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第26話「──決意と、胸のうち」

 朝の光が、診療室の薄布を透かして揺れていた。

 夜の冷えはまだ床板のあたりに残っていて、空気の底だけが少し重い。

 薬草を煮た匂いと、乾いた血の匂いが、静かな部屋に薄く混ざっていた。


 ちゃたろ〜は、まどろみの底から水面へ浮かび上がるみたいに、ゆっくり瞼を開いた。


 最初に見えたのは、木の天井だった。

 節の形。細いひび。梁の影。

 どうでもいいものほど妙にはっきり見える。

 生きている時は、だいたいそうだ。


 首を少しだけ動かす。


「っ……」


 皮膚の表面じゃない。もっと奥だ。

 肩から胸、脇腹、背にかけて、鈍い痛みが遅れて広がる。


 傷そのものは塞がっている。だが、塞がっただけだ。

 中身はまだ戦場のままだった。


 息を吸う。

 浅い。

 もう一度吸う。

 痛い。

 けれど、吸える。


(……生きてる、か)


 その実感は、安堵というより確認に近かった。


 戦いの記憶は途切れ途切れだった。

 映像は曖昧なのに、音だけが妙に鮮明に残っている。


 メッサーラの咆哮。

 障壁の砕ける音。

 地面が軋む音。

 誰かの怒鳴り声。

 短い指示。

 枝を蹴る音。

 矢が風を裂く音。


 鼓膜の裏に、まだ貼りついている。


 ちゃたろ〜はゆっくり目を横へ向けた。


 椅子の上に、ライトメイスが立てかけてある。

 近くにあるだけで、少し安心した。


 だが、その姿を見た瞬間、胸の奥が冷えた。


 柄はひびだらけだった。

 金属の縁は欠け、先端は熱で歪んだみたいに潰れている。

 黒い焦げがところどころに残り、乾いた泥と血が細い筋になってこびりついていた。


 あれで、よく最後まで持った。

 いや。

 持った、じゃない。


(……持たせた、だけか)


 そう思った瞬間、指先の温度がすっと引いた。


 あの戦いは、勝ちではない。

 討伐でもない。

 倒したわけじゃない。追い詰めたわけでもない。


 メッサーラは仕様どおり、この世界に留まりきれなくなって、時間切れで消えただけだ。


 もし、あの一拍が遅れていたら。

 もし、仲間が間に合わなかったら。

 もし、最後のスタンが外れていたら。


 診療室の静けさが、一瞬で薄くなる。

 代わりに、あの場の圧が胸の奥へ戻ってきた。


(……完敗だよな)


