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外伝《マリアベル》

 死の砦に送られた者たちが、「帳簿の上で」死ぬ日がある。


 今日が、まさにその日だった。


 朝一番で書記官から渡された書類の束には、赤い糸で印がつけられている。

 その一束は、他のどの報告よりも重く、どの依頼書よりも静かだった。


(死の砦・第七次調査隊——)


 表紙にそう記されている。


 正式名称は別にある。

 だが、ギルド内部でこの任務を“本当の名前”で呼ぶ者はいない。


 地下研究施設の廃墟。

 かつて人と天使族が結んだ契約を、一方的に反故にした場所。

 怒りを買い、残されたものをごまかすために上から砦を建て、その隠蔽のうえにさらに「調査」という名目の封印を重ねた。


 砦に関わった者は、すべて闇に封じる。

 ——それが、国家の決定であり、ギルドの役割だった。


 書類上はただ、「危険な廃砦の調査に赴き、全滅した」ことになっている。


 わたくしの仕事は、その“全滅”を数字に変えること。


 死亡扱いに切り替える冒険者の名に赤線を引く。

 遺族への事務連絡を、「行われたことにする」ための書類に署名する。

 孤児院への紹介状を、実際には渡さないまま封じる。


(フィーネ。……あなたも、ここで消えるのね)


 薄い紙に印刷された名前を見下ろしながら、わたくしは特別な感情を挟まないよう努めた。


 あの子は、この街には向いていなかった。

 視る側の素質を持ちながら、魂が脆すぎる。


 死の砦という“境界”に最も相性が悪い者。

 だからこそ、そこに送り込まれた。


(少なくとも、“読み違え”ではありませんわ)


 死の砦に送る名簿を見たとき、わたくしはそう判断した。

 彼女は、残念ながら戻らない。

 そういう「色」をしていた。


 彼女の名前の横に、赤線を引く準備をしながら、表情筋だけはいつもどおりに整える。


 窓口は、今日も開くのだ。


 死んだとされた者たちが、静かに帳簿から消えていくその日に。


     ◇


「窓口、開きます」


 いつもの合図で、大扉が開く。

 冒険者たちのざわめきが流れ込み、書記官たちが忙しなく走る姿が視界の端を過ぎる。


 下位冒険者の顔ぶれは、ほぼ昨日と同じ。

 酒場帰りのふらついた足取り。

 報酬の前払いを求める成金の商人。

 政治的な匂いをさせた貴族の使い。


 どれも、“いつもの世界”だ。


 わたくしはひとりひとりを捌きながら、頭の片隅で別の計算を続けていた。


(死の砦・第七次調査隊。

 表向きは、本日をもって“消息不明扱いから死亡扱いへ切り替え”。

 遺体は戻らず、遺品もなし。

 生存者も——)


 生存者も、いないはず。


 少なくとも、そういう扱いになる。


 そう結論づけたところで、扉のほうから、空気の色が変わる気配がした。


 ざわめきが、縫い目からほつれるように変質する。


「……おい、あれ……」

「嘘だろ……?」

「砦から……?」


 扉の外で、声が一瞬かすれる。


 わたくしは、反射的に顔を上げていた。


 白い大扉が、軋んだ音を立てて、ゆっくりと開く。


 雨に濡れた灰色の光の中に——

 “死んだはず”の匂いを纏った影が、二つ立っていた。


     ◇


 最初に視線が捉えたのは、少年のほうだった。


 ライトメイスからメイス盾へ。

 村の推薦状を携え、三つの依頼をこなし、死の砦行きの特別任務を告げられたときも、ほとんど揺れを見せなかった少年。


 ——ちゃたろ〜。


 全身濡れているのに、その歩みは崩れていない。

 鎧の縁には乾ききらない血と泥。

 目の下には深い疲労の影。


 それでも、その眼は、砦に向かう前と同じように「静か」だった。


(……生きて、戻った)


