第25話「──死ななきゃ、なんとかなる」
激戦の余韻は、まだ森の空気を震わせていた。
葉は揺れているのに、風の感触がない。
鉄の匂い。土の匂い。焼けた草の匂い。
それに、鼻の奥へ粘りつく瘴気。
息を吸うたび、肺の内側がひりついた。
視界がにじむ。
輪郭が揺れる。
血か汗か涙か、もう判別がつかない。
世界が遠い。
薄い膜を一枚はさんで、向こう側にあるみたいだった。
それでも、ちゃたろ〜は立っていた。
ライトメイスを杖のように突き、崩れかける身体を前へ引き戻す。
立て。
まだ、時間は稼げる。
その声だけが、心の奥でやけに鮮明だった。
前方で、メッサーラの巨体が黒くうごめく。
四つの眼。
角。
滴る瘴気。
近い。
大きい。
それだけでもう、十分すぎるほどの“死”だった。
(……まだ、いる)
喉の奥で息が引っかかる。
足を一歩、前へ出す。
骨が軋む音が、頭の中でだけ響いた。
メッサーラの腕が振るわれる。
来る。
「プロテクト……!」
薄い。
自分でもわかる。
展開された障壁は、もう最初の頃みたいに澄んでいない。
それでも出すしかない。
爪が叩きつけられた。
衝撃。
世界が跳ねる。
腕が痺れる。
肩が抜けそうになる。
足元の土が砕けて、半歩ぶん沈んだ。
受け止めたんじゃない。
潰されるのを、ほんの一瞬だけ遅らせただけだ。
「ぐっ……!」
吹き飛ばされる。
背中から地面へ落ちた。
冷たい。
硬い。
その感触だけは、妙にはっきりしていた。
息が入らない。
肺が空気を拒んで痙攣する。
視界の端で、黒いものが流れた。
メッサーラの瘴気だ。
転がる。
半拍遅れて、さっきまでいた場所の草が黒く潰れた。
避けた。
たぶん、避けた。
でも、左の脇腹が焼けるみたいに痛い。
ちゃたろ〜は歯を食いしばり、腰袋へ手をやった。
どれだ。
細い葉。
苦い匂い。
これだ。
噛み潰す。
口の中に渋みと苦味が広がる。
潰した葉をそのまま脇腹へ押しつける。
じわり、と痺れが広がって、痛みの輪郭が少しだけ鈍る。
(まだ、動ける)
ヒールは使わない。
いや、使えない、に近い。
ここで深く回したら、次がない。
血が多いところだけ見て、最低限を流す。
「……ヒール」
声が出たのか、自分でもよくわからない。
裂けた肉は寄る。
血は止まる。
けれど、それだけだ。
痛みは残る。
息苦しさも残る。
足の重さも、視界の歪みも、そのままだ。
ヒールは“死なない”ための魔法であって、“元通りになる”魔法じゃない。
前を見る。
黒い。
でかい。
まだいる。
その向こうで、何かが閃いた。
重い衝突音。
地を叩き割るような響き。
黒い巨体の軸が、ほんの少しだけ揺れる。
同時に、風を裂く細い音が走った。
何本も。
速く、鋭く。
黒い靄の濃いところへ吸い込まれていく。
さらに上から、軽い気配。
枝を蹴る音。
葉を散らしながら、何かが横切った。
誰かが来た。
怒鳴り声が飛ぶ。
短い指示が刺さる。
苛立った舌打ちが混じる。
みんな、戦っている。
断片みたいにしか見えない。
正面から叩きつけるみたいな軌道は、たぶんバルドだ。
あの迷いのない矢は、きっとミナリス。
木の上を走る、あの軽すぎる気配は――ウソヤク、だったはずだ。
(……来て、くれた)
胸の奥に、ほんの少しだけ熱が戻る。
メッサーラが吠える。
空気が震える。
耳が痛い。
頭の奥まで軋む。
瘴気が、また膨らむ。
(まずい)
ライトボール。
出す。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
白い光が散る。
効かない。
知ってる。
でも、一瞬でいい。
意識を切らせる。
狙いをずらす。
その一拍を、みんなで拾う。
正面から、重い何かがぶつかった。
悪魔の腕が大きくぶれる。
横から矢。
さらに上から、枝ごと視界を裂くような一撃。
メッサーラの四つ目が、それぞれ違う方向を向いた。
その一瞬、ちゃたろ〜は前へ出ていた。
自分でも、よくわからない。
ただ、止まったら終わると思った。
メイスを振るう。
当たる。
浅い。
でも、嫌がる。
悪魔の頭がわずかに動く。
次の瞬間、瘴気が爆ぜた。
黒い膜が周囲へ押し広がる。