 思った、ではなかった。

 その言葉は、心のもっと冷たいところに最初から置いてあった。


 運。

 仲間。

 諦めなかった意地。

 生き残った理由を数えると、それしかない。


 自分が強かったから生きた、とはとても言えなかった。


 ちゃたろ〜はゆっくり手を伸ばし、ライトメイスの柄に触れた。


 ざらついている。

 焦げと削れで、いつもの手触りではなくなっていた。


 握る。

 痛む。

 それでも、握れた。


「……このままじゃ、次は死ぬな」


 口から出た声はかすれていて、自分の声なのに少し遠かった。


 冗談ではない。弱音でもない。

 ただの事実確認だった。


 その事実が、妙にすとんと胸へ落ちる。


 死ぬ。

 このままなら、死ぬ。


 昨日はたまたま生き残っただけだ。

 村の前に立てたのも、時間を稼げたのも、全部ぎりぎりだった。


 あれがもう一段強い個体だったら。

 仲間の到着がほんの少し遅かったら。

 村に入られていたら。


 考えたくもない光景が、頭の隅へにじむ。


 門が破られる。

 火が上がる。

 悲鳴が走る。

 守れなかったものが地面に増える。


 ちゃたろ〜は眉を寄せて、その想像を切った。


 嫌なものは嫌だ。

 見たくないものは見たくない。

 でも、目を逸らしたところで消えるわけじゃない。


 守りたいなら、強くなるしかない。

 それも、曖昧なままじゃ駄目だ。


 なんとなく殴って、なんとなく庇って、なんとなく生き残るんじゃ足りない。


 必要なのは、役割だ。

 前に立つための形。

 受けるための技。

 支えるための積み方。


 自分が何をやる人間なのかを、はっきり決めること。


 ちゃたろ〜は壊れたメイスを両手で持ち、しばらく黙っていた。


 守る。

 その言葉自体は、ずっと前から胸にあった。


 けれど、昨日初めて分かった。

 守りたいと思っているだけでは、守れない。


 痛くて。

 悔しくて。

 怖くて。

 それでも前に立ち続けるための、技術と覚悟が要る。


 ちゃたろ〜は息を吐いた。

 長く。

 痛みを押し出すみたいに。


「……俺、やっぱり」


 言葉が途中で止まる。

 喉の奥が少し詰まった。


 認めることになるからだ。

 今の自分じゃ足りないと。

 村にいたままでは、届かない場所があると。

 ここを離れる必要があると。


 それを口に出したら、戻れなくなる気がした。


 でも、戻れないほうがいい。

 戻れると思うから、人は半端になる。


 ちゃたろ〜は壊れたメイスを見た。

 昨日の自分が全部ついている。


 潰れた先端。

 焦げた縁。

 削れた柄。


 みっともない。

 無様だ。

 でも、だからこそ嘘がない。


「……俺は、メイス盾になる」


 短い言葉だった。


 格好のいい宣言でもなかった。

 何かが劇的に変わった感じもしない。


 ただ、その一言を口にした瞬間、胸の中に漂っていた曖昧さが、少しだけ形を持った。


 受ける。

 守る。

 前に立つ。


 それを、ちゃんとできるようになる。


 もう、“運が良かった”では終わらせない。


「ここを守れるように、なる」


 今度の言葉は小さかった。

 けれど、最初の一言より重かった。


 その時、廊下の向こうで誰かの足音がした。

 控えめに扉が叩かれる。


「起きてるか」


 聞き慣れた低い声だった。


「……起きてる」


 返すと、少し間があって扉が開いた。


 入ってきたのはバルドだった。

 包帯を腕に巻き、胸当てには新しい傷がいくつも走っている。

 立っているだけで、昨日の続きみたいな男だった。


 後ろからミナリスも顔をのぞかせる。

 肩に布を巻いていて、普段より少し青い顔をしていた。


 そのさらに後ろで、壁にもたれるようにウソヤクが立っている。

