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第33話「矛盾する平穏」

 砦の中庭に、骨のような白い朝が差し込んだ。


 白いと言っても、光ではない。

 灰を薄く溶いた水の色だ。


 曇天の薄明かりが、石と血と煤に塗れた地面を撫でていく。

 撫でる、というより――確かめている。


 まだここに死が残っているか。

 まだここに生が残っているか。


 指先の温度がない、死者の手で。


 その日も、いつものように――

 誰かの姿が静かに消えていた。


 消える、というのは逃げたという意味ではない。

 逃げ道はない。


 砦の外は焼け落ちた街と、腐った道と、森の影だ。

 影は匂いを持っている。


 獣の脂と、腐肉と、焦げた木と、まだ乾かない血の鉄臭。

 それが風に混じり、壁の上まで届く。


 だから、消えるのは――

 「いなくなる」という事実だけだ。


 誰も言葉にしない。

 泣き声も、呼ぶ声も、祈りの声もない。


 ただ、「いないなら補充が来るはず」という無関心の習慣だけが、砦に定着していた。


 人は死ぬ。

 代わりが来る。

 それで全部が片付く。


 死は日常に沈み込み、

 日常は死に覆われている。


 それをこの砦の者たちは――

 平穏と呼んでいた。


「おい、見張り交代だ」


 声が落ちてきた。


 叱責でもない。命令でもない。

 天井から落ちる埃みたいな、ただの現象だ。


 振り向くと、夜番を終えた兵士が壁にもたれ、目の下に深い影を落として俺を見下ろしていた。


 鎧の継ぎ目にこびりついた泥と血は、もう拭かれていない。

 拭いても意味がないからだ。


 その眼差しには“生きて帰る”という発想が存在しない。

 ただ、“まだ死にきらなかった”という報告だけがある。


 肩で息をしている。

 息をしていること自体が、勝利の代わりだ。


 言われるままに立ち上がり、

 盾を背負って壁へ向かう。


 盾の縁は欠け、鉄の臭いが染みついている。

 握ると、手のひらに冷たさが貼り付いた。


 冷たいのは朝のせいだけじゃない。

 ここで受け止めた衝撃の記憶が、金属の中に残っている。


 霧はまだ濃く、外には焼け落ちた街の残骸が広がっていた。


 建物の形はすでに曖昧で、焼け焦げた骨のように朽ちている。

 屋根は落ち、壁は穴だらけで、窓だけが空虚に口を開けている。


 そこに、誰も住んでいない。

 住んでいないのに、まだ臭う。


 人がいた匂いの上に、死の匂いが塗り重ねられている。


 砦の中はいつもより静かだった。


 昨日より叫びが少ない。

 昨日より走る足音が少ない。

 昨日より運び込まれる死体が少ない。


 だから――今日もこれが、砦では「平穏」だった。


 平穏とは、欠けた分だけが測れるものだ。


 悲鳴の欠け。

 血の欠け。

 死の欠け。


 そして、欠けていないもの――

 匂いだけが残る。


 柵の近くで、フィーネがいた。


 彼女は、小さな子どもを背負った女兵と低い声で話していた。


 女兵の肩は固く、背中は濡れている。

 汗ではない。

 夜露と、恐怖と、乾かない涙の混じった湿り気だ。


 子どもは泣き疲れたのか、肩に頭を埋め、微かに震えている。

 震えは小さい。

 だが、止まらない。


 寒さの震えではない。

 世界が壊れてしまったことを、身体だけが覚えている震えだ。


 この砦には戦える者だけではない。


 武器を持たぬ者。

 持っても振れない者。

 怪我を負った者。

 老人。

 そして――子ども。


 「なぜ子どもがいるのか」など誰も問わない。

 問う余裕がない。


 問う言葉を発した瞬間、その言葉が自分の首を絞めるからだ。


 ただ、逃げ遅れた者がそのまま砦に閉じ込められただけだ。


 砦は避難所であり――牢獄だった。


 守ってくれる壁はある。

