第3話「ギルド登録と“選ばれざる職”」
グレイハウス村の門をくぐったとき、夕陽はほとんど地平に沈みかけていた。
土を踏みしめる音が、森の湿った静寂とはまるで違うリズムで響く。鼻をくすぐるのは、乾いた土と、牛小屋の藁と、どこかの家で焚かれている薪の匂い。軒先では小さなランタンが灯りはじめ、遠くから人の笑い声が漏れてきた。
それは、紛れもない「生活の匂い」だった。
(……生きてる場所だ)
腐臭でも、血の匂いでもない。ただ、人が一日を終えようとしている、当たり前の夕方の匂い。
森の中でラビグールに追われた感覚が、ようやく現実から一歩引いていく。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。
この世界で「職」と「立場」を得るには、ギルドの登録が必要だ。武器も、防具も、クエストに立つ資格も──ギルドに名を刻むところから始まる。
俺は、村の中央にぽつんと建つ長屋を目指した。
看板に刻まれた紋章は、小さな盾と穂先の丸い槍。
《冒険者ギルド・グレイハウス支部》。
ここから、俺の“公式な人生”が始まる。
扉を押し開けた瞬間、肌に馴染む温かさが包み込んだ。
外気より少しだけ暖かい空気。薪ストーブの柔らかな熱と、煮込み料理の匂い。ギシ、と床板の鳴る感触が、妙に心地いい。
中は広くはないが、整理されていた。壁際には、使い込まれたテーブルと椅子がいくつか並び、旅装束の男女が二、三組、カップを手に談笑している。剣を手入れする者、地図らしき紙を広げてルートを指でなぞる者。
殺伐とした兵の詰所でもなく、酒場の喧噪でもない。生活と仕事の境い目が、ゆるやかに溶けた空間。
奥のカウンターで、茶色の髪を後ろで束ねた少女が書類を仕分けていた。背筋を伸ばし、慣れた手つきで紙を捌いている。
ふと視線がこちらを向いた。
「いらっしゃいませ、グレイハウス──……あ」
目が、まん丸になった。
「こ、子ども……?」
そりゃそうだ、と内心で苦笑する。森を抜けてきたのは、見た目だけなら十歳そこそこのガキだ。ボロ布のような服、泥だらけの靴。装備らしい装備もない。
俺はカウンターまで歩み寄り、できるだけまっすぐに視線を返した。
「登録を頼む。ジョブは、決めてある」
一瞬だけ、少女の肩がびくりと揺れた。だがすぐ、ぎこちなさを飲み込むように笑顔を整える。
「えっと……はい。まずはお名前と年齢を、お願いできますか?」
「……ちゃたろ〜。年齢は十歳」
口にした名前は、この世界で生きると決めたとき、最初に自分で選んだものだ。“前の名前”でも、本名でもない。ゲームを作っていた頃からの、俺自身のハンドル。
ここでは、それが本当の名だ。
少女――胸元の名札には《ティナ》とある――は、十歳という答えに目を瞬き、ペンを持つ手を止めかけた。
けれど、俺の声と目の温度を測るように一瞬じっと見つめ、すぐに小さくうなずいた。
「ちゃたろ〜さん、ですね。私は受付補助のティナです。……それじゃあ、登録の手続きを始めますね」
年齢差を埋めるように、ことさら丁寧な口調を選んでいるのが分かる。子ども扱いしすぎないように、けれどゆっくり説明しようとするバランス感覚。たぶん、ここで相当場数を踏んできたのだろう。
「初めての登録ですと、最初に“職業”を決めていただきます」
ティナは帳面をこちらに向け、指し示しながら続けた。
「戦士系ですと、ファイターかソードマン。魔法系は、ロッドメイジかエレメント。ヒーラー系は、ケアラーかライトメイス。支援系は──」
「ライトメイスで頼む」
他の選択肢を聞き終える前に、口が勝手に動いていた。
ティナの指が止まる。視線が紙から俺へ、ゆっくりと上がる。
「……ライトメイス、ですか?」
「ああ」
周囲の空気が、わずかに変わった。
入口近くのテーブルで杯を傾けていた男が、ちらりとこちらを見る。カウンター端でクエスト板を眺めていた女戦士が、鼻で小さく笑った。
(……まぁ、そりゃそうか)
ライトメイス。
この世界において、戦士にもなれず、ヒーラーとしても一流になれない、とされる職。
攻撃力は戦士に劣り、回復量は純ヒーラーに届かず、魔法火力も並以下。
プレイヤーたちには「器用貧乏」「はずれ職」「初心者が間違えて選ぶやつ」と散々に叩かれた。
……その職を、俺が作った。
盾役にも回復役にもなれる“支援タンク”を夢見て、「こういうのが一人いてくれると助かるんだよ」と理屈をこねて、バランスを崩すのを怖がって中途半端に抑えた“あの職”。