 想定の外側の事象が、現実として目の前にいる。


 わたくしの指先が、帳簿の上で僅かに止まる。


 その隣に、小さな影が立っていた。

 フィーネではない。


 年の頃は、十にも満たないだろうか。

 大きすぎる外套にすっぽりと身を包んだ少女。

 顔色は悪く、唇は青い。

 だが、眼だけは妙に冴えていた。


 焦点の合い方が、普通の子どもと違う。

 遠くの何かと、近くの何かを同時に見ているような目。


(……この子も、“向こう側”をかすめてきた)


 死の匂いを知っている者の瞳だ。

 ただ怯えているだけの子どもなら、もっと濁る。


 けれど彼女の瞳には、恐怖に染まり切らない透明さが残っていた。


「……次の方」


 列を整理し、わざといつもと同じ調子で声をかける。


 ざわめきは、わたくしのその一言で、かろうじて“日常”の体を取り戻した。


 少年は、少女をかばうように半歩前に立ち、こちらへ歩み寄る。


 足取りにふらつきはある。

 けれど、それは疲労ゆえであって、恐怖ゆえではない。


 わたくしの前で足を止めたとき、その眼差しが一瞬だけ揺れた。


 王都の空ではなく、

 このギルドの天井でもなく、

 ましてわたくしの顔でもない。


 ——何か、背後のもっと遠いものを、一瞬だけ確認するような視線。


(……砦の底を、見てきましたのね)


 心の中だけで、そっと呟いた。


     ◇


「……お帰りなさいませ。

 無事で、何よりですわ」


 口から出た言葉は、形式的なものだった。


 本来なら、ここで「死亡報告」の補正処理に入るはずだった。

 “生還者なし”として整理されるはずだった書類を、“あり”に書き換えねばならない。


 けれど、書類の修正よりも先に、この目で確かめたいことがあった。


「任務の報告書は、お持ちで?」


 少年は、濡れた外套の内側から一つの封書を取り出した。


 紙は湿っているが、文字は読める程度には守られている。

 わたくしはそれを受け取り、封を切った。


 中身は、驚くほど簡素だった。


《死の砦内部、調査困難。

 霧状の魔力濃度高く、侵入者の精神・肉体に異常影響あり》

《同行者の一部、霧に呑まれ消息不明》

《砦内部構造、変容の兆候》

《これ以上の人員投入は、危険性高》


 ——それだけ。


 具体的な階層構造も、

 遭遇した現象の詳細も、

 戦闘の描写も、ほとんどない。


(……“語れない”のか、“語らない”のか)


 文章の端々から伝わるのは、丁寧さでも怠慢でもなかった。


 砦という場所そのものが、言葉にした瞬間、嘘になる類いのものだと理解している者の書き方。


 目の前の少年が、そこまで自覚的なのかどうかはわからない。

 でも、少なくとも“無理に説明しようとしていない”ことだけは分かる。


「死者の確認は?」


 わたくしの問いに、少年は一瞬だけ目を伏せた。


 その仕草に、フィーネの面影がよぎる。


 霧の向こうに消えていったであろう少女。

 死と生の境界に、あまりにも近すぎた魂。


「……戻ってこなかった」


 それだけ。


 名前も、状況も、彼は口にしない。

 でも、それだけで十分だった。


(フィーネ。——死亡。

 これは、“予見どおり”)


 帳簿の端に、赤い印をつける自分の手つきが、ほんの少しだけ重く感じた。


 一方で。


 その隣に立つ、名も知らぬ少女は、生きてここにいる。


 霧の境界をかすめ、

 砦の底を覗き込んだはずの眼をしながら、

 それでも「こちら側」に戻って来ている。


(この子は、名簿に載っていなかった)


 わたくしが把握している限り、死の砦に送られていた名簿には、この年頃の少女の名前はない。


 つまり——


「そのお嬢さんは、砦の内部で?」


 少年が、微かにうなずく。


「生きてた。

 ……そこに置いておくわけには、いかなかった」


 簡潔な言葉。


 だけど、その一行の裏には、相当数の“選択”が詰まっているとわかる。


(砦に囚われていた者か、

 あるいは、契約破棄の際に取り残された者の血筋か。

 どちらにせよ、“この国の帳簿には存在しない子”)