 だが、出ていくための門はない。

 門があっても、その先は死だ。


 俺も……その中のひとりにすぎない。


 フィーネがこちらに気づく。

 目が合う。


 彼女の眼は、以前より硬い。

 泣かない眼だ。

 泣く代わりに、見ている眼だ。


 女兵が背中の子を少し揺らし、囁く。

 言葉は聞こえない。

 だが、その声の形だけが分かる。


 「大丈夫」と言っている声の形だ。

 大丈夫ではないのに、それしか言えない声の形。


 フィーネはその背中を見つめたまま、口を結ぶ。

 何かを飲み込む表情だった。


 血ではない。

 怒りでもない。


 “まだ人でいたい”という感情の残り滓だ。


 夕刻。


 配給の列で、怒声が響いた。


「おかしいだろ! 昨日の半分しかねぇぞ!」


 叫んだ兵士の声は、腹から出ていない。

 喉から出ている。


 腹に残っている力がない。

 だから声だけが尖り、心は折れている。


「文句があるなら、お前が盾持って死地に立て。

 それが嫌なら黙って食え!」


 係の兵士の声は疲れ切っている。

 怒鳴られても、殴られても、殴り返す気力はない。

 目の奥が乾いている。

 涙が枯れた目だ。


 列に並ぶ者たちは顔を伏せ、

 誰も仲裁しようとしない。


 ここでは正しさが役に立たない。

 ここでは善意が人を殺す。


 そしてここでは、怒りは味方を増やさない。


 殴りたい相手は多すぎて、

 殴れる相手はひとりもいない。


 ――それが砦の現実だった。


 フィーネは列の端で、じっと光景を見ていた。

 表情は無言のまま。

 だが、その瞳には確かに痛みが宿っていた。


 痛みはまだ、彼女が壊れていない証拠だ。


 壊れた者は、痛みを感じない。

 感じないふりではない。

 感じる器がもうない。


 鍋の底を掬う音がした。

 金属が金属に当たる音。


 その音が、配給の現実をはっきりさせる。


 量は少ない。

 だが、匂いがある。

 湯気が立つ。


 それだけで列は崩れない。

 崩れないことが、今日の平穏だ。


 夜。


 俺とフィーネは再び壁に立っていた。


 冷たい風が血と煤の匂いを運んでくる。

 乾いた砦の空気に混じるその匂いは、“今日ここで死んだ誰か”の証だった。


 遠くで、木が軋む音がした。

 風の音ではない。

 柵の向こうの闇が動く音だ。


 足音があるわけではない。

 だが、数がいる。

 数の気配がある。


「ちゃたろ〜さん」


 不意にフィーネが口を開いた。


 呼び方に、ほんの少しだけ熱が混じっている。

 頼る声だ。

 ここで頼るのは、祈るより現実的だから。


「逃げたら……やっぱり、殺されますよね?」


 その問いは、生き延びた人間が発するものではなかった。

 生き延びることを前提にしていない声。


 “生き延びることを許されていない場所”を知る者の声だった。


 答えはなかった。


 俺も、砦の誰も、逃げて生きた者を見たことがない。


 逃げた者がいないのか。

 逃げた者が戻らないのか。

 戻れないのか。


 どれでも同じだ。


 “ここを出る”という言葉は、砦では意味を持たない。


 少しの沈黙ののち、

 フィーネは続けた。


「でも……わたし、あの子だけは守りたいんです」


 壁の上の風が、彼女の髪を揺らした。

 その揺れは細く、折れそうだった。


「……子どもか」


「はい。たったひとりで泣いていて……誰も助けなかった。

 だから、わたしが助けたいと思って」


 彼女の声は震えているが、弱さではない。

 恐怖と決意の入り混じった震えだった。


 恐怖の震えは、逃げたい震え。

 決意の震えは、逃げない震え。


 その二つが同じ身体でぶつかり合っている。


 俺は言葉を返さなかった。

 返せる言葉が、この砦にはない。


 ただ――心の奥で、決めた。


(この子は――見捨てない)


