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第24話「地に降りし災厄」

 森の向こう。


 空気が凍りついたように沈黙していた。


 風は止み、鳥も鳴かない。大気そのものが、“それ”の前に息を潜めているかのようだった。


「……来たか」


 村の外れ。


 ちゃたろ〜はライトメイスの柄を握り直し、前を見据えた。


 現れたのは、異形の悪魔――メッサーラ。


 滴るように瘴気をこぼす巨体。筋骨隆々とした腕、禍々しい角、冥界の奥底で光るような四つの眼。


 その存在が空間に触れるだけで、世界の輪郭が濁っていく。


 地面は黒く枯れ、草は萎れ、風までも色を失っていた。


(ボス級……名前はメッサーラ。悪魔属性。腐蝕瘴気持ち)


 ちゃたろ〜は呼吸を浅く整える。


(相性は最悪。正面からやれば、まず勝てない)


 それでも、頭の中の整理だけは止めない。


(だが、奴は時間経過でこの世界に留まり続けられない。耐えきれば……勝ち筋は残る)


 村の背後では、人々の気配が震えていた。


 武器を構えながらも踏み出せず、ただ祈り、ただ震える者たち。


 それでいい、とちゃたろ〜は思った。


(……ここは、俺が食い止める)


 一歩、前へ出る。


「よう、災厄。ちょっと付き合えよ」


 メッサーラが喉の奥で咆哮し、瘴気の嵐を撒き散らした。


 木々が軋み、地が震え、闇の中に雷鳴のような音が走る。


 戦いが始まった。


 最初の一撃は、防御ではなく“確認”になった。


 メッサーラの腕が霞む。


 次の瞬間には、爪の薙ぎ払いが大地ごとこちらを刈り取ろうとしていた。


「プロテクト!」


 透明な障壁が展開される。


 だが――


 ドォンッ!!


 衝突した瞬間、ちゃたろ〜は理解した。


 受け止めたのではない。

 ただ、砕けるのを一瞬遅らせただけだ。


 障壁が軋む。ひびが走る。腕の骨まで直接打ち鳴らされたような衝撃が貫き、視界が白く弾けた。


「がっ……!」


 地面が砕ける。

 足元の土が沈み、踵が半ば埋まる。


(重い、じゃない……!)


 歯を食いしばる。


(これは、人が真正面から受けていい攻撃じゃない……!)


 メッサーラの爪が障壁ごと押し込み、遅れて土塊が雨のように降り注ぐ。


 ちゃたろ〜は障壁が砕ける瞬間に横へ身体を捻り、地面を滑るように離脱した。


 頬を破片が掠める。

 熱い線が走る。


 だがここでヒールは使わない。


 指先で血を拭い、その赤みを一瞥する。


(浅い。まだ魔力を切る傷じゃない)


 腰袋から細い葉を引き抜き、指で潰して傷へ擦り込む。止血草の青臭さが鼻を刺し、ひりつく痛みがわずかに鈍った。


 止まれない。


 止まった方が死ぬ。


 メッサーラの四つの眼が、赤黒く明滅する。


 次に来たのは、爪ではなく瘴気だった。


 咆哮。


 同時に吐き出された黒い奔流が、地面すれすれを舐めるように走る。


 草木が一瞬で黒ずみ、葉が裏返り、幹の表面が焼けたように腐っていく。


「……っ!」


 ちゃたろ〜は地に身を投げ、転がるように回避した。


 避けた。

 避けたはずだった。


 だが左袖がわずかに掠れただけで、布は溶け、下の皮膚まで焼けるような痛みが走る。


「くっ……!」


 今度は浅くない。


 ちゃたろ〜は舌打ちし、最小限だけ魔力を通す。


「ヒール……!」


 焼けた皮膚の裂けだけを閉じる。

 出血と組織の崩れを止めるための、最低限の回復。


 それだけでは、熱を持った痛みも、腐蝕のいやな感覚も消えない。


 すぐに腰袋から苦い匂いのする葉を引き抜き、噛み潰して傷へ押しつけた。


 じわりと痺れが広がる。

 腐蝕の進みが、わずかに鈍る。


(深追いするな。ヒールで消すのは傷だけだ。痛みまで消そうとしたら魔力がもたない)


 呼吸が浅くなる。

 喉がひりつく。

 肺にまで嫌な臭いが入り込んだ気がした。


(倒せない)


 その認識だけが、冷たく頭の中に立つ。


(勝てない。まともにやり合えば、二撃目か三撃目で終わる)