(ぶっちゃけ、ユーザーからの評価は最低だったな……)
でも。
俺は、この世界で生きるために、あえてそこを選んだ。
ティナは、しばし迷うように黙り込んだ後、おそるおそるといった調子で切り出した。
「失礼だったらごめんなさい。でも……ライトメイスは、あまり人気がない職なんです」
「人気がないのは知ってる」
「攻撃力も、回復も……どっちもそこそこ、で。前に選んだ人たちも、途中で別の職に変えてしまって……」
言いにくそうにしながらも、それでも正直に伝えてくるあたり、仕事に対して真面目なのが分かる。
俺は首を横に振った。
「それでも構わない。最初から器用に戦うつもりはない。今の俺に必要なのは、“死なない”ことだ」
ティナの目が、少しだけ見開かれる。
十歳の子どもの口から出るには、少し重すぎる言葉だったかもしれない。でも、嘘はひとつもない。
ラビグールに追われたとき、ラシュベリーの仕様を思い出していなかったら、俺は森の土の下で腐っていた。
火力よりも、派手さよりも、まず「死なない」こと。それが、この世界で何よりも価値がある。
俺自身が、“このゲームの難易度”を知っている。
ティナは、じっと俺の顔を見た。あまり子ども相手には向けない種類の視線。
無謀さを量り、虚勢かどうかを確かめ、それでも揺らがないと分かってから、ようやく口元をゆるめる。
「……分かりました」
ふっと、小さく息を吐いた。
「じゃあ、“死なないため”のライトメイス、ですね」
その言い回しが、少しだけ楽しそうだったのを俺は見逃さなかった。
ティナは羽ペンを手に取り、さらさらと書類に記入していく。最後に、小さな魔晶石を押し当て、印章の光が走った。
――<ライトメイス> ジョブレベル:1
視界の端に、小さなメッセージウィンドウの残像のような感覚が走る。ゲームのUIはない。けれど、世界そのものが、“ジョブの確定”を俺に告げてきた気がした。
(これで俺は、この世界で“ライトメイス”としてカウントされた)
選ばれざる職。
間違って選ぶと笑われた職。
誰も、主役とは見なさなかった職。
いいだろう。
だったら、“その職で最後まで立ってやる”。
「装備の支給は、明日になります」
ティナが書類を閉じ、顔を上げる。
「今夜は、ギルド寮の空き部屋をお使いください。簡単な夕食と朝食も出ます。……森を歩いてきたんですよね?」
俺がうなずくと、ティナは少しだけ眉をひそめた。
「この時間にひとりで森を抜けてきた人……初めて見ました。よく、ご無事で」
「運が良かった。それと、ちょっとだけ知識があった」
ラシュベリーのことは、今のところ胸の内だけに留めておく。あれは、たぶん“俺だけの命綱”だ。
「……知識は、武器ですよ」
ティナがぽつりとこぼした。
予想より大人びた一言だった。
「私、戦えないけど、ここで何年もいろんな人を見てきました。強い人って、武器がすごいとか、魔法が派手とかだけじゃないです。ちゃんと“考えてる”人は、長く生きてます」
どこか誇らしげで、どこか寂しそうな目。
「だから──“死なないため”って言ったちゃたろ〜さんの選び方、ちょっと、いいなって思いました」
胸の奥に、小さな火が灯るような感覚があった。
「……ありがとう。ティナ」
自然と、名前が口から零れる。
ティナは一瞬目を丸くして、それから照れ隠しのように笑った。
「はい。こちらこそ、登録ありがとうございます。明日から、よろしくお願いしますね──ちゃたろ〜さん」
ギルド寮の一室は、驚くほど質素だった。
木枠のベッドがひとつ。小さな机と椅子。窓からは、村の端に灯るランタンがぽつぽつと見える。
それでも、ここは屋根があり、壁があり、扉がある。夜風を防ぎ、獣を遠ざけるだけの“防御力”が、この四枚の板にはある。
支給された簡素なスープとパンをたいらげ、硬いベッドに背中を預けて、暗い天井を見上げた。
(……ここからだ)
ラビグールから逃げた森。ラシュベリーの酸味。ティナのまっすぐな視線。
全部が、今日一日の中に詰まっていた。
(この村で、俺は生きる)
選んだ職は、最弱と蔑まれるライトメイス。だけど、この世界の“内側”を知っているのは俺だけだ。
死なないこと。逃げ切ること。確実に積み上げること。
誰も選ばなかった職で、誰よりも長く、しぶとく立ち続けてやる。
そんな決意を胸に、ようやく瞼が重くなっていく。
外では、夜の虫が鳴き始めていた。その音を遠くに聞きながら、ちゃたろ〜の、転生後はじめての“安全な夜”が、静かに更けていった。