 見捨てない、という決意は危険だ。

 副官の言葉が頭をよぎる。


 守ろうとした奴から死ぬ。


 だが、決めた。

 決めた瞬間、決意は刃になる。

 刃は自分の手も切る。

 それでも握るしかない。


 いくつかの戦闘が過ぎ去り、

 いつしか数日は流れた。


 戦闘は途切れない。

 だが、死体を運ぶ人数が少し減った。


 包帯を巻き直す兵の息に、わずかに余裕が生まれた。

 余裕と言っても、

 生き延びた者が一度深呼吸できる程度だ。


 それでも、砦ではそれが奇跡に近い。


 「今日の炊き出し、昨日より味が薄くない」


 そんな誰かの呟きが聞こえる。


 鍋の湯気に、飢えた子どもが笑った。

 笑いは小さい。

 歯の隙間から漏れる程度の、薄い音だ。


 だが、その音がある。

 その音が、まだ人が人でいられることを示す。


 それだけで――

 砦では「平穏」だった。


 どれほど薄い、脆い、儚い平穏だとしても。


 指先で触れたら崩れる。

 息を吹きかけたら消える。


 それでも、夜を一つ越えるための支えにはなる。


「……おい、メイス盾」


 ある夜、副官が近づいてきた。


 足音がない。

 ないわけではない。

 音が出ない歩き方を、身体が覚えている。


 死地を通ってきた者の歩き方だ。


 鋼のような目で俺を見据え、低い声で問う。


「“マリアベル”って名……覚えはあるか?」


 その名が落ちた瞬間、

 胸の奥に、冷たい石が入ったみたいに重くなった。


「……ある」


「やっぱりだ。お前ら、推薦枠だったな」


 副官はそれ以上言わず、踵を返した。


 背中は冷たかった。

 まるで次の死地の準備をしている者のような歩き方だった。


 準備ではない。

 “もうそこに住んでいる”歩き方だ。


 名が出た。

 砦では珍しい。


 名が出るときは、死が近い。

 あるいは、死より厄介なものが近い。


 その夜の後、

 俺は食堂跡の瓦礫の隙間から拾った刃こぼれのナイフを握りしめた。


 刃は欠け、柄は割れている。

 それでも金属の重みは残っている。


 重みが残っている限り、武器だ。

 ここでは、残っているものだけが価値になる。


 壁の影に身を寄せ、

 石に刃を当てる。


 カリ、と刻む。


 音が小さい。

 だからこそ、耳に刺さる。


 砦の夜は静かではないはずなのに、

 静かな音だけがやけに大きい。


 何を刻んだのか、誰も読むことはない。

 読める光も、読む余裕もない。

 読む価値もないと、誰もが思うだろう。


 だが――

 それは、“ここに俺がいた”という証だった。


 たとえ壁が燃えて消えても、

 砦が崩れて土に還っても、

 刃先の振動だけは、俺の手の中に残る。


 自分がここで、呼吸をしていた。

 盾を握っていた。

 血と煤の匂いを吸い込んでいた。


 それだけの証明だ。

 それだけで、今夜を越える理由になる。


 戦闘の合間に、身体は変わっていった。


 傷を癒す手の動きが自然になった。

 血の止め方が迷いなく出るようになった。

 毒の匂いを嗅いだ瞬間に、舌の奥が先に拒絶するようになった。


 盾を構える角度、

 足を踏み込む深さ、

 呼吸を整える速度――

 どれもが“とっさ”でできていた。


 考える前に、身体が動く。

 恐怖よりも先に盾が前に出る。


 それは成長ではない。

 適応だ。


 適応は、死なないための変形だ。


(……ここでしか、強くなれない)


 矛盾した平穏。

 死の中でしか芽生えない技術。

 日常が戦場でしか育たない身体。


 それらすべてが、砦では“生”の証だった。


 生きている証が、

 誰かを殴り返せることではない。

 笑えることでもない。


 ただ、次の一撃を受け止められること。

 次の夜を越えられること。


 それが、この砦の生だ。


 朝の霧の向こうで、またどこかの砦が燃えていた。


 炎は赤い。

 だがこの空の下では、その赤さですら薄い。


 灰色の雲が炎を押し潰し、

 燃えていることを隠そうとする。


 死は砦に張りつき、

 鉄は血で濡れ続け、

 それでも――

 盾は俺の一部になりつつあった。


 誰かを守るために。

 自分が死なないために。

 フィーネの願いを叶えるために。


 今日も俺は盾を握る。


 ――この矛盾した平穏を、

 せめてもう一晩、つなぐために。

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