 帽子のつばの下の目だけが妙に起きていた。


「全員いるのかよ……」


「一人で見舞いなんか来るかよ、重いだろ」


 ウソヤクが鼻で笑った。


「お前が寝たきりで殊勝になってるか確認しに来たんだよ」


「口が軽いな……」


「そりゃ元気で結構」


 いつもの調子のやり取りだった。

 なのに、診療室に少しだけ張っていた緊張が、その数秒で薄くなる。


 ミナリスが一歩前へ出た。


「……痛む?」


「痛い」


 正直に答えると、彼女は少しだけ口元を緩めた。


「そう。よかった」


「よくはないだろ」


「死にかけた人が、そうやって文句言えるなら十分よ」


 そう言った声の奥に、夜を越えた疲れが残っていた。


 バルドは椅子の背に手を置き、壊れたライトメイスを見下ろした。


「それ、修理するのか」


「する。できるなら」


「できねえなら」


「新しいの探す」


 答えながらも、ちゃたろ〜の手はメイスから離れなかった。


 バルドはその様子を見て、何か言いかけ、結局別の言葉を選んだ。


「……昨日は、無茶しやがったな」


「したな」


「自覚あるのかよ」


「ある」


「ある顔してねえ」


 低い声だった。怒鳴ってはいない。

 だからこそ、余計に重い。


 バルドは腕を組んだまま、ちゃたろ〜をまっすぐ見た。


「一歩間違えりゃ死んでた」


「うん」


「二歩間違えりゃ村まで崩れてた」


「……うん」


「なのにお前、最後まで前に出たな」


 返事がすぐに出なかった。

 出せなかった、が正しい。


 ちゃたろ〜は少しだけ視線を落とした。


 誤魔化す言葉はいくらでも作れた。

 でも、そういう場面ではないと分かっていた。


「……下がったら、終わると思ったから」


 それしか言えない。


 バルドはしばらく黙った。

 責めるでもなく、褒めるでもなく、その言葉の重さを量るような沈黙だった。


 先に口を開いたのはミナリスだった。


「あなたが時間を稼いでくれなかったら、たぶん間に合わなかった」


「でも、倒せてない」


 思ったより早く言葉が出た。

 自分でも少し驚くくらい、するりと出た。


「勝ったわけじゃない。俺一人じゃ何もできなかった。あれは……」


 そこで言葉が止まる。

 情けない、と言いたかったのかもしれない。

 足りない、と言いたかったのかもしれない。


 どちらも本当で、どちらも足りなかった。


 ミナリスが静かに首を振った。


「何もできなかった人は、あそこで最後まで立たない」


「でも」


「でも、は分かるわよ」


 彼女の声は強くなかった。

 むしろ、ひどく静かだった。


「分かる。自分が納得してないことも。たまたま助かったって思ってることも。運が一つ違えば全部終わってたって、あなたが一番よく知ってることも」


 ちゃたろ〜は何も言えなかった。


 分かってほしいような、分かってほしくないようなところを、きっちり見抜かれると人は黙る。


 ウソヤクが壁から背を離した。


「ま、俺としては」


 三人の視線が向く。


 彼は肩をすくめた。


「昨日のお前、かなりむかついたけどな」


「なんでだよ」


「死にそうな顔で一番前に立ってるやつ見ると、助ける側の胃が痛むからだよ」


「知らないところで胃を痛めるな」


「知るか。痛むもんは痛む」


 軽口なのに、妙に本音だった。


 ウソヤクは少しだけ目を細めた。


「ただまあ、逃げなかったのは事実だ。そこは認める。認めるけど、次も同じノリで行かれたら困る」


「ノリじゃねえよ……」


「ノリじゃないなら、なおさら悪い。計算して前に立て。お前、昨日の最後、運と根性に寄りすぎだ」


 それは痛いくらいに正論だった。


 ちゃたろ〜は苦く笑った。


「……返す言葉がない」


「あるなら聞くけど」


