第26話「──決意と、胸のうち」
朝の光が、診療室の薄布を透かして揺れていた。
夜の冷えはまだ床板のあたりに残っていて、空気の底だけが少し重い。
薬草を煮た匂いと、乾いた血の匂いが、静かな部屋に薄く混ざっていた。
ちゃたろ〜は、まどろみの底から水面へ浮かび上がるみたいに、ゆっくり瞼を開いた。
最初に見えたのは、木の天井だった。
節の形。細いひび。梁の影。
どうでもいいものほど妙にはっきり見える。
生きている時は、だいたいそうだ。
首を少しだけ動かす。
「っ……」
皮膚の表面じゃない。もっと奥だ。
肩から胸、脇腹、背にかけて、鈍い痛みが遅れて広がる。
傷そのものは塞がっている。だが、塞がっただけだ。
中身はまだ戦場のままだった。
息を吸う。
浅い。
もう一度吸う。
痛い。
けれど、吸える。
(……生きてる、か)
その実感は、安堵というより確認に近かった。
戦いの記憶は途切れ途切れだった。
映像は曖昧なのに、音だけが妙に鮮明に残っている。
メッサーラの咆哮。
障壁の砕ける音。
地面が軋む音。
誰かの怒鳴り声。
短い指示。
枝を蹴る音。
矢が風を裂く音。
鼓膜の裏に、まだ貼りついている。
ちゃたろ〜はゆっくり目を横へ向けた。
椅子の上に、ライトメイスが立てかけてある。
近くにあるだけで、少し安心した。
だが、その姿を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
柄はひびだらけだった。
金属の縁は欠け、先端は熱で歪んだみたいに潰れている。
黒い焦げがところどころに残り、乾いた泥と血が細い筋になってこびりついていた。
あれで、よく最後まで持った。
いや。
持った、じゃない。
(……持たせた、だけか)
そう思った瞬間、指先の温度がすっと引いた。
あの戦いは、勝ちではない。
討伐でもない。
倒したわけじゃない。追い詰めたわけでもない。
メッサーラは仕様どおり、この世界に留まりきれなくなって、時間切れで消えただけだ。
もし、あの一拍が遅れていたら。
もし、仲間が間に合わなかったら。
もし、最後のスタンが外れていたら。
診療室の静けさが、一瞬で薄くなる。
代わりに、あの場の圧が胸の奥へ戻ってきた。
(……完敗だよな)
思った、ではなかった。
その言葉は、心のもっと冷たいところに最初から置いてあった。
運。
仲間。
諦めなかった意地。
生き残った理由を数えると、それしかない。
自分が強かったから生きた、とはとても言えなかった。
ちゃたろ〜はゆっくり手を伸ばし、ライトメイスの柄に触れた。
ざらついている。
焦げと削れで、いつもの手触りではなくなっていた。
握る。
痛む。
それでも、握れた。
「……このままじゃ、次は死ぬな」
口から出た声はかすれていて、自分の声なのに少し遠かった。
冗談ではない。弱音でもない。
ただの事実確認だった。
その事実が、妙にすとんと胸へ落ちる。
死ぬ。
このままなら、死ぬ。
昨日はたまたま生き残っただけだ。
村の前に立てたのも、時間を稼げたのも、全部ぎりぎりだった。
あれがもう一段強い個体だったら。
仲間の到着がほんの少し遅かったら。
村に入られていたら。
考えたくもない光景が、頭の隅へにじむ。
門が破られる。
火が上がる。
悲鳴が走る。
守れなかったものが地面に増える。
ちゃたろ〜は眉を寄せて、その想像を切った。
嫌なものは嫌だ。
見たくないものは見たくない。
でも、目を逸らしたところで消えるわけじゃない。
守りたいなら、強くなるしかない。
それも、曖昧なままじゃ駄目だ。
なんとなく殴って、なんとなく庇って、なんとなく生き残るんじゃ足りない。