重いものが跳び退く。
矢の気配が一度途切れる。
上の枝がしなる。
ちゃたろ〜は、遅れた。
肩口に直撃。
冷たい。
いや、熱い。
その両方が同時に来る。
「ッ、ぁ……!」
膝が折れかける。
肩が消えたかと思うほどの痛み。
でも腕はまだついている。
そこだけ確認して、ちゃたろ〜は息を吐いた。
ヒール。
深くは回さない。
千切れない程度。
動く程度。
それでいい。
「ヒール……!」
肩口の裂け目だけ閉じる。
出血だけ止める。
すぐに腰袋から粉薬をまぶし、止血草を押し当てる。
雑でもいい。
今は丁寧さより速さだ。
指が震える。
結び目がうまく締まらない。
(……まずい)
メッサーラが、止まった。
今度こそ、本当に。
その巨体が、膨らむように見えた。
周囲の空気が引きつる。
森全体が、これから来る何かを嫌がっている。
黒い雷光じみた瘴気が、悪魔の身体を走った。
見覚えがあった。
画面越しに、何度も見た動きだ。
仕様として知っていた終端。
この世界に留まりきれなくなった個体が、最後に周囲ごと壊す前触れ。
(……時間切れ)
頭のどこかが、冷たくそう言った。
勝った、じゃない。
討伐、でもない。
ただ、いちばん悪い形で終わろうとしている。
防げない。
プロテクトは薄い。
ヒールは追いつかない。
足も、もう跳べるかわからない。
でも、一手だけある。
止める。
壊すんじゃない。
削るんじゃない。
一瞬、止める。
スタン。
それしかない。
「……今、だ」
声は、自分のものじゃないみたいに遠かった。
でも脚は動いた。
誰かが何か叫んでいる。
たぶん、危ないとか、下がれとか、そういう言葉だった。
聞こえたのに、意味だけが少し遅れてくる。
正面から、また重い一撃。
横から矢。
上から枝を裂く気配。
その全部が、メッサーラの意識を散らす。
その隙間を縫って、ちゃたろ〜は跳んだ。
高くはない。
綺麗でもない。
ただ、落ちる前に届く距離だけを稼ぐ跳躍。
眉間を見る。
そこだけを見る。
メイスを振るう。
重い。
腕が千切れそうだ。
でも振る。
「頭に――どーん……!」
当たった。
鈍い衝撃。
メッサーラの頭部がぶれる。
次の瞬間、集束していた瘴気が散った。
ぶつり、と切れる。
圧が消える。
黒い雷光がほどけ、空気を押し潰していた力が崩れた。
スタン成功。
それで勝った、とは思わなかった。
ただ、間に合ったのだとだけわかった。
膝から力が抜ける。
倒れる。
その前に、メイスを地面へ突いた。
立つ。
いや、立っている“形”だけは保つ。
何か聞こえる。
剣のぶつかる音。
矢が裂く音。
怒鳴り声。
短い指示。
もう、誰の声かまでは判別できない。
それでも、まだ戦線が崩れていないことだけはわかった。
(ああ)
少しだけ、胸が軽い。
(来てくれたんだな)
その時だった。
もうひとつ、別の声がした。
遠いはずなのに、やけに近く聞こえる。
ティナの声だ。
震えている。
息も上ずっている。
それでも、言葉だけはまっすぐ飛んできた。
──死んでない。
──死ななきゃ、なんとかなる。
それが、胸の真ん中に刺さった。
ああ、そうだな、と思う。
返事の代わりに、少しだけ頷いたつもりだった。
そこで世界が落ちた。
* * *
朝。
陽光が診療室の窓格子から入り、白い布の上にやわらかい影を落としていた。
鳥の声が遠くで跳ねている。
畑で動く人影が、ゆっくり揺れている。
ちゃたろ〜はまばたきをした。
瞼が重い。
でも開く。
(……生きてる、か)
呼吸は浅いが、ちゃんと続いている。
包帯と薬草の匂いが、遅れて鼻に届く。
誰かが、ちゃんとここまで運んでくれたのだとわかった。
手を伸ばす。
そこに、いつものライトメイスがあった。
打ち砕かれ、焦げつき、柄は擦り減り、あちこちに戦いの痕を刻んでいる。
その有様を見て、ちゃたろ〜は静かに笑った。
「……やっぱ、死ななきゃ……なんとかなったな」
声は風の囁きみたいに小さかった。
目に浮かんだものが安堵なのか痛みなのか、それは本人にもよくわからない。
ただひとつだけ、確かなことがあった。
まだ、道は続く。
壊れた武器を抱えながらでも、彼はまた歩き出す。




