第1話「転生、そして最初の一歩」
最初に意識に戻ってきたのは、痛みだった。
肺が焼ける。吸い込んだ空気が喉の粘膜を逆撫でし、胸の奥で暴れ回る。ひと息ごとに肋骨がきしみ、心臓の鼓動が耳の裏で爆音のように跳ね返った。
「っ……は、ぁ……どこ、だよ……」
掠れた声が、自分の耳に届いた瞬間。違和感が、稲妻のように全身を走った。
――声が、高い。
喉が、細い。息が、軽すぎる。地面を支える足にも、腕にも、馴染みのない感覚がまとわりつく。手を前に出す。痩せた小さな指。皮膚の下の骨の形が、そのまま浮いて見えるような、頼りない掌。
見下ろした胴体も縮んでいた。胸板は薄く、腹には筋肉も脂肪もない。なにより、視界の高さが低い。世界が、やけに大きい。
(……子どもの身体?)
理解が追いつかない。脳が「いつもの自分」を探すたびに、身体のすべてがそれを否定してくる。
混乱。拒絶。現実感の欠如。その全部をまとめてのみ込みながら、意識だけは妙に冷静だった。
(まさか……転生?)
荒唐無稽な単語が浮かび、喉元までせり上がってきて、そこで引っかかったまま、消えなかった。
否定する材料は、どこにもない。むしろ、「そうとしか思えない」状況が、周囲一面に広がっていた。
鼻腔を抜けるのは、湿った土の匂い。腐葉土と、乾きかけた草と、遠くで燃えた何かの煙の残り香。
視界が少しずつ開いていく。目の前に広がるのは、見知らぬ――だがどこかで何度も“見たことのある”草原だった。
細長くねじれた茎。くるりと巻いた葉。図鑑用に描いた資料の中から、コピーして貼り付けたようなシルエット。
空を仰ぐ。青――と言うには少しだけ深い、青緑がかった色。遠くの地平線には、地表から歪に突き出した塔のような岩山が、斜めに傾きながらそびえている。
(……知ってる。全部、知ってる)
名前が浮かぶ。手が、キーボードを叩いた感触を思い出す。
草原タイルA-03。環境オブジェクト:ラシュ草。遠景オブジェクト:ピラー・ロック群。
それらをひとまとめにするタイトルは、ひとつしかない。
「……《ぶーぶークエスト》、か」
小さくこぼれた言葉は、思考よりも先に喉を滑り落ちていた。
かつて自分が趣味と執念で設計し、未完成のまま放置されたオンラインRPG。
無数の没データと、テスト中の仕様と、バグの山と一緒にサーバーの奥で眠っていたはずの世界。
それがいま、「現実」として目の前にある。
直感は、一瞬で確信になった。この世界は間違いなく、俺が作りかけて手放した“あの世界”だ。
けれど、歓喜は湧いてこなかった。
ゲームデザイナーとしての興奮よりも早く、腹の底からせり上がってきたのは、冷たい恐怖だった。
(これは夢じゃない。……死んだら終わる)
リセットも、再ログインも、デバッグフラグもない世界。GM権限もコンソールもない。HPがゼロになれば、「キャラ」じゃなく、ここで“俺”ごと消える。
反射的に、ステータスウィンドウを呼び出そうとした。視界の端にUIが現れることを期待して、意識を集中させる。
――何も、出ない。
(だよな。ユーザーインターフェースなんて、実装前だ)
代わりに、脳内で完成していた設計図が、淡く再生される。
初期ステータス。年齢設定:10歳。ジョブ:なし。スキル:なし。装備:ボロい服。以上。
――つまり、いまの俺はそのまんま“テスト用最弱キャラ”だ。
武器も金も仲間もなく、残されたのは開発者としての知識だけ。しかも、この身体は明らかにゲーム仕様よりも細く、脆い。エラーでロールバックしてくれ、なんて逃げ場もない。
「……詰んではいない。けど、油断したらすぐ死ぬ」
言葉にしてみると、逆に心が落ち着いていく。状況は最悪。だが、理解はできる。理解ができるなら、対処もできる。
俺は――ちゃたろ〜。
異世界に投げ込まれ、この世界を知っている“唯一の元開発者”で、そして今はただ、生き延びることを課されたひとりの子どもだ。
足元に目を落とす。