必要なのは、役割だ。
前に立つための形。
受けるための技。
支えるための積み方。
自分が何をやる人間なのかを、はっきり決めること。
ちゃたろ〜は壊れたメイスを両手で持ち、しばらく黙っていた。
守る。
その言葉自体は、ずっと前から胸にあった。
けれど、昨日初めて分かった。
守りたいと思っているだけでは、守れない。
痛くて。
悔しくて。
怖くて。
それでも前に立ち続けるための、技術と覚悟が要る。
ちゃたろ〜は息を吐いた。
長く。
痛みを押し出すみたいに。
「……俺、やっぱり」
言葉が途中で止まる。
喉の奥が少し詰まった。
認めることになるからだ。
今の自分じゃ足りないと。
村にいたままでは、届かない場所があると。
ここを離れる必要があると。
それを口に出したら、戻れなくなる気がした。
でも、戻れないほうがいい。
戻れると思うから、人は半端になる。
ちゃたろ〜は壊れたメイスを見た。
昨日の自分が全部ついている。
潰れた先端。
焦げた縁。
削れた柄。
みっともない。
無様だ。
でも、だからこそ嘘がない。
「……俺は、メイス盾になる」
短い言葉だった。
格好のいい宣言でもなかった。
何かが劇的に変わった感じもしない。
ただ、その一言を口にした瞬間、胸の中に漂っていた曖昧さが、少しだけ形を持った。
受ける。
守る。
前に立つ。
それを、ちゃんとできるようになる。
もう、“運が良かった”では終わらせない。
「ここを守れるように、なる」
今度の言葉は小さかった。
けれど、最初の一言より重かった。
その時、廊下の向こうで誰かの足音がした。
控えめに扉が叩かれる。
「起きてるか」
聞き慣れた低い声だった。
「……起きてる」
返すと、少し間があって扉が開いた。
入ってきたのはバルドだった。
包帯を腕に巻き、胸当てには新しい傷がいくつも走っている。
立っているだけで、昨日の続きみたいな男だった。
後ろからミナリスも顔をのぞかせる。
肩に布を巻いていて、普段より少し青い顔をしていた。
そのさらに後ろで、壁にもたれるようにウソヤクが立っている。
帽子のつばの下の目だけが妙に起きていた。
「全員いるのかよ……」
「一人で見舞いなんか来るかよ、重いだろ」
ウソヤクが鼻で笑った。
「お前が寝たきりで殊勝になってるか確認しに来たんだよ」
「口が軽いな……」
「そりゃ元気で結構」
いつもの調子のやり取りだった。
なのに、診療室に少しだけ張っていた緊張が、その数秒で薄くなる。
ミナリスが一歩前へ出た。
「……痛む?」
「痛い」
正直に答えると、彼女は少しだけ口元を緩めた。
「そう。よかった」
「よくはないだろ」
「死にかけた人が、そうやって文句言えるなら十分よ」
そう言った声の奥に、夜を越えた疲れが残っていた。
バルドは椅子の背に手を置き、壊れたライトメイスを見下ろした。
「それ、修理するのか」
「する。できるなら」
「できねえなら」
「新しいの探す」
答えながらも、ちゃたろ〜の手はメイスから離れなかった。
バルドはその様子を見て、何か言いかけ、結局別の言葉を選んだ。
「……昨日は、無茶しやがったな」
「したな」
「自覚あるのかよ」
「ある」
「ある顔してねえ」
低い声だった。怒鳴ってはいない。
だからこそ、余計に重い。
バルドは腕を組んだまま、ちゃたろ〜をまっすぐ見た。
「一歩間違えりゃ死んでた」
「うん」
「二歩間違えりゃ村まで崩れてた」
「……うん」
「なのにお前、最後まで前に出たな」
返事がすぐに出なかった。
出せなかった、が正しい。
ちゃたろ〜は少しだけ視線を落とした。
誤魔化す言葉はいくらでも作れた。