「ない」


「だろうな」


 バルドがそこで、やっと本題に入るみたいに顎を引いた。


「で」


 短い一音。


「本気か」


 ちゃたろ〜は顔を上げる。


「……何が」


「決まってんだろ。村を出る気があるのかって聞いてんだ」


 診療室の空気が少しだけ変わった。


 その言葉は、たぶん三人とも最初から分かっていた。

 ちゃたろ〜が昨日の一件で、もう同じ場所には戻れないだろうことを。


 それでも、口に出すのは別だ。


「……あるよ」


 答えると、バルドは瞬きもしなかった。


「迷いは」


「ある」


「ないって言えよ、そこは」


「あるもんはある」


 思わずそう返すと、バルドの口元がわずかに動いた。

 笑ったというより、力の入れ方を変えた顔だった。


「そうかよ」


 ちゃたろ〜は一度息を整えた。


「怖いよ。普通に。村の外なんてちゃんと知らないし、昨日みたいなのがまた来るかもしれないし。ここ離れたら、すぐに何か変わるわけでもない」


 自分で言いながら、情けない気もした。

 けれど、この三人の前でくらいは、綺麗に整えた言葉を使いたくなかった。


「でも、このままここにいても駄目だって分かった。昨日、はっきり分かった。守りたいなら、ちゃんと前に立てる形を身につけないと無理だ」


 壊れたメイスを少し持ち上げる。


「俺、メイス盾になる」


 さっき一人で言った時より、言葉が重かった。

 人に聞かれる言葉は、そのぶん逃げ道が減る。


「推薦状をもらって、学ぶ。受け方も、立ち方も、守り方も。中途半端じゃなく」


 ミナリスが息を呑む音が、小さく聞こえた。


 バルドは黙ったまま、しばらくちゃたろ〜を見ていた。


「……覚悟はあるんだな」


「ある、とは言い切れない」


「おい」


「でも、逃げるよりは前に行きたい」


 ちゃたろ〜は少しだけ笑った。

 強がりでもなく、開き直りでもない。自分で自分をなだめるみたいな笑いだった。


「昨日さ。ようやく分かったんだよ。死ななきゃ、なんとかなるって」


 その瞬間、三人の反応がきれいに分かれた。


 ミナリスは目を見開き、すぐに困ったように眉を寄せた。

 バルドは呆れた顔で天井を見る。

 ウソヤクは片手で顔を覆った。


「お前、それ」


 バルドが低く言う。


「今の流れで出てくる台詞か?」


「出てきた」


「もっと他にあるだろ」


「たとえば?」


「知らん。もうちょっとこう、あるだろ」


 ミナリスが、こらえきれないみたいに小さく笑った。


「でも、あなたらしいわ」


「褒めてる?」


「半分だけ」


 ウソヤクがため息をつく。


「……ま、いい。そうやって妙な顔で前向いてるやつのほうが、案外しぶとい」


 その言い方が、彼なりの了承だと分かった。


 バルドは最後に一歩だけ近づき、ちゃたろ〜の肩へ大きな手を置いた。

 傷に当たらないよう、ちゃんと位置を見ている手だった。


「行くなら、半端で帰ってくるな」


「うん」


「死ぬな」


「うん」


「あと」


「あと?」


「次に会う時は、昨日みてえな顔で前に立つな。もっと、計算した顔で立て」


 ちゃたろ〜は小さく笑った。


「難しい注文だな」


「できるようになってから戻ってこいって言ってんだよ」


 それは不器用な送り出しで、でもたしかに送り出しだった。


* * *


 昼を過ぎると、村はいつもの顔に戻っていた。


 畑では人が屈み、井戸では桶が鳴り、どこかで子どもの笑い声が跳ねる。

 昨日の夜、この場所のすぐ近くに死が立っていたなんて、知らないみたいな顔で、村は今日を始めていた。


 ちゃたろ〜は診療所の外へ出て、その光景をしばらく眺めた。


 眩しい、と思った。

 日差しが強いからではない。

 昨日の夜が濃すぎたからだ。


 土の匂いがする。