 本来なら、連れ帰るべきではなかったのだろう。


 砦の歴史を知る者たちにとっては、

 この子の存在そのものが“余計な真実”になる。


 けれど——


 目の前の少年は、そういう計算で動かない。


(この子を置き去りにする未来を、この子自身に選ばせなかった)


 そういう種類の“異物”。


     ◇


「では、生存者二名。……いえ、一名と、一名“保護対象”。

 死者多数。霧に呑まれ、遺体の回収は不可能」


 事務的に言葉を整えながら、わたくしは帳簿をめくる。


 死の砦に関わったものは、本来すべて闇に封じる。

 生還者が出たという事実すら、本当は“不都合”な情報だ。


(それでも——)


 目の前で息をしている者を、

 「いなかったこと」にはできない。


 それが、わたくし個人の倫理なのか、

 ギルド職員としての矜持なのか、

 それとも単に“算盤の癖”なのかは、自分でも判然としない。


「保護対象のお嬢さんについては、身元の確認が必要ですわね」


 少女は、わたくしの言葉にびくりと肩を震わせた。


 濡れた前髪の隙間から覗く瞳が、

 わずかにこちらに向く。


 怯えと、警戒と、それから——

 かすかな期待。


 名を問おうとして、わたくしは唇を閉じた。


(……今、ここで名前を与えるべきではありませんわね)


 砦の底から戻ってきたばかりの魂に、

 この王都の記録用の名を貼りつけるのは、まだ早い。


 彼女が自分で口にするときまで、

 せめてそれくらいの余白は残すべきだ。


「身元不明の少女として、一時的にギルド保護扱いといたします。

 そのうえで、孤児院への斡旋手続きを——」


「待ってくれ」


 少年の声が、その言葉を切った。


 鋭くも荒くもない。

 ただ、真っ直ぐにこちらへ伸びてくる声。


 わたくしは、ゆっくりと目を上げる。


「……何かしら?」


「その子は……」


 一拍の間。

 ほんの短い沈黙の中で、

 少年の視線が横の少女に向かう。


 砦の霧の匂いをまだ纏った、小さな肩。

 この王都のどこにも居場所を持たない、小さな背中。


 それを見下ろす彼の眼が、わたくしにははっきり見えた。


「その子は、俺が……見る」


 “引き取る”という言葉を選ばなかったのは、

 彼がこの街の制度をよく知らないからか。

 あるいは、あえて“自分の枠”を限定しようとしたのか。


 どちらにせよ、その宣言は十分だった。


「……あなたが?」


 思わず、問い返してしまう。


 冒険者が孤児を引き取ることは、原則として認められていない。

 生活の不安定さ、安全性の低さ、教育環境の不備——

 理由はいくつもある。


 この街の制度は、“あのような子”を守るために作られているわけではない。


「王都の孤児院は、悪くない場所ですわよ」


 わたくしは、事務的な言葉を並べる。


「最低限の衣食住が保証され、教育も施されます。

 危険な場所へ連れ出されることもありません。  あなたのような方と違って」


 わざと、最後の一文に棘を仕込む。


 それでも彼は、眉ひとつ動かさなかった。


「この子は……砦にいた」


「ええ、そう伺いましたわ」


「砦は、もう“戻れない場所”だ」


 短く、当たり前の事実を言うように。


「だったら、せめてこの子にとっての“普通”を……俺が作る」


 普通。


 この王都で、その単語をこんな形で使う人間を、わたくしはほとんど知らない。


 貴族にとっての普通。

 冒険者にとっての普通。

 商人にとっての普通。


 それらはすべて、「自分の側」の都合で定義される。


 けれど少年の言う“普通”は、

 どうやら自分のためではないらしかった。


(この子の“普通”を……?)