でも、そういう場面ではないと分かっていた。
「……下がったら、終わると思ったから」
それしか言えない。
バルドはしばらく黙った。
責めるでもなく、褒めるでもなく、その言葉の重さを量るような沈黙だった。
先に口を開いたのはミナリスだった。
「あなたが時間を稼いでくれなかったら、たぶん間に合わなかった」
「でも、倒せてない」
思ったより早く言葉が出た。
自分でも少し驚くくらい、するりと出た。
「勝ったわけじゃない。俺一人じゃ何もできなかった。あれは……」
そこで言葉が止まる。
情けない、と言いたかったのかもしれない。
足りない、と言いたかったのかもしれない。
どちらも本当で、どちらも足りなかった。
ミナリスが静かに首を振った。
「何もできなかった人は、あそこで最後まで立たない」
「でも」
「でも、は分かるわよ」
彼女の声は強くなかった。
むしろ、ひどく静かだった。
「分かる。自分が納得してないことも。たまたま助かったって思ってることも。運が一つ違えば全部終わってたって、あなたが一番よく知ってることも」
ちゃたろ〜は何も言えなかった。
分かってほしいような、分かってほしくないようなところを、きっちり見抜かれると人は黙る。
ウソヤクが壁から背を離した。
「ま、俺としては」
三人の視線が向く。
彼は肩をすくめた。
「昨日のお前、かなりむかついたけどな」
「なんでだよ」
「死にそうな顔で一番前に立ってるやつ見ると、助ける側の胃が痛むからだよ」
「知らないところで胃を痛めるな」
「知るか。痛むもんは痛む」
軽口なのに、妙に本音だった。
ウソヤクは少しだけ目を細めた。
「ただまあ、逃げなかったのは事実だ。そこは認める。認めるけど、次も同じノリで行かれたら困る」
「ノリじゃねえよ……」
「ノリじゃないなら、なおさら悪い。計算して前に立て。お前、昨日の最後、運と根性に寄りすぎだ」
それは痛いくらいに正論だった。
ちゃたろ〜は苦く笑った。
「……返す言葉がない」
「あるなら聞くけど」
「ない」
「だろうな」
バルドがそこで、やっと本題に入るみたいに顎を引いた。
「で」
短い一音。
「本気か」
ちゃたろ〜は顔を上げる。
「……何が」
「決まってんだろ。村を出る気があるのかって聞いてんだ」
診療室の空気が少しだけ変わった。
その言葉は、たぶん三人とも最初から分かっていた。
ちゃたろ〜が昨日の一件で、もう同じ場所には戻れないだろうことを。
それでも、口に出すのは別だ。
「……あるよ」
答えると、バルドは瞬きもしなかった。
「迷いは」
「ある」
「ないって言えよ、そこは」
「あるもんはある」
思わずそう返すと、バルドの口元がわずかに動いた。
笑ったというより、力の入れ方を変えた顔だった。
「そうかよ」
ちゃたろ〜は一度息を整えた。
「怖いよ。普通に。村の外なんてちゃんと知らないし、昨日みたいなのがまた来るかもしれないし。ここ離れたら、すぐに何か変わるわけでもない」
自分で言いながら、情けない気もした。
けれど、この三人の前でくらいは、綺麗に整えた言葉を使いたくなかった。
「でも、このままここにいても駄目だって分かった。昨日、はっきり分かった。守りたいなら、ちゃんと前に立てる形を身につけないと無理だ」
壊れたメイスを少し持ち上げる。
「俺、メイス盾になる」
さっき一人で言った時より、言葉が重かった。
人に聞かれる言葉は、そのぶん逃げ道が減る。
「推薦状をもらって、学ぶ。受け方も、立ち方も、守り方も。中途半端じゃなく」
ミナリスが息を呑む音が、小さく聞こえた。
バルドは黙ったまま、しばらくちゃたろ〜を見ていた。
「……覚悟はあるんだな」
「ある、とは言い切れない」