 乾いた藁の匂いもする。

 湯気の上がる鍋の匂いまで混ざってくる。


 全部、守れた側の匂いだった。


 守れた、と言い切るにはまだ胸が痛む。

 けれど、失わずに済んだものがここにある。

 それだけは本当だった。


 だからこそ、次も同じでいいとは思えなかった。


 守れた日があったなら、次も守れるようにならなければ意味がない。


 村の通りをゆっくり歩く。


 挨拶をされる。

 怪我は大丈夫かと聞かれる。

 ありがとう、と言われる。


 そのたび、ちゃたろ〜は少し困った顔で笑った。


 ありがたい。

 でも、全部をそのまま受け取るには、昨日の自分があまりにもぎりぎりすぎた。


 村の門が見えてきた。


 そこに、三つの影があった。


 バルド。

 ミナリス。

 ウソヤク。


 さっき別れたばかりなのに、またいる。


「なんでまた集合してんだよ」


「お前がのこのこ歩いてくると思ったからだ」


 バルドが即答する。


「暇か」


「暇じゃねえ」


「じゃあなんで」


「待ってたんだよ。言わせんな」


 ぶっきらぼうな声の奥に、ちゃんと熱があった。


 ミナリスは門柱に背を預けていた体を起こした。

 風で髪が少し乱れている。

 その顔には、まだ迷いみたいなものが薄く残っていた。


「あなた、本当に今日のうちに話を通すつもりなの?」


「うん。気持ちが鈍る前に」


「鈍る前に、って……」


 彼女は呆れたように言って、でもすぐに視線を落とした。


「いえ、そうね。あなたはそういう時、たぶん早いほうがいい」


 ウソヤクが帽子のつばをいじる。


「遅いと余計な情が挟まるからな」


「ひどい言い方だな」


「事実だろ。お前、情が挟まるとその場で踏ん張り始めるタイプじゃん」


 否定できなかった。


 バルドが腕を組んだ。


「最後に聞く」


「なに」


「本気で行くんだな」


「……うん」


「ここを離れてもか」


「離れるから行くんだよ」


 答えると、バルドは一度だけ目を閉じた。

 それは納得というより、飲み込む動作に見えた。


 ミナリスが口を開く。


「寂しい、とは言わないわ」


「言ってもいいよ」


「言わない。言ったら、あなた少し揺れるでしょ」


「否定しづらいな」


「でしょうね」


 彼女は小さく笑い、すぐに真顔へ戻った。


「だから、別のことを言う。ちゃんと学んできて。無茶を格好いいことだと思わないで。戻ってくる時は、昨日よりずっと嫌な相手にも耐えられる顔で戻ってきて」


「注文多いな」


「当然よ。こっちは見送る側なんだから」


 その言い方が妙に胸に残った。


 見送る側。

 出ていく側だけが苦しいわけじゃない。

 残る側にも、その立場の痛みがある。


 ちゃたろ〜が何か返そうとした時、ウソヤクが先に割って入った。


「あと一個」


「まだあるのかよ」


「ある。お前、多分向こうでも無茶するだろ」


「予言みたいに言うな」


「予言じゃない。観察だ。だから一個だけ覚えとけ」


 彼は指を一本立てた。


「一人で何とかしようとするな。盾役ほど、周り使ってなんぼだ」


 ちゃたろ〜は少し黙った。


 昨日、自分が前に立った場面が頭をよぎる。

 あの時は確かに必要だった。

 けれど、あれを毎回やるのは違う。


「……分かった」


「今の間は不安だな」


「理解するまでちょっとかかっただけ」


「かかるな、その場で分かれ」


 そこへ、バルドが低く笑った。

 短い、かすれた笑いだった。


「まあいい。お前はそうやって、一回痛い目見てから覚える」


「今回かなり痛かったけどな」


「だから次はもう少し上手くやれって話だ」


 ちゃたろ〜は三人の顔を順に見た。


 昨日、自分の横や前や上にいた連中だ。

 それぞれ傷を負って、それでもこうして立っている。


