第30話「見えざる者の声」
王都の朝は、冷たさに、わずかな湿り気が混じっていた。
夜露がまだ石畳に残り、その上を馬車の車輪が軋み、革靴が無数に行き交う。
話し声は絶えないのに、不思議なほど他人の存在感が薄い――そんな朝だ。
ギルドの前。
俺とフィーネは並んで、掲示板を見上げていた。
木製の掲示板には色とりどりの依頼書が張り出され、早い者勝ちを狙う冒険者たちの視線が飛び交っている。
だが、俺たちの前に貼られている紙は、中央にぽつんと一枚だけだった。
古碑文回収。
王都北西、旧農村地帯地下遺構。
罠あり。
精神消耗あり。
魔物反応なし(想定)。
昨日まではなかった――“最後の一枚”。
俺はそれを静かに剥がし、指先に伝わる紙のざらつきを感じながら肩越しに振り返る。
「……どう見る?」
フィーネは、帽子のつばの影からこちらを見上げた。
小さくこくりと頷く。
瞳には怯えよりも、静かな決意の光が宿っている。
「……行けます。行きたい、です」
その言葉を聞いた瞬間、紙の重みが少し変わった気がした。
カウンターへ向かい、依頼書を差し出す。
マリアベルはいつものように完璧な笑みで迎えた。
「まあ……三件目のご提出、ありがとうございますわ。
これで“条件達成”も目前ですわね。さすが、推薦状持ち」
彼女は紙の内容を一度なぞり、それから付け足すように言った。
「地下遺構へ向かう途中の地上区画で、
『井戸から声がする』という通報もありまして。
調査区域は同一ですし、人払いと許可は済ませてありますの」
“ついで”のような口調。
だが、その口角がわずかに上がったのを、俺は見逃さなかった。
「――まあ、何もなければよろしいのですが」
俺は違和感を飲み込み、フィーネを見る。
「行こう」
「はい」
俺たちは紙を受け取り、ギルドを後にした。
旧農村跡は、すでに人の気配を失くして久しい場所だった。
家屋の土台だけが残り、崩れた石垣と折れた柵が、かろうじて「ここに暮らしがあった」ことを語っている。
その外れに、井戸が一つだけ残されていた。
地下遺構へ入る前の、地上区画。
「……嫌な気がするな」
思わず口をつく。
空気が、どこか濡れて冷たい。
フィーネは一歩進み、井戸の縁に手を置いた。
目を閉じる。
「……ずっと、待ってました。
静かに。黙って……ずっと」
(やっぱり、聞いてる)
俺は周囲に注意を払い、彼女の背後に立つ。
姿が見える者。
感情として感じる者。
そして、声として“聞く”者。
フィーネは、その最後だ。
彼女の口から零れる断片は、名前も、姿も持たない声だった。
俺は井戸の縁に手を置き、底を見下ろす。
「……名前は、わからない」
嘘は言わない。
「でも、ここにいたことは覚えてる。
痛かったことも、怖かったことも」
フィーネが、胸の前で手を組む。
「……忘れない。
ここにいたこと、私も覚えてる」
風が変わった。
重かった気配が、静かにほどけていく。
それは悲鳴ではなく、役目を終えた音だった。
地下遺構では、罠が点在していた。
俺は進んでは止まり、
床を叩き、
風を流し、
沈み具合を確かめる。
同行していた別パーティの魔術師たちは、遠巻きにこちらを見ていた。
「……やりすぎじゃないか?」
「いや、あれでいい。
ああいう場所は、気を抜いた方から死ぬ」
休憩中も、俺は動きを止めなかった。
罠だけじゃない。
“残り”がないかを、確かめていた。
その視線の置き方が、同行者には奇妙に映ったのだろう。
進む時より、止まっている時のほうが落ち着かない。
確認して、拾って、残りを見落とさない。
そうしないと、あとから誰かが踏む。
それが、俺のやり方だった。
後日。
ギルドに届いたのは、俺たちの報告書だけではなかった。
同じ遺構に居合わせた魔術師からの、苦情と感謝が混じった一通。
《少しずつ前に詰める、異様に慎重なやり方》
《休憩中も周囲を確認していた》
《こちらは助かったが、本人はほとんど休んでいない》
《ああいうタイプは、いつか自分が折れる》
マリアベルはそれを読み、静かに書類を揃えた。
(……三つ目で、これを選びますのね)
俺たちはまだ知らない。
この三件が、試験ではなく、選別だったことを。
そして――
これが二人で並んで受ける、最後の依頼になることを。