「おい」
「でも、逃げるよりは前に行きたい」
ちゃたろ〜は少しだけ笑った。
強がりでもなく、開き直りでもない。自分で自分をなだめるみたいな笑いだった。
「昨日さ。ようやく分かったんだよ。死ななきゃ、なんとかなるって」
その瞬間、三人の反応がきれいに分かれた。
ミナリスは目を見開き、すぐに困ったように眉を寄せた。
バルドは呆れた顔で天井を見る。
ウソヤクは片手で顔を覆った。
「お前、それ」
バルドが低く言う。
「今の流れで出てくる台詞か?」
「出てきた」
「もっと他にあるだろ」
「たとえば?」
「知らん。もうちょっとこう、あるだろ」
ミナリスが、こらえきれないみたいに小さく笑った。
「でも、あなたらしいわ」
「褒めてる?」
「半分だけ」
ウソヤクがため息をつく。
「……ま、いい。そうやって妙な顔で前向いてるやつのほうが、案外しぶとい」
その言い方が、彼なりの了承だと分かった。
バルドは最後に一歩だけ近づき、ちゃたろ〜の肩へ大きな手を置いた。
傷に当たらないよう、ちゃんと位置を見ている手だった。
「行くなら、半端で帰ってくるな」
「うん」
「死ぬな」
「うん」
「あと」
「あと?」
「次に会う時は、昨日みてえな顔で前に立つな。もっと、計算した顔で立て」
ちゃたろ〜は小さく笑った。
「難しい注文だな」
「できるようになってから戻ってこいって言ってんだよ」
それは不器用な送り出しで、でもたしかに送り出しだった。
* * *
昼を過ぎると、村はいつもの顔に戻っていた。
畑では人が屈み、井戸では桶が鳴り、どこかで子どもの笑い声が跳ねる。
昨日の夜、この場所のすぐ近くに死が立っていたなんて、知らないみたいな顔で、村は今日を始めていた。
ちゃたろ〜は診療所の外へ出て、その光景をしばらく眺めた。
眩しい、と思った。
日差しが強いからではない。
昨日の夜が濃すぎたからだ。
土の匂いがする。
乾いた藁の匂いもする。
湯気の上がる鍋の匂いまで混ざってくる。
全部、守れた側の匂いだった。
守れた、と言い切るにはまだ胸が痛む。
けれど、失わずに済んだものがここにある。
それだけは本当だった。
だからこそ、次も同じでいいとは思えなかった。
守れた日があったなら、次も守れるようにならなければ意味がない。
村の通りをゆっくり歩く。
挨拶をされる。
怪我は大丈夫かと聞かれる。
ありがとう、と言われる。
そのたび、ちゃたろ〜は少し困った顔で笑った。
ありがたい。
でも、全部をそのまま受け取るには、昨日の自分があまりにもぎりぎりすぎた。
村の門が見えてきた。
そこに、三つの影があった。
バルド。
ミナリス。
ウソヤク。
さっき別れたばかりなのに、またいる。
「なんでまた集合してんだよ」
「お前がのこのこ歩いてくると思ったからだ」
バルドが即答する。
「暇か」
「暇じゃねえ」
「じゃあなんで」
「待ってたんだよ。言わせんな」
ぶっきらぼうな声の奥に、ちゃんと熱があった。
ミナリスは門柱に背を預けていた体を起こした。
風で髪が少し乱れている。
その顔には、まだ迷いみたいなものが薄く残っていた。
「あなた、本当に今日のうちに話を通すつもりなの?」
「うん。気持ちが鈍る前に」
「鈍る前に、って……」
彼女は呆れたように言って、でもすぐに視線を落とした。
「いえ、そうね。あなたはそういう時、たぶん早いほうがいい」
ウソヤクが帽子のつばをいじる。
「遅いと余計な情が挟まるからな」
「ひどい言い方だな」
「事実だろ。お前、情が挟まるとその場で踏ん張り始めるタイプじゃん」
否定できなかった。
バルドが腕を組んだ。
「最後に聞く」
「なに」