「……ありがとな」


 出てきた言葉は、それだけだった。


 もっと気の利いたことを言えそうな気もしたが、たぶんこれが一番正直だった。


 ミナリスは静かに頷いた。

 ウソヤクは視線を逸らし、バルドは「遅い」とだけ言った。


 でも、その遅い、は悪い意味じゃなかった。


* * *


 夜。


 村外れの丘に立つと、風が昼よりずっと冷たかった。


 星はやけに近く、黒い空に無数の穴が開いたみたいに瞬いている。

 草は風に伏せ、起き、また伏せる。

 遠くの家々の灯りは低く、小さく、守るべきものの数みたいに散っていた。


 ちゃたろ〜は一人で立ち、夜の匂いを吸った。


 湿った土。

 草の青さ。

 冷えた空気。

 どこかの家の、遅い夕餉の煙。


 村を出ると決めたくせに、こうして嗅ぐと全部が惜しくなる。


 この匂いも。

 この静けさも。

 この高さから見える灯りも。


 背後で、草を踏む音がした。


 軽い足音だ。

 でも、迷いがある。


 来るか戻るか一度迷って、それでも来た足音。


 振り返る前に分かった。


「……ティナ」


「分かるんだ」


「足音で」


「やだ、それ。ちょっと恥ずかしいんだけど」


 声は弱くなかった。

 でも、いつもの軽さとも少し違った。


 ちゃたろ〜が振り返ると、ティナは少し離れたところで立ち止まっていた。


 髪が風に揺れて、頬にかかる。

 それを払う手が、ほんの少しだけ落ち着かない。


「来ると思った?」


「半分くらい」


「半分ってなによ」


「来ないように我慢するか、来るかで迷って、でも来るほう」


「……むかつく」


「当たってる?」


「当たってるからむかつくの」


 そう言って、ティナはちゃたろ〜の隣まで来た。

 肩が触れないぎりぎりの距離で止まる。


 少しの間、二人とも空を見ていた。


 先に口を開いたのはティナだった。


「……行くんだね」


「うん」


「本当に」


「うん」


「明日?」


「たぶん」


「たぶんって。そこはちゃんとしてよ」


「ちゃんとしてる。ちゃんとしてるけど、まだ全部決まってるわけじゃないだけ」


 ティナは口を引き結んだ。


 風が吹く。

 草がざわつく。

 その音がやたら大きく感じる。


「私さ」


 ティナの声が少し低くなる。


「昨日、すごく怖かった」


 ちゃたろ〜は返事をしなかった。

 していい場面じゃないと思った。


「すごく、怖かった。あそこで倒れるかもしれないって思って。もう立たないかもしれないって思って。喉の奥がずっと変で、ちゃんと息できなくて」


 彼女はそこで一度言葉を切った。

 呼吸を整えるみたいに、小さく息を吸う。


「なのに、今日になったら今度は、別の怖さが来るの」


 ちゃたろ〜は横目で彼女を見た。


 ティナは夜空を見ている。

 でも、見ているのは星じゃない気がした。


「行くって決めた顔してるの見たら、止めたら駄目なんだって分かる。分かるのに、分かるほど嫌で……なんか、胸の中がずっとざわざわする」


 笑おうとしたのだろう。

 けれど、口元はうまく形にならなかった。


「置いていかれるみたいで、やだ」


 最後の一言だけ、ひどく小さかった。


 ちゃたろ〜はしばらく黙っていた。


 慰める言葉はいくらでも浮かぶ。

 でも、そのどれも少し軽かった。


「……置いていくつもりじゃないよ」


「分かってる」


「ほんとに?」


「分かってるって言ってるでしょ」


 少し強い声で返される。

 でも怒っているわけじゃない。

 泣きそうなのを押さえる時の強さだった。


「分かってるの。ちゃたろ〜が逃げるんじゃなくて、行かなきゃいけないって思ってるのも。ここを守るためだってことも。分かってる。分かってるんだけど、分かるから平気になるわけじゃない」