 砦から連れ出され、王都の石畳を初めて踏んだこの少女にとって、

 普通など、まだ何ひとつ形になっていないはず。


 その空白を、自分が埋めると言ってのける愚かさ。

 ——あるいは、勇気。


「あなた、ご自分の立場が分かっていて?」


 わたくしは、あえて冷たく問う。


「上位職登録を終えたばかりのメイス盾。

 安定した収入も、定住先も確保していない。

 危険な依頼に身を投じる職業。  そんなあなたが、“保護者”を名乗ると?」


 普通であれば、ここで引き下がる。

 あるいは、少し声を荒げて反発する。


 どちらも、わたくしの想定の範囲内。


 だが——


「立場なんか、どうでもいい」


 少年は、静かにそう言った。


 声量は上げない。

 視線も逸らさない。


「この子を置いていくくらいなら、

 メイス盾を“なかったこと”にしてもいい」


 その瞬間、

 わたくしの思考が、一拍遅れた。


(……今、何と?)


 この街で、上位職登録を得ることがどれだけの意味を持つか、

 彼は知らないわけではないはずだ。


 三つの依頼をこなし、

 死の砦という特別任務を生き延び、

 ようやく掴んだ「盾としての道」。


 それを、「この子を守れないなら要らない」と言っている。


 計算が、合わない。


(あなたの目標は、“メイス盾になること”ではなかったのですの?)


 わたくしは、彼の記録を思い出す。


 村で等級外魔獣を退け、

 自分の命を顧みず仲間を庇い、

 それでも「自分の功績」として申請することに興味を示さなかった少年。


(……ああ、そういうこと)


 脳内で、いくつかの点が線になる。


 この少年にとって、“職”は目的ではない。

 道具だ。

 自分が「こうありたい」と望む姿に、世界を少しでも近づけるための。


 だから、道具そのものを失うことは、大した問題ではない。

 道具を手に入れたうえで、「望む形」を選べないほうが、彼にとっては致命的。


(厄介ですわね、本当に)


 世界の側は、そういう人間が一番嫌いだ。


 妥協せず、

 諦めず、

 制度の外側から「こうあるべきだ」と平然と言い放つ者。


 時にそれを英雄と呼び、

 時にそれを災厄と呼ぶ。


 どちらに転ぶかは、力の行使の仕方ひとつ。


「……困りましたわね」


 わたくしは、ため息を漏らすふりをした。


 内心では、別の感情が静かに膨らんでいる。


(読み違えましたわ、完全に)


 この少年を、わたくしは「死の砦で消える駒」として盤に置いた。

 生還は、数字の上ではゼロに限りなく近い可能性。

 生還したとしても、砦の底を覗き込んだ目は、二度と日常に戻れない。


 そのどちらか——

 そういう種類の賭けだと思っていた。


 けれど、実際に目の前にいるのは。


 砦の底から、見知らぬ少女を引きずり出し、

 自分の道具をすべて投げ出してでもその子の「普通」を作ろうとする。


 ——世界のほうを、少し動かしてしまった側。


     ◇


「規則のうえでは、あなたの言い分は通りません」


 わたくしは、あえて冷淡に言う。


「孤児院という制度は、戦災孤児や事故死の子どもたちを守るために作られたもの。

 不安定な冒険者に、簡単に“保護者”の座を渡すわけにはまいりません」


「そうか」


 彼は短く答えるだけだ。


 諦めた声でもない。

 怒った声でもない。


 ただ、次の手を探しているだけの沈黙。


「……ですが」


 わたくしは、書類の束をぱらりとめくる。


 規則には、穴がある。

 制度は、運用する側の人間の“解釈”によって、いくらでも形を変える。


 わたくしはこの五年間、その穴を塞ぎ続けてきた。

 利己的な利用を防ぎ、

 弱者が不当に搾取されないように調整してきた。


 でも——


(今くらいは、その穴を“開く側”に回っても構いませんわよね)