「本気で行くんだな」
「……うん」
「ここを離れてもか」
「離れるから行くんだよ」
答えると、バルドは一度だけ目を閉じた。
それは納得というより、飲み込む動作に見えた。
ミナリスが口を開く。
「寂しい、とは言わないわ」
「言ってもいいよ」
「言わない。言ったら、あなた少し揺れるでしょ」
「否定しづらいな」
「でしょうね」
彼女は小さく笑い、すぐに真顔へ戻った。
「だから、別のことを言う。ちゃんと学んできて。無茶を格好いいことだと思わないで。戻ってくる時は、昨日よりずっと嫌な相手にも耐えられる顔で戻ってきて」
「注文多いな」
「当然よ。こっちは見送る側なんだから」
その言い方が妙に胸に残った。
見送る側。
出ていく側だけが苦しいわけじゃない。
残る側にも、その立場の痛みがある。
ちゃたろ〜が何か返そうとした時、ウソヤクが先に割って入った。
「あと一個」
「まだあるのかよ」
「ある。お前、多分向こうでも無茶するだろ」
「予言みたいに言うな」
「予言じゃない。観察だ。だから一個だけ覚えとけ」
彼は指を一本立てた。
「一人で何とかしようとするな。盾役ほど、周り使ってなんぼだ」
ちゃたろ〜は少し黙った。
昨日、自分が前に立った場面が頭をよぎる。
あの時は確かに必要だった。
けれど、あれを毎回やるのは違う。
「……分かった」
「今の間は不安だな」
「理解するまでちょっとかかっただけ」
「かかるな、その場で分かれ」
そこへ、バルドが低く笑った。
短い、かすれた笑いだった。
「まあいい。お前はそうやって、一回痛い目見てから覚える」
「今回かなり痛かったけどな」
「だから次はもう少し上手くやれって話だ」
ちゃたろ〜は三人の顔を順に見た。
昨日、自分の横や前や上にいた連中だ。
それぞれ傷を負って、それでもこうして立っている。
「……ありがとな」
出てきた言葉は、それだけだった。
もっと気の利いたことを言えそうな気もしたが、たぶんこれが一番正直だった。
ミナリスは静かに頷いた。
ウソヤクは視線を逸らし、バルドは「遅い」とだけ言った。
でも、その遅い、は悪い意味じゃなかった。
* * *
夜。
村外れの丘に立つと、風が昼よりずっと冷たかった。
星はやけに近く、黒い空に無数の穴が開いたみたいに瞬いている。
草は風に伏せ、起き、また伏せる。
遠くの家々の灯りは低く、小さく、守るべきものの数みたいに散っていた。
ちゃたろ〜は一人で立ち、夜の匂いを吸った。
湿った土。
草の青さ。
冷えた空気。
どこかの家の、遅い夕餉の煙。
村を出ると決めたくせに、こうして嗅ぐと全部が惜しくなる。
この匂いも。
この静けさも。
この高さから見える灯りも。
背後で、草を踏む音がした。
軽い足音だ。
でも、迷いがある。
来るか戻るか一度迷って、それでも来た足音。
振り返る前に分かった。
「……ティナ」
「分かるんだ」
「足音で」
「やだ、それ。ちょっと恥ずかしいんだけど」
声は弱くなかった。
でも、いつもの軽さとも少し違った。
ちゃたろ〜が振り返ると、ティナは少し離れたところで立ち止まっていた。
髪が風に揺れて、頬にかかる。
それを払う手が、ほんの少しだけ落ち着かない。
「来ると思った?」
「半分くらい」
「半分ってなによ」
「来ないように我慢するか、来るかで迷って、でも来るほう」
「……むかつく」
「当たってる?」
「当たってるからむかつくの」
そう言って、ティナはちゃたろ〜の隣まで来た。
肩が触れないぎりぎりの距離で止まる。
少しの間、二人とも空を見ていた。
先に口を開いたのはティナだった。
「……行くんだね」
「うん」
「本当に」
「うん」
「明日?」
「たぶん」