 その言葉が、胸の奥へ静かに刺さる。


 ちゃたろ〜は前を向いたまま言った。


「俺も、怖いよ」


 ティナが少し目を見開く気配がした。


「怖い。村を出るのも。外で通用するか分からないのも。戻ってきた時に、ちゃんと強くなれてるか分からないのも」


 言いながら、自分の弱さを並べている気もした。

 けれど、ティナの前でそれを隠す気にもなれなかった。


「でも、昨日分かったんだ。怖いままでも、進まなきゃ駄目な時がある」


 風がまた吹く。

 ティナの髪が揺れ、その向こうで唇が震えるのが見えた。


「……ずるい」


「なにが」


「そういうふうに言われると、止めづらくなる」


「止めるつもりだったの?」


「……ちょっとだけ」


 その“ちょっと”に、どれだけの感情が詰まっているのかは聞かなくても分かった。


 ティナは俯き、草の先を見たまま言った。


「行けばいいよ」


 投げたみたいな言い方だった。


「置いてけばいい」


 ちゃたろ〜は何も言わない。


「でもね」


 そこで彼女は顔を上げた。

 目元は揺れている。けれど、逃げてはいなかった。


「私、このまま待ってるだけは嫌だから」


 声に、芯が戻る。


「ちゃたろ〜が外で強くなるなら、私もここで強くなる。次に会った時、守られるだけの側にいたくない」


 その言葉は綺麗すぎなかった。

 むしろ少し乱れていて、だから本物だった。


「追いつくから」


 ティナは眉を寄せたまま言った。


「すぐじゃなくても、ちゃんと追いつく。だから……だから、勝手に遠くへ行ったつもりにならないで」


 ちゃたろ〜はその顔を見た。


 泣きそうで。

 怒っていて。

 寂しそうで。

 それでも、前を向こうとしている顔だった。


「……うん」


 軽い返事にはしたくなかった。

 だから短く、でもはっきり返した。


「待ってる、じゃなくて、追いつくんだもんね」


「そう」


「じゃあ俺も、追いつかれて困らないくらいには強くならないとな」


「そこは“困る”って言ってよ」


「なんでだよ」


「知らない。なんか悔しいから」


 そのどうしようもない理屈に、ちゃたろ〜は少し笑った。


 ティナも一瞬だけ笑いかけて、すぐ顔を逸らした。

 涙は見せたくないのだろう。

 だから、ちゃたろ〜も見ないふりをした。


 見ないふりをすることが、たぶん今は優しさだった。


 二人はしばらく、何も言わずに並んで立っていた。


 星は変わらず遠く、村の灯りは変わらず近い。

 その間にある夜気だけが、少しずつ冷えていく。


 やがてティナが小さく言った。


「……ちゃんと戻ってきて」


「うん」


「死なないで」


「うん」


「あと」


「あと?」


「お腹空いたらちゃんと食べて」


「そこ?」


「そこ大事」


「分かった」


「分かってなさそうだから言ってるの」


 その一言で、ようやくいつもの調子が少しだけ戻る。

 それが逆に、別れの近さを教えるみたいで、胸が少し痛かった。


* * *


 夜明け前の空は、黒ではなく深い青だった。


 村の門には薄い霧が漂い、草の先に小さな露がついている。

 鳥の声はまだ少ない。

 世界が起きる少し前の、ためらいみたいな静けさだった。


 荷物は多くない。

 背負えるだけ。

 今の自分が持っていけるだけ。


 ちゃたろ〜が門へ向かうと、そこに二人の影があった。


 ティナ。

 ルナ。


 来るだろうとは思っていた。

 思っていたけれど、実際に立っているのを見ると、やっぱり胸のどこかが詰まる。


 ティナは腕を組み、いつもより少しだけ険しい顔をしていた。

 その隣でルナは落ち着かなそうに指先をもじもじさせている。


「……来た」


 ティナが言う。


「来たけど」


「来たけど、じゃないの」


「うん」


 それ以上に気の利いた返しが出なかった。


 ルナが一歩だけ前へ出る。


 何か言おうとして、やめる。

 また言おうとして、やめる。


 その繰り返しのあと、ようやく小さく声が出た。


「……あの、ちゃたろ〜さん」


「うん」


「……ご飯、食べましたか」


 一瞬、空気が止まった。


 次の瞬間、ちゃたろ〜は目を瞬かせ、ティナは額を押さえ、ルナは言ったあとで顔を赤くした。


「いや、その、違っ、違くなくはないですけど、もっと言うことあるって分かってるんですけど、でも、その、出る前に食べてないと絶対だめかなって……」


 必死に言い直そうとして、余計に絡まる。


 ちゃたろ〜は思わず笑ってしまった。


「……食い忘れたかも」


「ほら!」


 ティナが即座に言った。


「やっぱり!」


「やっぱりってなんだよ」


「そういうとこよ!」


 ルナも困ったように頷く。


「だと思いました……」


「そんな分かりやすい?」


「分かりやすいです」


「分かりやすいわよ」


 二人に即答されて、ちゃたろ〜は苦笑した。


