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第36話「命の選択」

 ――それは、夜明けよりも早く訪れた。


 眠りがまだ世界を手放していない時間。

 夢と現実の境目が、最も脆くなる刻。


 砦の底から、低く、濁った呻き声が這い上がってくる。


 音ではない。

 振動だ。

 骨に触れる圧力だ。


 最初は錯覚だと思った。

 眠り残りの幻聴。

 死を見すぎた者の、神経の誤作動。


 だが次の瞬間、床石が“波打った”。


 石が呼吸する。

 壁が痙攣する。

 天井が、獣のように悲鳴を上げる。


「……違う」


 これは自然じゃない。

 地震でも、崩落でもない。


 意思を持った破壊。


 敵が、砦そのものを――

 “潰しに来ている”。


「プロテクトウォール!!」


 叫びと同時に、盾から光が走る。

 中央区画を横断するように、半透明の壁が展開する。


 直後、崩落が叩きつけてきた。


 瓦礫の雨。

 石と木と鉄が、重なり合って落ちる。

 悲鳴。

 砕ける音。

 骨が折れる、嫌な乾音。


 光の壁が歪み、軋み、それでも――耐えた。


 ――守れた。

 数人は、確かに。


 だが。


「……いない」


 少女の姿が、どこにもなかった。


 昨日、命が抜け落ちそうな体で泣いていた、あの子。

 俺の盾にしがみつき、必死に生を掴もうとしていた、あの小さな命。


 頭の奥で、血よりも熱い何かが弾ける。


 怒りでも、恐怖でもない。

 確信だ。


 ――取り残された。


「ちゃたろ〜さん……!」


 瓦礫を越えて、フィーネが駆けてくる。

 蒼白な顔。

 止まらない鼻血。

 立っているだけで、奇跡みたいな体。


「……わかります……」


 声が、かすれている。

 掠れ方が異常だ。

 喉じゃない。

 内側が削れている声。


「あの子……砦の後ろ……物資庫の方……」


 一歩踏み出そうとして、よろける。

 膝が崩れそうになる。


 限界だ。

 もう、彼女は――動けない。


「行って……」


 絞り出すように、フィーネが言う。


「助けて……お願い……!」


 その瞳に、恐怖はなかった。

 あったのは――

 自分は置いていかれると理解した上での覚悟。


 俺は、理解してしまった。


 俺が行けば、間に合う。

 だが、ここを離れれば――

 フィーネは、確実に死地に残る。


 一瞬だけ、迷った。


 少女。

 フィーネ。


 どちらも、ここに生きている命だ。

 どちらも、今この瞬間に、失われ得る命だ。


 だが、その一瞬で十分だった。

 選ばなかった方は、すでに切り捨てている。


 それでも。


「……任せろ」


 それは、約束じゃない。

 守れる保証なんて、どこにもない。


 選択だった。


 走る。


 砦が、沈み始めている。

 梁が落ち、床が割れ、空気が歪む。

 足元で瓦礫が砕け、血が滲む。

 肺が焼ける。

 視界が揺れる。


 それでも、止まらない。


 物資庫。

 壊れた扉の奥。


「……っ」


 聞こえた。

 小さな、小さな呼吸。

 糸みたいな音。


 木箱の下。

 縮こまった少女が、そこにいた。


「大丈夫だ」


 声が、震える。


「もう……一人じゃない」


 抱き上げると、あまりにも軽い。

 命が、指先から零れ落ちそうだった。


 戻る。


 瓦礫の通路を、命を抱えたまま。

 影が蠢く。

 死体が動く。

 瘴気が濃くなる。


 ホーリーボールを投げる。

 光が闇を裂き、残骸を焼く。


 少女の呼吸が、少しだけ整う。


 ――助かる。


 そう、思ってしまった。


「子どもが戻った!!」


 砦に、声が上がる。

 疲れ切った兵たちの目に、わずかな光。


 希望というより、延命。

 それでも、確かに光だった。


 少女を託す。


 その瞬間――

 俺は、踵を返した。


「……まだ、一人、残ってる」


 それは独り言だった。

 誰かに止めてほしかったわけじゃない。

 称賛も、理解も、いらなかった。


 だが――

 誰も、止めなかった。


 止められなかった。


 ここから先は、生還を目的にする行動じゃない。

 それを、全員が理解していた。


 瓦礫と煙の中へ。

 ――俺は、戻った。


 砦は、もはや建物じゃなかった。

 崩れゆく“死体”だった。


「フィーネ!!」


 声が、裂ける。

 返事はない。


 耳を澄ます。

 鼓動が、耳鳴りみたいに響く。


 ――いた。


 倒れている。

 動かない。


 だが。


 胸が、かすかに上下している。


「……生きてる」


 その事実に、安堵した――

 その瞬間。


 “きしり”


 頭上から、嫌な音。


 見上げる。

 巨大な柱が、傾いていた。


 逃げられない。

 叫べない。

 盾も、間に合わない。


 世界が、細く、鋭く、閉じていく。


 ――その時。


 フィーネが、動いた。


 泥にまみれ、血を流しながら。

 崩れた壁を掴み、這う。


 指先が、瓦礫で裂ける。

 血が落ちる。

 それでも、止まらない。


 彼女は、俺を見ていた。


「……っ!」


 最後の力で、体を投げ出す。

 細い体からは想像できない衝撃。


 俺の体が、横に吹き飛ぶ。


 轟音。


 柱が落ちた場所に、フィーネの姿はなかった。


 一瞬だけ、助かったと思ってしまった空白があった。

 その空白が終わった時、

 そこにあったのは瓦礫だけだった。


「……フィーネ……」


 声が、掠れる。


 瓦礫の下。

 彼女は、俺の方を向いていた。


 目は、かすかに開いている。

 焦点は、もう合っていない。


 それでも――

 俺を探している目だった。


 唇が、動く。

 声は、出ない。


 けれど、わかった。


 ――“よかった”


 その微笑のまま。

 彼女は、目を閉じた。


 二度と、開かなかった。


 砦に、静寂が落ちた。


 燃える木片の音。

 煙の音。


 すべてが、

 彼女の呼吸より、軽かった。


 選んだ。


 誰かを救い、誰かを失った。


 命は、足し算じゃない。

 引き算だ。


 瓦礫のそばに、小さな銀のペンダントが落ちていた。

 傷だらけの、ありふれた装飾。


 だが――

 拾った瞬間、胸が焼けた。


 これは、

 彼女が確かに“生きていた証”。


 朝焼けが砦を照らすころ。

 俺は一人、ペンダントを握っていた。


 フィーネが救った命。

 俺が救えなかった命。


 同じ重さ。


 だが――


(俺は、守られた)


 その事実だけが、胸に沈む。


 この先、盾を構えるたび。

 必ず思い出す。


 これは――英雄譚じゃない。


 生涯消えない、

 選択の痛みの物語だ。

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