「たぶんって。そこはちゃんとしてよ」
「ちゃんとしてる。ちゃんとしてるけど、まだ全部決まってるわけじゃないだけ」
ティナは口を引き結んだ。
風が吹く。
草がざわつく。
その音がやたら大きく感じる。
「私さ」
ティナの声が少し低くなる。
「昨日、すごく怖かった」
ちゃたろ〜は返事をしなかった。
していい場面じゃないと思った。
「すごく、怖かった。あそこで倒れるかもしれないって思って。もう立たないかもしれないって思って。喉の奥がずっと変で、ちゃんと息できなくて」
彼女はそこで一度言葉を切った。
呼吸を整えるみたいに、小さく息を吸う。
「なのに、今日になったら今度は、別の怖さが来るの」
ちゃたろ〜は横目で彼女を見た。
ティナは夜空を見ている。
でも、見ているのは星じゃない気がした。
「行くって決めた顔してるの見たら、止めたら駄目なんだって分かる。分かるのに、分かるほど嫌で……なんか、胸の中がずっとざわざわする」
笑おうとしたのだろう。
けれど、口元はうまく形にならなかった。
「置いていかれるみたいで、やだ」
最後の一言だけ、ひどく小さかった。
ちゃたろ〜はしばらく黙っていた。
慰める言葉はいくらでも浮かぶ。
でも、そのどれも少し軽かった。
「……置いていくつもりじゃないよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「分かってるって言ってるでしょ」
少し強い声で返される。
でも怒っているわけじゃない。
泣きそうなのを押さえる時の強さだった。
「分かってるの。ちゃたろ〜が逃げるんじゃなくて、行かなきゃいけないって思ってるのも。ここを守るためだってことも。分かってる。分かってるんだけど、分かるから平気になるわけじゃない」
その言葉が、胸の奥へ静かに刺さる。
ちゃたろ〜は前を向いたまま言った。
「俺も、怖いよ」
ティナが少し目を見開く気配がした。
「怖い。村を出るのも。外で通用するか分からないのも。戻ってきた時に、ちゃんと強くなれてるか分からないのも」
言いながら、自分の弱さを並べている気もした。
けれど、ティナの前でそれを隠す気にもなれなかった。
「でも、昨日分かったんだ。怖いままでも、進まなきゃ駄目な時がある」
風がまた吹く。
ティナの髪が揺れ、その向こうで唇が震えるのが見えた。
「……ずるい」
「なにが」
「そういうふうに言われると、止めづらくなる」
「止めるつもりだったの?」
「……ちょっとだけ」
その“ちょっと”に、どれだけの感情が詰まっているのかは聞かなくても分かった。
ティナは俯き、草の先を見たまま言った。
「行けばいいよ」
投げたみたいな言い方だった。
「置いてけばいい」
ちゃたろ〜は何も言わない。
「でもね」
そこで彼女は顔を上げた。
目元は揺れている。けれど、逃げてはいなかった。
「私、このまま待ってるだけは嫌だから」
声に、芯が戻る。
「ちゃたろ〜が外で強くなるなら、私もここで強くなる。次に会った時、守られるだけの側にいたくない」
その言葉は綺麗すぎなかった。
むしろ少し乱れていて、だから本物だった。
「追いつくから」
ティナは眉を寄せたまま言った。
「すぐじゃなくても、ちゃんと追いつく。だから……だから、勝手に遠くへ行ったつもりにならないで」
ちゃたろ〜はその顔を見た。
泣きそうで。
怒っていて。
寂しそうで。
それでも、前を向こうとしている顔だった。
「……うん」
軽い返事にはしたくなかった。
だから短く、でもはっきり返した。
「待ってる、じゃなくて、追いつくんだもんね」
「そう」
「じゃあ俺も、追いつかれて困らないくらいには強くならないとな」
