第29話「孤独な挑戦」
王都の朝は、冷たく、乾き、そして忙しない。
村の朝とはまるで異なる。
村は風と鳥の声がゆるやかに世界を起こす。
だが王都では、石畳の上を馬車の車輪が容赦なく走り抜け、人々は肩を触れ合うほど密集し、互いを見ずに通り過ぎていく。
市場の怒号。
商人の張り上げる声。
遠くから響く鐘の音。
冷たい空気に、そのすべてが交じり合う。
(……誰も、誰かを“見ていない”)
王都の空気に触れるたび、胸の奥がわずかに締めつけられる。
そこに悪意や敵意があるわけではない。
ただ――“無関心”という名の氷が、街全体に広がっているだけだ。
そんな喧騒の中、俺とフィーネはギルド前に立っていた。
外套のフードを深くかぶった彼女は、両手で裾を握っている。
小さな手つきだが、震えてはいない。ただ、強く握りすぎて白くなっている指先が、その緊張を物語っていた。
「……ほんとうに、いいんですか?」
昨日と同じ問い。
けれど、声にこもる色は昨日よりも深い。
遠慮ではなく、確認でもなく――“距離を測るための問い”。
人を避けたいのではなく、
人を巻き込みたくない者の声だ。
「俺も依頼をこなす必要がある。ちょうどいい」
答えると、フィーネはほんのわずか唇を噛んだ。
それは恐怖でも疑念でもなく、
――自分の心をひとつ前へ進めるための、小さな覚悟。
(……やっぱり、そうだな)
彼女の瞳にある影。
あれは“見えてしまう者”の瞳だ。
村の子どもの幽霊を見たときと同じ、あの空虚な深さ。
俺は、彼女が“何者なのか”を言い当てる必要はなかった。
感じれば十分だった。
――霊媒士。
失われたはずの存在。
そして、この街で最も疎まれる類の素質。
モルダ遺構は、王都北西の丘陵に口を開けた、古い廃墟だった。
丘の斜面が崩れ、その奥に石造りの空洞が露出している。
地元では「近づくと戻れない」と言われているが、正確ではない。
戻れなくなるのは、人ではなく――気持ちの方だ。
同行者は二人。
一人はスカウトの男。
報酬と成果を天秤にかける、ごく普通の冒険者だ。
もう一人が、フィーネだった。
遺構に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿り気を含んだ冷気。
苔と黒水の匂い。
そして、奥から這い出してくるような――重い沈黙。
「……嫌な場所だな」
スカウトが舌打ちする。
「罠の気配は?」
「古いのはあるが、動いてはいない。
ただ……」
そこで言葉が止まる。
フィーネが、足を止めていた。
「……“残っています”」
声は小さいが、はっきりしていた。
「何が?」
「死んだものです。
ここに、縋りついたまま」
スカウトが顔をしかめる。
「アンデッドか?」
「……違う。
もっと、帰れなくなったもの」
その直後だった。
奥の闇から、何かを引きずる音が響いた。
ずる、ずる、と。
現れたのは、人の形をしていた。
干からびた皮膚、歪んだ四肢。
だがそれ以上に――身体の周囲にまとわりつく怨念が異常だった。
「……狂霊種かよ」
スカウトが後ずさる。
「面倒なやつだ。
倒しても、下手に散らすと余計に増える」
俺は前に出た。
「撤退するか?」
スカウトが即座に言う。
「報酬に見合わねえ。
こんなの、後回し案件だ」
正論だ。
依頼書にも、討伐指定はない。
だが、フィーネが小さく首を振った。
「……今、離れると。
この“残り”は、外に流れます」
「街に?」
「ええ。
どこかで、人に当たる」
俺は一瞬だけ考え、メイスを構えた。
「なら、ここで帳尻を合わせる」
「……は?」
スカウトが怪訝そうな顔をする。
「依頼に書いてないぞ」
「書いてなくても、拾わないと歪む」
そう言って、一歩前に出た。
狂霊が唸り声を上げ、腕を振るう。
怨念の刃が空気を裂く。
「《プロテクト》!」
防御魔法が弾け、衝撃が腕に走る。
狂霊の動きは速くない。
だが、雑に倒す相手でもない。
「フィーネ、繋げるか」
「……完全には無理。でも、拒まないなら」
「十分だ」
俺はヒールを唱えた。
傷を癒すためではない。
怨念と人を、直接ぶつけないための導線として。
光が、フィーネと狂霊を結ぶ。
フィーネの肩がびくりと震える。
けれど、逃げない。
「……ここには帰れない」
フィーネの声が、遺構に響く。
「でも、否定はしない。
あなたが、ここに残った理由は……分かる」
狂霊の動きが止まった。
怨念が揺らぎ、焦点を失う。
拒絶ではなく、受け止められたことで、縛り方を見失ったみたいに。
「――今だ」
メイスを振り下ろす。
「《頭にどーん》!」
鈍い衝撃。
頭蓋が砕け、怨念は散らず、光にほどけた。
倒れた骸は、静かだった。
戦闘が終わったあと、スカウトが周囲を見回す。
「……終わった、のか?」
「残りはない」
そう答え、遺構の奥へ進む。
そこで、見つけた。
布に包まれた、古い護符と短剣。
錆びているが、丁寧に手入れされていた形跡がある。
「旧依頼者の……」
スカウトが呟く。
「報酬にならねえな」
俺は黙って、それを拾い上げた。
メイスを背負い、遺留品を抱える。
「持ち帰るのか?」
「ああ」
「面倒だぞ」
「置いていく方が、もっと面倒だ」
スカウトは何か言いかけ、結局黙った。
遺構を出る頃には、空が藍色に染まり始めていた。
フィーネが外套を握りしめ、俯いている。
「……ありがとうございました」
「何に?」
「信じてくれたこと」
「前に立つのは、俺の仕事だ」
そう言うと、彼女は小さく笑った。
その笑みは、遺構の中では見せなかった、
確かに“生きている”人間の表情だった。
王都に戻り、報告書を提出すると――
「さすが推薦状持ちですわ。
まぁ、“その程度”ならこなせて当然ですけれど♪」
マリアベルは笑顔のまま、瞳だけを冷たくした。
それは、俺とフィーネの力を認めたわけではない。
次の依頼で試すための――“残酷な愉悦”を含んだ目だった。
(まだ、突き落とすつもりかよ)
俺が心の中で吐き捨てても、表情は崩れない。
ギルドを出ると、夕暮れの街は赤く燃えていた。
フィーネは俺の隣を静かに歩きながら、小さく、決意とも不安ともつかぬ声で呟いた。
「……明日も、頑張ります」
その言葉の影に、彼女の“終わり”が静かに揺れていることを、
この時の俺はまだ知らなかった。