「死の砦から戻った者は、原則としてギルド管理下に置かれます」


 これは、半分は本当で、半分は嘘だ。


「しばらくのあいだ、あなたには王都近郊の依頼のみを斡旋いたします。

 宿もこちらで仮手配。  そのうえで——」


 ペン先を、一枚の紙の上に走らせる。


《死の砦帰還者監視対象:一名》

《保護対象(身元不詳の少女)一名を伴うことを許可》

《保護責任者:メイス盾(上位職登録)ちゃたろ〜》


 文字にしてしまえば、それはもう“決定”になる。


「あなたとそのお嬢さんは、しばらくのあいだ“監視下の特例扱い”として、王都に滞在していただきます」


 監視——という単語に、周囲の空気が僅かに張り詰める。


 冒険者たちは、それを嫌う。

 自由の対価として、常に何かを差し出している者たち。


 けれど少年は、ほとんど迷わず頷いた。


「それで、この子を俺から引き離さないなら……構わない」


「ええ。少なくとも、わたくしの窓口を通る限りは」


 それは約束でも保証でもない。

 ただの“宣言”だ。


 ギルドという巨大な組織の中で、

 受付嬢一人にできることには限りがある。


 それでも、窓口という“入口”を抑えているのはわたくしだ。


 その入口を通る書類の形くらいは、変えられる。


「……感謝する」


 そう言ったときの少年の顔は、不思議と静かだった。


 安堵でもなく、喜びでもなく。

 ただ、「道が一本確保された」と理解した者の顔。


 横で少女が、彼の袖を掴む指を少しだけ強くする。


 まだ名前を持たない、小さな手。

 砦の霧からこちら側へ戻ってきた、小さな生命。


(あなたたちを、ここまで連れ戻したのは誰かしら)


 少年か。

 砦の何かか。

 あるいは——この国の、まだ見ぬ“別の意志”か。


 わたくしには、まだわからない。


     ◇


 手続きが一通り終わり、

 少年と少女がギルドを後にする頃には、外の雨はさらに強くなっていた。


 大扉の向こう、灰色のカーテンの中に、二つの影が溶けていく。


 少年は、少女の歩幅に合わせて歩いている。

 決して急がない。

 決して引っ張らない。


 ただ、隣にいる。


(あの砦で、誰の手も届かなかったであろう場所で、

 あなたはその子の手を取ったのですわね)


 想像でしかない。

 でも、わたくしの中では、それ以外に考えようがなかった。


 フィーネは霧に呑まれ、

 名も知らぬ少女は、霧の向こうから連れ出された。


 死と生の線引きを、

 この少年は自分の都合で引き直した。


(世界の側が決めた“線”を、勝手に動かす——)


 その行為を、

 わたくしは恐ろしいと思う。


 同時に、限りなく魅力的でもあると思ってしまう。


(わたくしは、この少年を“駒”として扱えると思っていた。

 死の砦という盤の上で、使い捨てることも辞さないつもりだった)


 そこに、一片の迷いもなかったはずだ。


 辺境伯閣下への報告書にも、

 「盤上に乗るが、既存の駒との連携は困難。死の砦級の案件においては利用価値あり」

 ——そう明記した。


 けれど、現実に起きたことは。


 盤の外側から、わたくしの知らないルールで駒を動かされ、

 「死ぬはずの子」がひとり、生きて帰ってきた。


(これは、敗北ですわ)


 誰に言うでもなく、心の中で認める。


 わたくしが誇っていた“読み”が、

 初めて、世界に対して負けた瞬間だった。


 それは怖い。

 同時に——堪らなく嬉しい。


 世界は、まだわたくしの知らない形で、壊れ方を用意している。

 その壊れ方のひとつが、あの少年の歩幅に紛れている。


「……本当に、厄介な子を拾ってきてくださいましたわね、閣下」


 小さく呟き、窓から視線を外す。


 これから先、

 ちゃたろ〜という少年の動きは、

 辺境伯閣下も、ギルドも、教会も、誰もが注視することになるだろう。


 でも。


(最初に“読み違えた”という記録は、

 わたくしの中だけに残しておきますわ)


 死の砦で死んだはずの少女が、生きてここにいる。

 名も与えられていないその子を、「普通」に連れ出そうとする少年がいる。


 白い窓口の内側で、

 わたくしという小さな怪物は、別の怪物を見つけてしまった。


 これが、わたくしとちゃたろ〜との、

 長い長い“観測”の始まりだった。

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