「そこは“困る”って言ってよ」
「なんでだよ」
「知らない。なんか悔しいから」
そのどうしようもない理屈に、ちゃたろ〜は少し笑った。
ティナも一瞬だけ笑いかけて、すぐ顔を逸らした。
涙は見せたくないのだろう。
だから、ちゃたろ〜も見ないふりをした。
見ないふりをすることが、たぶん今は優しさだった。
二人はしばらく、何も言わずに並んで立っていた。
星は変わらず遠く、村の灯りは変わらず近い。
その間にある夜気だけが、少しずつ冷えていく。
やがてティナが小さく言った。
「……ちゃんと戻ってきて」
「うん」
「死なないで」
「うん」
「あと」
「あと?」
「お腹空いたらちゃんと食べて」
「そこ?」
「そこ大事」
「分かった」
「分かってなさそうだから言ってるの」
その一言で、ようやくいつもの調子が少しだけ戻る。
それが逆に、別れの近さを教えるみたいで、胸が少し痛かった。
* * *
夜明け前の空は、黒ではなく深い青だった。
村の門には薄い霧が漂い、草の先に小さな露がついている。
鳥の声はまだ少ない。
世界が起きる少し前の、ためらいみたいな静けさだった。
荷物は多くない。
背負えるだけ。
今の自分が持っていけるだけ。
ちゃたろ〜が門へ向かうと、そこに二人の影があった。
ティナ。
ルナ。
来るだろうとは思っていた。
思っていたけれど、実際に立っているのを見ると、やっぱり胸のどこかが詰まる。
ティナは腕を組み、いつもより少しだけ険しい顔をしていた。
その隣でルナは落ち着かなそうに指先をもじもじさせている。
「……来た」
ティナが言う。
「来たけど」
「来たけど、じゃないの」
「うん」
それ以上に気の利いた返しが出なかった。
ルナが一歩だけ前へ出る。
何か言おうとして、やめる。
また言おうとして、やめる。
その繰り返しのあと、ようやく小さく声が出た。
「……あの、ちゃたろ〜さん」
「うん」
「……ご飯、食べましたか」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間、ちゃたろ〜は目を瞬かせ、ティナは額を押さえ、ルナは言ったあとで顔を赤くした。
「いや、その、違っ、違くなくはないですけど、もっと言うことあるって分かってるんですけど、でも、その、出る前に食べてないと絶対だめかなって……」
必死に言い直そうとして、余計に絡まる。
ちゃたろ〜は思わず笑ってしまった。
「……食い忘れたかも」
「ほら!」
ティナが即座に言った。
「やっぱり!」
「やっぱりってなんだよ」
「そういうとこよ!」
ルナも困ったように頷く。
「だと思いました……」
「そんな分かりやすい?」
「分かりやすいです」
「分かりやすいわよ」
二人に即答されて、ちゃたろ〜は苦笑した。
緊張していた空気が、その数秒だけ少し緩む。
たぶんルナは最初からそれを狙ったわけじゃない。
でも、彼女らしい一言で場が救われた。
ルナは小さな包みを差し出した。
「これ……持っていってください。そんなに大したものじゃないですけど、途中で食べられるように」
「用意してたのか」
「はい。たぶん食べ忘れると思ったので……」
「信用がない」
「あります。でも、別の意味で心配なんです」
その率直さに、また少し笑う。
包みを受け取ると、まだほんのり温かかった。
ティナがそのやり取りを見て、ふっと息を吐く。
「ほんとに行くのね」
今度の言葉は、昨夜より静かだった。
覚悟した人の声だった。
「うん」
「止めても行く?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、行くんでしょ」