乾いた草と、小石と、ところどころ露出した固い土。太陽は西に傾きかけていて、影が長く伸びていた。
日暮れは近い。このまま何もしなければ、裸同然・武器なし・子どもで夜を迎えることになる。
この世界の夜が、「初心者に優しいわけがない」。
「まずは……飯と、寝る場所だな」
死なないこと。それが最優先だ。強くなるのは、その先でいい。
そう決めたとき――視界の端で、赤紫の色がちらりと光った。
「……ラシュベリー?」
転がっていたのは、親指の先ほどの小さな果実だった。
ぶどうとラズベリーの中間のような形。薄く張った皮の下に、じっとりとした果汁が詰まっている。
喉が鳴った。
これは、ただの果物じゃない。
(空腹システムテスト用の救済アイテム……)
思い出す。
昔、リアル時間連動の空腹システムを入れようとして、空腹ペナルティが重すぎてテスター全員にブチ切れられた。
そのとき、「それでも何かしら自力で飢えをしのげる手段」として仮実装したのが、このラシュベリーだ。
・草原エリアのごく一部にランダム生成。
・空腹度を微量回復。
・水分もわずかに補給。
・腹はふくれないが、「今すぐ死なない」を支える最低ライン。
ユーザーからは一言。
『こんなもん探して歩くゲームはいやだ』
――即没案。コードの端で眠ったまま、この世から消えた仕様。
だからこそ、この実の存在を知っているのは、この世界で“俺だけ”だ。
「……ありがとな、過去の俺」
苦笑しながら、一粒をつまみ上げ、口に放り込む。
薄い皮がぷちっと弾け、酸味と甘味がいっぺんに舌に広がる。乾いてひりついていた喉を、冷たい果汁がゆっくりと撫でていく。
それは、「ただの栄養」ではなかった。
自分が設計した「ゲームの救済処置」が、いまは自分の命をつなぐ“現実の救済”として効いている。
(……何粒か、持っておこう)
木の根元を探る。低い枝に、まだいくつか実が残っている。
服の裾を片方だけ引き出し、袋のようにして果実をまとめ、即席の紐で口を縛る。
これで、とりあえず半日は動ける。たったそれだけで、「死ぬ確率」が目に見えて下がる。
この世界では、そういう小さな積み重ねが、生と死の境目を分ける。
――俺の第二の人生は、「生き延びる工夫」から始まる。
そう決意した直後だった。
「……!」
風が、変わった。
さっきまでただの乾いた空気だったのが、どこか濁った、ざらつきのある流れに変質する。
草の擦れる音が、妙に重い。湿った足音が、土の上を引きずるように近づいてくる。
覚えがある。
ゲーム時代、何百回と聞いたSE。スピーカー越しではなく、いまは鼓膜と、皮膚と、背骨で聞いている。
「……ラビグール、か」
草むらをかき分けるように現れたのは、灰色の毛に覆われた獣だった。
膨れ上がり、濁った白に変色した片目。骨が浮き出た痩せた胴体。ところどころ皮膚が裂け、乾いた血が黒く固まっている。
本来は「序盤の練習用に」と配置した、アンデッド系雑魚モンスター。
だが、いまの俺の状況で、それは“チュートリアル敵”などではない。
武器なし、防具なし、スキルなし、子どもの肉体。噛まれれば、多分そのまま終わる。
じり、じり――。草を踏みしめる音が、一歩ずつ間合いを詰めてくる。
ラビグールの濁った眼が、俺を射抜く。そこにあるのはゲーム的な「ターゲット識別」ではない。「自分より弱い肉塊」を判断するときの、生物の視線だ。
(……死ぬわけにはいかない)
ラシュベリーを包んだ裾を握る手に、自然と力がこもる。
足元を見やる。小石。折れた枝。乾いた土。使えるものと、使えないものが、瞬時に分類されていく。
ゲーム開発者として積み上げた設計と、プレイヤーとして積み上げた戦闘の記憶。そしていま、この身体で動ける範囲。
全部を一瞬で重ね合わせる。
(――生き延びろ、俺)
逃げるにしても、迎え撃つにしても、「最初の一歩」を間違えたら終わりだ。
喉を焼くような呼吸を、ひとつ深く吸い込む。
ここからが、本当の意味での――俺の“最初の一歩”だ。




