりはない。


(気づかれるな。動くな。匂いを立てるな)


 時間が、伸びる。心臓の鼓動が、ひとつひとつ大きく聞こえる。


 やがて毒牙ウルフは、ちゃたろ〜の潜む茂みのほぼ真横まで来た。


 毛並みの間から見える皮膚には、古い傷跡がいくつも走っている。片耳は途中でちぎれており、その欠けた断面は黒く固まったままだ。“生き抜いてきた”魔物特有の、鈍い凶暴さが全身から滲んでいた。


 獣の湿った鼻先が、空気を切る。立ち止まり、耳をぴんと立て、呼吸のリズムを変えた――。


(……嗅ぎ分けている)


 汗の匂い。土の匂い。薬草の匂い。そのすべてを混ぜ合わせ、分解している。


(頼む……通り過ぎろ。ここはまだ“安全地帯”だって、思ってくれて構わない)


 願いは、たいてい裏切られる。


「ガルルッ!」


 低く、歪んだ咆哮とともに、毒牙ウルフの体が跳ねた。


 赤い眼がこちらを捉え、牙がきらりと光る。


(――見つかった)


 身体が先に動いていた。


 ちゃたろ〜は茂みの中で手探りに枝をつかみ、そのまま全力で振りかぶる。狙いをつける暇も、体勢を整える余裕もない。


 ただ、“顔面めがけて”。


 乾いた音とともに、枝が毒牙ウルフの鼻先に当たった。


「ギャウッ!」


 一瞬だけ、牙の軌道がずれる。それは致命傷を与えるほどの威力ではない。だが、わずかな“間”を生むには十分だった。


(今だ)


 ちゃたろ〜は地を蹴った。


 茂みを抜け、木の根を飛び越え、土を蹴散らして前へ。枝が頬をかすめても、転びそうになっても、構っている暇はない。


 背後から迫る咆哮が、背骨を冷たく撫でた。空気が押し出されるように震え、距離が一気に詰まっていくのがわかる。


(追いつかれる……!)


 呼吸が燃えるように熱い。足はとっくに限界を超えている。それでも走るしかない。


 その時だった。


 毒牙ウルフの足音が、唐突に止まった。


(……え?)


 咆哮も、迫る気配も消えた。代わりに、耳に届いたのは、獣が鼻を鳴らすような短い息の音。


 振り向かずともわかる。奴はその場で立ち止まり、耳を立て、別の方向を向いている。


 次の一瞬、森のもっと奥――闇が深くなる方向に、何かが“動いた”。


 音にはならない微かな変化。だが、野生の感覚を持つ獣にとって、それは十分な“異変”だったのだろう。


「グルルッ……」


 低く唸り、毒牙ウルフは進路を変えた。


 ちゃたろ〜を追うのをやめ、森の奥へ。その影は、枝と影のあいだに溶け込むようにして消えていった。


 木の影に背中を預け、ゆっくりとしゃがみ込む。肺が悲鳴を上げ、心臓がまだ全力で暴れている。


 額から流れた汗が、顎を伝って土に落ちた。


(……やり過ごした、のか)


 耳を澄ませる。しばらく待っても、追ってくる音はしない。


 代わりに、少しずつ風の音が戻り、小鳥の声が遠くで鳴った。


 森が、再び“平常”の顔を取り戻し始める。


(助かった、とは違うな。……見逃された、が近い)


 毒牙ウルフが進路を変えたのは、ただの偶然か。あるいは、もっと大きな“何か”に引かれたのか。


 どちらにせよ、今ここで考えても答えは出ない。


(……生きてるうちに、やることをやる)


 ちゃたろ〜は震える指先を握りしめ、立ち上がった。


 布袋を確認する。スウィートリーフは、さっきの混乱でもほとんど潰れていなかった。土は少し余分に入っているが、あとで払えばいい。


「……あと少しだけ、だ」


 追加で数株を掘り、袋の容量と相談して、ぴたりと手を止める。


 欲をかけば、また死地に足を踏み入れるだけだ。最低限の“生存ライン”を満たしたら、即撤退。


 それが、今の自分にできる最良の選択だった。


 森を出るころには、太陽はだいぶ西に傾いていた。木立の隙間から覗く空は、少しずつ橙色に染まり始めている。


 村の灯りが見えた時、ちゃたろ〜はようやく深く息を吐いた。


 柵の向こうから漂ってくるのは、焼いた肉の匂い、煮込んだ豆の匂い、そして人の声。それは、ついさっきまで牙を向けてきた森とは対極の、“生”の匂いだった。


(これが……冒険者の“現実”か)


 紙の上では「初心者向け」で「安全な採取クエスト」。だが、ほんの少し条件が狂えば、そこは死地に変わる。


 “安全地帯”なんて、本当はどこにもない。


 それでも――


(俺は、生きて戻った)


 依頼を受け、自分の足で森へ入り、自分の手で薬草を採り、自分の判断で戻ってきた。


 報酬はわずかだろう。ギルドの評価表に刻まれる文字も、きっと小さい。


 それでも、今日のこの一日が、確かに線を一本引いた。


 “この世界で生きる”という線を。


(ここから、だ)


 ちゃたろ〜は木札を軽く指で叩き、ギルドの灯りへと歩みを向けた。


 その足取りはまだ少し重く、膝もわずかに震えていたが――迷いだけは、もうそこにはなかった。

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