「……行く」
「よろしい」
そう言ったくせに、ティナの目は少し赤かった。
ちゃたろ〜は見て見ぬふりをする。
ティナもたぶん、それを望んでいる。
しばらく誰もしゃべらなかった。
霧が流れる。
朝日が少しずつ輪郭を強くする。
遠くで最初の鳥が鳴く。
その音に押されるみたいに、ティナが一歩前へ出た。
「……行ってこい」
ほんの少し間があった。
それから、いつもの調子を無理やり引っぱり出すみたいに、彼女は口元を持ち上げた。
「ばーか」
その一言に、泣くのも怒るのも寂しいのも、たぶん全部入っていた。
ちゃたろ〜は照れたように笑った。
「それ、送り出しの言葉としてどうなんだよ」
「いいの。私が言いたいから言うの」
「そっか」
「そっか、じゃない」
「じゃあ、なんて返せばいいんだよ」
ティナは少しだけ目を細めた。
「ちゃんと戻るって言えばいい」
ちゃたろ〜は頷く。
「……ちゃんと戻る」
ティナは何も言わなかった。
でも、その沈黙は受け取った沈黙だった。
ルナが小さく頭を下げる。
「お気をつけて」
「うん」
「ご飯、ちゃんと……」
「食べる」
「本当に?」
「本当に」
最後にもう一度二人を見る。
門。
霧。
草の匂い。
朝の白さ。
見送りに立つ二人。
これを全部、忘れないまま強くなりたいと思った。
ちゃたろ〜は背を向け、歩き出した。
振り返らない。
振り返ったら足が少しだけ鈍る気がした。
だから前だけを見る。
朝の光の中へ。
霧の向こうへ。
まだ見ぬ道へ。
* * *
彼の背中が小さくなっていく。
霧の中へ入るたび、輪郭が薄くなって、また少し見えて、また薄くなる。
ティナはその場から動けなかった。
笑えていたのかどうか、自分でも分からない。
最後くらいちゃんと送り出したかったのに、胸の奥はずっと掻き回されたみたいで、息の仕方まで少し変だった。
隣でルナが静かに立っている。
何も言わないのがありがたかった。
風が吹く。
草が揺れる。
朝の匂いがする。
いつもの村の朝だ。
なのに、何かひとつだけがはっきり足りない。
「……もう見えない」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
ルナがそっとこちらを見る。
でも、やっぱり何も言わない。
ティナは門の外を見たまま、唇を噛む。
泣くのは嫌だった。
あんなふうに送り出しておいて、見えなくなった瞬間に泣くのは、なんだか負けたみたいで嫌だった。
けれど、目の奥は熱い。
(ちゃんと笑えてたかな)
昨夜、あんなに格好つけたのに。
追いつくって言ったのに。
朝になったら結局これだ。
情けない、と思う。
でも、その情けなさごと飲み込んで前に行くしかないことも、もう分かっていた。
ティナは一歩だけ前へ出て、門の外の土を見た。
彼が踏んでいった跡は、朝露でまだ少し濃い。
それもじきに乾いて消える。
消えるけれど、なかったことにはならない。
「……私もやる」
独り言みたいにこぼれる。
剣を振る。
走る。
息を整える。
怖くても前に出る。
待っているだけなんて、やっぱり性に合わない。
追いつくと言ったのなら、追いつくための毎日を積むしかない。
ティナは空を見上げた。
朝の青はまだ薄い。
でも、その向こうはきっともっと高い。
「ちゃんと強くなるから」
返事はない。
届くわけもない。
それでも言葉にしたかった。
「次に会う時は、隣に立てるくらいには」
風がまた吹いた。
草が揺れ、門柱の影が少しだけずれる。
ティナは涙を袖で乱暴に拭って、息を吐いた。
「……行ってこい、ばーか」
今度は、少しだけちゃんと言えた気がした。




