第37話「祈りのあとに」
砦は、もはや砦ではなかった。
夜が明け、瓦礫の隙間から這い出てきた生存者たちの目は、誰もが同じ色をしていた。土と血と灰に塗れ、涙すら乾ききった、空洞のような色だった。
かつて壁だった場所は崩れ落ち、屋根だったものは灰と煙に変わり、昨日まで人だったものは、名も、声も、形さえも残していない。
生き残った。それは疑いようのない事実だった。
けれど、その事実だけが、かえって胸の奥へ重く沈んでいく。生きているということが、こんなにも鈍く、罪のように感じられる朝があるのだと、ちゃたろ〜は初めて知った。
生き残った兵士と避難民は、砦の高台に残されたわずかな広場へ集められていた。瓦礫を踏み越え、互いを気遣う言葉もなく、ただ呼ばれたから来た、という顔で集まってくる。
指揮官は煤にまみれた鎧のまま、広場の中央に立っていた。兜は外され、髪は血と灰で固まり、その目に残っていたのは指揮官の光ではなく、生き残ってしまった人間だけが持つ、あの乾いた色だった。
「――安否確認、完了。生存者、ここに」
風に掠れるような声だった。
ざわめきは起きない。互いに名前を呼ぶ声も、泣き出す声もない。ただ隣に誰が残っているのかを、静かに数えるように視線が交わるだけだった。けれどその視線も、言葉にはならない。言葉にした瞬間、いなくなった者たちの名が溢れ出してしまうことを、ここにいる全員が知っていた。
指揮官は深く息を吐いた。その吐息は風よりも弱く、頼りなかった。
「……これより本部の命令により、現地任務を終了とする」
わずかな風が吹き抜け、瓦礫の粉塵が空中で舞った。
「この砦は、防衛拠点としての機能を完全に喪失した。――よって、ここにて現地解散とする」
その言葉は、救済でも撤退でもなかった。
放棄。
その一語だけが、広場にいた全員の胸へ静かに落ちた。
補給は来ない。守備の再建もない。後方への護送もない。ただ、生き延びた者はそれぞれ勝手に生きろ、と告げられただけだった。
小袋に詰められたわずかな金と乾パンが、ひとりずつに配られていく。説明はない。理由もない。これが補償なのかどうか、もう誰にも分からなかったし、分かろうとする者もいなかった。
押しつぶされるような沈黙の中で、人々は無言のままそれを受け取る。泣かず、怒らず、抗議もしない。感情を燃やす余裕も、心を乱す体力も、もう誰にも残っていなかった。
その中で、ちゃたろ〜はひとりの少女の手を握っていた。
泥と血にまみれた、細い指先。死の縁からすくい上げた命。フィーネが自分のすべてを投げ出して守り抜いた命。その小さな体温だけが、この場所にまだ残されている善意の名残のように思えた。
失われたものは多すぎる。
けれど、この小さな温もりだけは確かにここにあった。
解散の声が響き、人々は仲間でも兵でもなく、ただの生存者として散っていく。西へ向かう者、南へ向かう者、泣き疲れてその場から動けない者。行き先に希望がある者はいない。ただ、ここにいても死ぬという事実だけが、全員を動かしていた。
ちゃたろ〜は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
あの夜、壁の影に刻んだ傷は、もう瓦礫に埋もれて消えている。フィーネの声も、どこにも響かない。残っているのは、静かに震える少女の手と、崩れた砦の上で消えていった祈りだけだった。
祈りは叶わなかった。
けれど、無意味でもなかった。
少女が、ちゃたろ〜の外套をぎゅっと握った。泣き声は出ない。ただ、震える指先だけが、ここにいたい、と語っていた。
ちゃたろ〜はゆっくりと膝を折り、少女と目線を合わせた。
「……帰ろう」
少女が顔を上げる。怯えと疲労の奥に、ほんのわずかな光が灯った。
「王都だ。何が待っているかは――正直、わからない。だが……ここよりは、生きられる」
それは約束ではなかった。未来の保証でもない。ただ、生きる場所を探すという、あまりにも当たり前で、あまりにも難しい願いを、もう一度確かめただけだった。
それでも、少女は小さく頷いた。
ふいに背後で砦が崩れ落ちる音がした。煙が上がり、灰が舞い、亡骸に覆われた地面へ朝の光が差し込む。
その光に暖かさはなかった。ただ、残された者たちへ次へ進めと命じるような、冷たい透明さだけがあった。
現地解散。
無情な放置。
けれど、その無情の中で拾い上げた命が、ちゃたろ〜という盾の胸に、たしかに息づいていた。
彼は少女の手を取り、歩き出す。
フィーネが命を懸けて渡した祈りを背にして。
その祈りを、二度と踏みにじらないために。
そして――誰かが生き延びる限り、彼は盾を下ろさない。
それが、祈りのあとに残された、唯一の答えだった。




