第37話「継がれた願い」
王都へ向かう街道の途中。
雨上がりの曇天の下で、俺と少女は並んで歩いていた。
道はぬかるみ、踏み出すたびに靴底が鈍く沈む。
風は冷たく、濡れた外套の隙間から体温を奪っていく。
それでも――
手のひらに伝わる、小さな体温だけは確かだった。
細く、弱く、だが消えていない。
あの砦を越えて、なお残った温もり。
それが、足を止めさせなかった。
守るべきものがあるとき、人は前に進める。
その事実を、俺は初めて“実感”として知っていた。
休憩のため、街道脇に残された古い祠の跡に腰を下ろす。
屋根は失われ、石組みだけが風雨に晒されている。
祈られなくなった場所。
役目を終えた神の名残。
少女は、すでに眠っていた。
疲労と恐怖が一気に押し寄せ、深い眠りに落ちている。
眉間に刻まれた小さな皺。
眠っているのに、完全には休めていない顔。
俺は荷から、小さな布に包まれたものを取り出した。
――フィーネの銀のペンダント。
崩れた瓦礫の中で、かろうじて見つけ出した遺品。
鎖は切れ、表面には無数の擦り傷と凹みがある。
派手な装飾はない。
どこにでもありそうな、ありふれた銀細工。
だが、それは確かに――
彼女が生きていた証だった。
彼女は最後に、この子を守ろうとした。
それだけじゃない。
俺をも、生かした。
自分の命と引き換えに。
何の見返りもなく。
その願いを、ここで終わらせてはいけない。
眠る少女の胸元に、ペンダントをそっとかけてやる。
銀の冷たさに、小さな肩がぴくりと動いた。
だが、目を覚ますことはなかった。
安心したように、呼吸がゆっくり整っていく。
「……フィーネ」
声に出して呼んだのは、この旅路で初めてだった。
祈りを捧げるわけでもない。
涙を流すわけでもない。
ただ、その名を、現実として確かめるために。
ここに、確かにいた。
確かに生きて、確かに誰かを守った。
俺の盾に刻まれたものは、もう数字やスキルじゃない。
――託された願い。
それは消えない。
装備を外しても、レベルが変わっても。
夜。
街道脇で焚いた小さな火を前に、少女が目を覚ました。
周囲を警戒するように視線を走らせ、
やがて胸元のペンダントに気づき、指先でそっと触れる。
不思議そうに、俺を見上げてきた。
「それは……大事な人の形見だ」
俺は短く答えた。
余計な説明はしない。
美化もしない。
嘘もつかない。
「その人が、君を守りたがってた。……だから、君に持っててほしい」
少女は言葉を持たなかった。
だが、小さな指で鎖を握りしめ、
胸元に引き寄せるようにして、そっとうなずいた。
その動作だけで、十分だった。
理解は、言葉より先に届くことがある。
とくに、失われたものの重さは。
王都の城門が、遠くに見えたとき。
白い城壁が曇天の下に浮かび上がり、
人の営みの音が、かすかに風に乗って届いてくる。
俺は無意識に、自分の胸に手を当てていた。
砦で刻んだ傷は、瓦礫と共に消えた。
あの夜の痕跡は、もうどこにも残っていない。
だが、このペンダントは残った。
フィーネの声も、笑みも、二度と戻らない。
それでも、彼女の祈りは――
この小さな命に、確かに繋がっている。
それを守れる限り。
その重さを背負える限り。
俺は、まだ歩ける。
雨が降り始めていた。
王都ギルド受付窓口。
マリアベルが待っていた。
いつもの巻き髪。
いつもの微笑。
「お帰りなさいませ。……無事で何よりですわ」
彼女は一瞬だけ、少女の胸元の銀を見た。
そして、何も問わずに視線を戻した。
砦での惨状も、
フィーネの名も、口にはしなかった。
事情を察しないほど愚かではない。
だが、今は踏み込まない。
それが、大人の選択だと知っているからだ。
彼女は淡々と、孤児院の手続きと選択肢を提示する。
保護。
後見。
一時預かり。
俺は少女の肩に、静かに手を置いた。
答えを出すのは、今じゃない。
――フィーネが託したものを、
この街で、どう守るのか。
それを決めるのは、これからだ。
夜。安宿の部屋で。
少女はすぐに眠りについた。
胸元のペンダントを、まるで縋るように抱いたまま。
その寝息を聞きながら、俺は静かに誓った。
「……守る。もう二度と、あんな結末にはしない」
誰に聞かせる誓いでもない。
神に捧げる祈りでもない。
自分自身に課す、選択だ。
焚き火の跡のように消えた命。
その中で、唯一残された願い。
それを盾として掲げる限り――
俺は、立ち続ける。
倒れないために。
守るために。
そして――
この願いを、次へ繋ぐために。