 緊張していた空気が、その数秒だけ少し緩む。

 たぶんルナは最初からそれを狙ったわけじゃない。

 でも、彼女らしい一言で場が救われた。


 ルナは小さな包みを差し出した。


「これ……持っていってください。そんなに大したものじゃないですけど、途中で食べられるように」


「用意してたのか」


「はい。たぶん食べ忘れると思ったので……」


「信用がない」


「あります。でも、別の意味で心配なんです」


 その率直さに、また少し笑う。


 包みを受け取ると、まだほんのり温かかった。


 ティナがそのやり取りを見て、ふっと息を吐く。


「ほんとに行くのね」


 今度の言葉は、昨夜より静かだった。

 覚悟した人の声だった。


「うん」


「止めても行く?」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて、行くんでしょ」


「……行く」


「よろしい」


 そう言ったくせに、ティナの目は少し赤かった。


 ちゃたろ〜は見て見ぬふりをする。

 ティナもたぶん、それを望んでいる。


 しばらく誰もしゃべらなかった。


 霧が流れる。

 朝日が少しずつ輪郭を強くする。

 遠くで最初の鳥が鳴く。


 その音に押されるみたいに、ティナが一歩前へ出た。


「……行ってこい」


 ほんの少し間があった。

 それから、いつもの調子を無理やり引っぱり出すみたいに、彼女は口元を持ち上げた。


「ばーか」


 その一言に、泣くのも怒るのも寂しいのも、たぶん全部入っていた。


 ちゃたろ〜は照れたように笑った。


「それ、送り出しの言葉としてどうなんだよ」


「いいの。私が言いたいから言うの」


「そっか」


「そっか、じゃない」


「じゃあ、なんて返せばいいんだよ」


 ティナは少しだけ目を細めた。


「ちゃんと戻るって言えばいい」


 ちゃたろ〜は頷く。


「……ちゃんと戻る」


 ティナは何も言わなかった。

 でも、その沈黙は受け取った沈黙だった。


 ルナが小さく頭を下げる。


「お気をつけて」


「うん」


「ご飯、ちゃんと……」


「食べる」


「本当に?」


「本当に」


 最後にもう一度二人を見る。


 門。

 霧。

 草の匂い。

 朝の白さ。

 見送りに立つ二人。


 これを全部、忘れないまま強くなりたいと思った。


 ちゃたろ〜は背を向け、歩き出した。


 振り返らない。

 振り返ったら足が少しだけ鈍る気がした。


 だから前だけを見る。


 朝の光の中へ。

 霧の向こうへ。

 まだ見ぬ道へ。


* * *


 彼の背中が小さくなっていく。


 霧の中へ入るたび、輪郭が薄くなって、また少し見えて、また薄くなる。


 ティナはその場から動けなかった。


 笑えていたのかどうか、自分でも分からない。

 最後くらいちゃんと送り出したかったのに、胸の奥はずっと掻き回されたみたいで、息の仕方まで少し変だった。


 隣でルナが静かに立っている。

 何も言わないのがありがたかった。


 風が吹く。

 草が揺れる。

 朝の匂いがする。


 いつもの村の朝だ。

 なのに、何かひとつだけがはっきり足りない。


「……もう見えない」


 自分でも驚くくらい小さな声だった。


 ルナがそっとこちらを見る。

 でも、やっぱり何も言わない。


 ティナは門の外を見たまま、唇を噛む。


 泣くのは嫌だった。

 あんなふうに送り出しておいて、見えなくなった瞬間に泣くのは、なんだか負けたみたいで嫌だった。


 けれど、目の奥は熱い。


(ちゃんと笑えてたかな)


 昨夜、あんなに格好つけたのに。

 追いつくって言ったのに。

 朝になったら結局これだ。


 情けない、と思う。

 でも、その情けなさごと飲み込んで前に行くしかないことも、もう分かっていた。


 ティナは一歩だけ前へ出て、門の外の土を見た。


 彼が踏んでいった跡は、朝露でまだ少し濃い。

 それもじきに乾いて消える。


 消えるけれど、なかったことにはならない。


「……私もやる」


 独り言みたいにこぼれる。


 剣を振る。

 走る。

 息を整える。

 怖くても前に出る。


 待っているだけなんて、やっぱり性に合わない。


 追いつくと言ったのなら、追いつくための毎日を積むしかない。


 ティナは空を見上げた。


 朝の青はまだ薄い。

 でも、その向こうはきっともっと高い。


「ちゃんと強くなるから」


 返事はない。

 届くわけもない。

 それでも言葉にしたかった。


「次に会う時は、隣に立てるくらいには」


 風がまた吹いた。

 草が揺れ、門柱の影が少しだけずれる。


 ティナは涙を袖で乱暴に拭って、息を吐いた。


「……行ってこい、ばーか」


 今度は、少しだけちゃんと言えた気がした。

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