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4章 第38話「新しい家」

 馬車が最後の丘を越えた瞬間、風景が変わった。


 王都の石畳を打つ車輪の硬い音も、人の声が何層にも重なって響くざわめきも、もうここまでは届いてこない。ついさっきまで背にしていたはずの喧騒が、まるで別の国の出来事みたいに遠のいていた。


 代わりにあるのは、土の匂いだった。

 雨を吸った草の匂い。

 少し遅れて、湿った木の匂い。

 風が吹くたび、耕されるのを待っている空き地の土が、やわらかく呼吸するみたいに香った。


 そこに、一軒の家があった。


 石壁は古い。

 白かったはずの漆喰はところどころ剥げ、苔が雨筋に沿って細く張りついている。屋根の端はわずかに歪み、軒下には誰かが何度も補修した跡が残っていた。庭は広くはないが、何かを植えるには十分な土がある。片隅には小さな畑の名残のような盛り上がりがあり、井戸は丸い石の縁を静かに濡らしながら、深く口を開けていた。


 門扉は新しくない。だが壊れたままでもなかった。

 塗り直された木目の下に、古い傷がまだ残っている。


「……ここか。俺たちの暮らす家」


 口にしてみても、まだ実感はなかった。

 けれど、王都の宿にいた時とは違う空気が、たしかに胸の奥へ落ちてくる。


 ここは通り過ぎる場所じゃない。

 隠れる場所でもない。

 戦うために与えられた拠点ではなく――生きるために使う場所だ。


 隣で、サナが足を止めた。


 大きすぎる外套の裾を握ったまま、じっと家を見上げている。視線は扉ではなく、まず屋根の端へ向かった。次に軒下の影、井戸の周囲、庭の隅、塀の向こう。逃げ道を探しているのでも、物珍しさに見回しているのでもない。


 帰ってはいけない場所ではないか。

 閉じ込められる場所ではないか。


 そう確かめるような、慎重すぎる見方だった。


 ちゃたろ〜はその横顔を少し見てから、しゃがみ込み、彼女と目線を合わせた。


「怖いか?」


 サナは答えなかった。

 ただ、その代わりに、ちゃたろ〜の袖を小さく摘んだ。


 きゅ、と。

 本当にそれだけの力だった。


 けれど、言葉よりもずっとはっきりしていた。

 離れたくない、ということ。

 まだ信じ切れてはいないが、ひとりではいたくない、ということ。


 それだけで十分だった。


 生きたまま帰った。

 だから次は、生きて暮らす。


 今は、まだそれだけでいい。

 そう思えた。


────────────────────


 屋敷の入り口で待っていたのは、ヴィリスだった。


 淡い銀髪は、曇天の下だとほとんど白に見える。年齢は判別しづらい。二十代の若さにも見えるし、三十代の落ち着きもあり、光の加減によってはもっと年上にも見えた。肌は驚くほど白いのに、不健康というより、余計なものを削ぎ落としすぎた色だった。


 彼女は片手に魔弾書を抱え、こちらへ数歩だけ歩み出た。


 その瞬間、ちゃたろ〜は理解した。


 この女は、“実力を隠す歩き方”をしている。


 足音を消しすぎない。

 気配を薄くしすぎない。

 視線をぶつけすぎず、しかし視界の端からは決して消えない。

 正面から威圧はしないのに、どの角度からでも対応できる位置を自然に取っている。


 軍人とも違う。

 冒険者とも違う。

 前に出て制圧する戦い方ではなく、境界を握って相手に選ばせない戦い方だ。


 ヴィリスは書を軽く抱え直すと、抑揚の少ない声で言った。


「辺境伯より命じられ、あなた方の生活を監督します。必要以上の干渉はしません。生活は自由に。ただし、観察・記録・報告は義務です」


「監視ってことか」


「ええ」


 彼女は否定しなかった。


「ですが脅しではありません。あなたが信用を必要とする時、証明するための“記録”にもなります」


 線引きのある言い方だった。

 曖昧に優しくしないかわりに、誤魔化しもしない。


 サナは、そんなヴィリスを見上げていた。

 怯えてもおかしくないはずなのに、不思議と身体を強張らせていない。むしろ、王都の役人や宿屋の主人に向けていた警戒よりも、ずっと静かだった。


 理由は、ちゃたろ〜にもすぐ分かった。


 感情を押し付けてこない大人だけが、サナの安全を壊さないからだ。


 かわいそうだと決めつけない。

 無理に笑わせようとしない。

 優しさの形を押しつけない。


 ヴィリスはただ、ここにいられる条件だけを先に示した。

 だから、怖くない。


 沈黙と沈黙が、敵対せず並んでいた。


────────────────────


 生活は、そうして始まった。


 朝は薪に火を起こすところから始まる。

 湿り気を残した細枝に火打ち石の火花を落とし、息を吹きかけると、最初は弱々しかった橙色が、やがてぱち、と小さな音を立てて広がっていく。鍋に井戸水を汲み、切った根菜を落とす。煮立つまでのあいだ、家の中には少しずつ湯気の匂いが満ちていった。


