第2話「奇跡の実と、最初の逃走」
草むらの奥で“何か”が踏み割れるたび、背筋を伝って冷たさが這い上がった。風の流れが変わるたび、皮膚がざわりと粟立つ。この世界の空気は、生者と死者、境界の匂いを正直に運んでくる。
(距離……五メートル。あれは、もう目の前だ)
喉が渇く。汗が耳の後ろをつたい、ひどく冷たい。
姿を現した獣――ラビグール。
かつてゲーム内で「序盤の雑魚」と揶揄され続けた存在。だがいま目の前にいるそれは、ユーザーの笑い話ではなかった。
膨れ上がった片目は爛れ、まばらな毛皮の下から、白い骨と黒い腐肉が覗き、口元には、ちぎれた何かがまだ張りついている。
アンデッド。“死を運ぶ獣”。
(……あれに噛まれたら終わりだ)
ゲームではHPが削れるだけ──だが現実は違う。噛まれれば肉は裂け、感染し、腐り、死ぬ。しかも、生きたまま喰われる可能性すらある。
俺は小石をひとつ拾った。軽い。頼りない。武器とは呼べない。
(仕留めるのは不可能……狙いは、逃げる時間)
そう判断するより早く、ラビグールが濁った咆哮を上げた。
空気が震える。
そして、地面を抉る勢いで、獣が跳びかかってきた。
「っ……!」
反射的に背を向け、斜面へ――全力で駆け下りる。
斜面の草が脚にまとわりつく。湿った土が靴を奪い、何度も転びかける。木の根が膝に引っかかり、肩が石にぶつかった。
それでも、止まれない。止まった瞬間、喰い破られる。
背後から迫る気配は、風ではない。息遣い。腐臭。生き物が走るときの、肉の振動。
「う……おおおおぉぉッ!!」
恐怖を声に変え、枝を蹴り飛ばし、斜面の裂け目へ身を投げるように飛び込んだ。
頬の横を腐った爪がかすめた。
(……あと数歩で、噛まれてた)
心臓が耳の裏で爆音のように跳ね続ける。
ふり返りざま、小石を投げた。ゴッ、と鈍い音。しかし、ラビグールは止まらない。
赤い瞳は揺らぎもせず、ただひたすら“喰う”ためだけに追ってくる。
次の石。さらにもう一つ。また一つ。
腕が震え、指が痛む。
そして――石は尽きた。
(……終わったな)
膝が地に落ちる。肺が焼け、呼吸ができない。
腐った気配が近づき、獣の影が、視界を覆う。
そこで――指先が、何か柔らかいものに触れた。
布の内側。即席の袋に縛りつけた、小さな果実。
ラシュベリー。
(……アンデッドは“生者の力”が嫌いだ)
ゲームの設計仕様。テスト中に、何度もデバッグコンソールに赤字で流れたエラーログ。
アンデッドは、生命力を宿したものを嫌う。回復魔法だけでなく、強い“生気”そのものを忌避する。
(この実にも……微弱な“生気”を乗せていたはずだ)
世界を作った本人にしか、分からない仕様。
迷う理由はなかった。
一粒つかみ取る。腕を後ろへ引き――
「……食らえ、“未実装の救済システム”ッ!!」
ラシュベリーが獣の鼻先で、弾けた。
ぱん、と軽い音とともに、果汁が霧のように散る。甘い香りと酸味の混ざった、生の匂い。
次の瞬間。
ラビグールの体が、びくんと跳ねた。
「……ッッ!!」
獣が喉を裂くような悲鳴を上げ、顔を大きく振り乱す。
その目に――怯えが宿った。
赤い瞳が、俺を見た。見たまま、一歩、二歩、と後ずさり。
そして、草を押し分け、逃げ去った。
森からざわめきが消える。
残されたのは、俺の荒い息だけ。
(……倒してはいない。だが、撃退した)
膝に力が入らず、その場に崩れた。指先が震え、手のひらは冷たい汗でぐっしょりだった。
空を見上げる。深い夕暮れが降り始めている。
「……栄養って、大事だな」
限界の笑いが漏れた。
自分で設計し、没データとして忘れ去られた実が、自分の命を繋いだ。
この世界でラシュベリーの存在を知っているのは、俺だけだ。
つまり――
“知識”こそが、俺の唯一の武器だ。
震える足に力を込める。もう立てる。歩ける。
「……ギルドへ行こう」
誰もいない草原。夜空に少しだけ星が瞬きはじめる。
その下を、ちゃたろ〜は歩き出した。
装備なし。スキルなし。味方なし。
だが――“知識”と“生きる意志”だけは、初期値ではなかった。