 サナは最初、少し離れた場所からその様子を見ていた。


 近づきたい。だが近づいて邪魔をしたくはない。

 手伝いたい。だが、何をしていいのか分からない。


 そんな迷いが、その小さな立ち位置によく出ていた。


「皿、並べるか」


 ちゃたろ〜が言うと、サナは一瞬だけ目を見開いたあと、こくりと頷いた。


 棚から皿を出す手つきはぎこちない。

 指先にまだ力が入りすぎていて、陶器を落とさないように慎重になりすぎている。けれど、ひとつ並べ、もうひとつ並べ、最後の一枚をそっと置き終えた時の顔には、ほんのかすかな達成感があった。


 手伝うという意志がある。

 それだけでも、十分に奇跡だった。


 日中、ヴィリスは屋根裏部屋で魔弾書に記述していることが多かった。

 紙をめくる音、ペン先が走る音、ときどき窓が開いて風が通る音。それらが静かに二階から降りてくる。見張られているはずなのに、その視線は棘にならない。不思議なことに、家の空気から温度を奪わなかった。


 監視なのに、不快ではない。

 距離があるのに、冷たくない。


 理由はすぐに分かった。

 ヴィリスは常に、結論を先に置くからだ。


「危険は排除する。境界は守る。必要なら助ける」


 ある日の昼、薪の置き場所を確認するついでのように、彼女はそう言った。

 それだけだった。


 余計な情はない。

 慰めも、希望を煽るような言葉もない。


 けれど、だからこそ信じられる芯があった。


(この人は、線の外まで踏み込まない)


 ちゃたろ〜はそう思った。


 勝手に心の中へ入り込んでこない。

 だが、線を越えて崩れそうになった時には、ためらわず引き戻すつもりでいる。


 壁ではない。

 拒絶でもない。

 境目を示すための柵だ。


 越えたら終わり、ではなく――越えそうになった時に止めるための線。

 そんな種類の大人だった。


(だからこそ、こっちから踏み込める日が来るかもしれない)


 そんな未来の形すら、かすかに想像できた。


────────────────────


 その夜、暖炉の火は柔らかく燃えていた。


 昼間よりも湿り気の強い風が窓の隙間で鳴り、古い家はところどころで小さく軋む。けれど、その軋みは砦で聞いた崩壊の前触れとは違った。木が生きている音だ。長く使われてきたものが、まだ役目を終えていないと告げる音だった。


 サナは暖炉の前で眠っていた。

 膝を少し抱え込むような格好で、胸元の銀のペンダントだけをしっかり握りしめている。


 眠っているのに、指だけは緩まない。

 失うことを拒む動きだった。


 その仕草に、フィーネの面影が重なる。


 ちゃたろ〜は壁に背を預け、膝の上でナイフを削っていた。

 柄に刻んだ傷は、砦で守れなかった記録だ。数えるためではない。忘れないための傷だった。


 守れなかった。

 だが、生き残った。


 だから、次は守る。

 それだけだ。


 暖炉の火がときおり揺れ、刃先に赤い光がかすかに走る。

 その明滅を見ながら、ちゃたろ〜は長く息を吐いた。


────────────────────


 翌朝。


 まだ朝の光が薄い時間に、ヴィリスは書類を手に階段を降りてきた。足音は小さいが、隠してはいない。聞こえるように歩くのは、気配を消したまま近づくべきではないと分かっているからだろう。


「辺境伯より任務。明日、隣村の魔獣調査に出向いてください。脅威C未満」


「了解、でいいのか?」


「形式上、あなたの意思を聞いただけです」


 そう言ってから、ヴィリスはほんのわずかに言葉を置いた。


「けれど――拒否するなら止めません」


 意外な言葉だった。


 監視者であるはずなのに、選択を渡してくる。

 命令ではなく、条件付きの依頼として置いてくる。


 ちゃたろ〜は少しだけ眉を上げた。


「……守る気なんだな」


「境界を守るのは私の役目です」


 ヴィリスの答えは、やはり短かった。


「サナも、あなたも。壊れる前なら救える」


 その瞬間、ちゃたろ〜はようやく気づいた。


 ヴィリスの線は、壁ではない。

 柵だ。


 中へ閉じ込めるためではなく、落ちる前に引き止めるための境界。

 彼女は冷徹なのではない。

 壊れないために、必要な場所だけを冷やしているのだ。


 サナはそんな二人のやり取りを、椅子の上で膝を抱えながら静かに聞いていた。

 全部を理解しているわけではないだろう。

 けれど、ここで交わされている言葉が、自分の暮らしにも関わるものだということは分かっている顔だった。


────────────────────


 ここから始まる三人の生活は、まだ静かだった。


 ぎこちなくて、

 距離があって、

 家族と呼ぶには、あまりにも手前にある。


 けれど、その静けさはもう、砦の死んだ沈黙ではない。


 皿を並べる音がある。

 鍋が煮える音がある。

 階上で紙をめくる音がある。

 眠る子どもの呼吸がある。


 それだけで、家は少しずつ家になっていく。


 監視が家族に変わるには、まだ時間がかかるだろう。

 だが、変わり始めていることだけは、もう誰にも止められなかった。


 明日は魔獣調査。

 生活の中に、戦いの匂いが少しだけ戻る。


 それでも今は――


 戦うために生きるのではなく、

 生きる理由がある日々だった。

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