 それでも、前に出る。


 ここで一秒長く立てば、その一秒ぶんだけ村は生き延びる。


 それだけで十分な理由だった。


 ちゃたろ〜はライトボールを連射した。


「《ライトボール》!」


 白光が幾筋も飛び、悪魔の眼前で弾ける。


 効かない。

 ダメージは期待していない。


 必要なのは、視界と意識をほんのわずかでも削ること。


 メッサーラの巨体が苛立たしげに揺れた。


(誘導する……斜面へ)


 ちゃたろ〜は木々の間を縫い、斜面に近い側へ進路を取る。


 地面の傾き。

 露出した根。

 湿った岩。


 まともな足場ではない。

 だからこそ、あの巨体には向かない。


 爪が背後の幹を抉る。

 木片が弾け、背中に当たる。


 痛い。

 だがまだ立てる。


 ヒールは使わない。

 代わりに気付け草を噛み砕く。舌に強い苦味が広がり、霞みかけた意識が少しだけ持ち直す。


 またライトボール。

 また回避。

 また時間を稼ぐ。


 回復と防御と牽制の繰り返し。


 魔力は確実に削れていた。


 視界の端が暗くなる。

 脚が重い。

 掌の感覚も少しずつ怪しい。


 何度目かの回避で、枝に足を取られ、膝から地面へ叩きつけられる。


 すぐ目の前に、メッサーラの影が落ちた。


(まずい……!)


 爪が振り下ろされる。


 プロテクトを張る。

 だが今度は、障壁が一瞬で歪んだ。


 ひび。

 破砕。


 砕け散る寸前に身体を転がし、かわす。


 直撃こそ避けたが、爪先が肩を掠めた。骨が折れたのではないかと思うほどの痛みが走り、息が止まる。


「ぐ、っ……!」


 さすがにこれは浅くない。


 ちゃたろ〜は片膝をついたまま、息を整えられない。


 ヒールを流し込む。


「ヒール……!」


 肩口の裂傷だけが閉じる。

 腕が千切れずに済む程度まで戻す。


 それ以上はやらない。

 やれない。


 止血草を巻きつけ、歯で結び目を締める。

 痛み止めの粉を手早く擦り込む。


(ヒールは万能じゃない。傷は塞げる。だが、疲労も痛みも、失った体力そのものも戻しはしない)


 数えるな、と自分に言い聞かせる。


 数えたら終わる。


 メッサーラが一歩踏み出すだけで、斜面の土がずるりと崩れた。


 巨体が膨張するように見える。


 黒い雷光じみた瘴気が、全身にまとわりつき始めた。


 空気が逃げる。

 風が逃げる。

 森そのものが、次に来るものを嫌がっていた。


(大技……!)


 ちゃたろ〜の背筋が冷たくなる。


 あれを受ければ終わる。


 防御も間に合わない。

 回復も追いつかない。


 逃げ切れる保証もない。


(詰んだか……?)


 頭のどこかが、静かにそう判断した。


 だが、その判断の先にもう一手だけ残っていた。


 止めるしかない。


 叩き潰すのではない。

 削り切るのでもない。


 一瞬を奪う。


 スタンしかない。


「……今しかない!」


 ちゃたろ〜は地を蹴った。


 脚が悲鳴を上げる。

 肺が焼ける。

 視界の端が暗く欠ける。


 それでも跳ぶ。


 ライトメイスを振りかぶる。


 メッサーラの眉間。

 瘴気の核が集まる、その一点だけを見る。


「頭にどーんッ!!」


 全力で叩き込む。


 衝撃。


 金属がひしゃげるような鈍い音が響き、悪魔の頭部がわずかに揺れた。


 次の瞬間。


 集束していた瘴気が、ぶつりと途切れた。


 黒い雷光が散り、空気を支配していた圧が崩れる。


 スタン成功。


「……はぁ……っ、は……!」


 ちゃたろ〜は着地と同時によろめいた。


 膝が折れかける。

 視界が二重になる。


 それでも倒れない。


 ここで倒れたら、次に立つ時間すら奪われる。


 震える手で、最後に近いプロテクトを張り直す。


 メッサーラが低く唸り、四つの眼を再び開こうとした、その時。


「ちゃたろ〜ーーっ!!」


 森を切り裂くような怒号が飛ぶ。


 バルドだった。


 大剣を振りかざし、地面を蹴り割る勢いで駆け込んでくる。


 その後ろには弓を構えるミナリス。

 さらに、羽飾りを揺らしながらウソヤクが続いていた。


「よく持ちこたえたな!!」

「生きてて……よかった……!」

「マジかよ……この状態でまだ立ってるのか!」


 声が、胸に刺さるように届く。


 ちゃたろ〜は笑った、つもりだった。

 けれど、口元はうまく動かず、ただ息だけが漏れた。


「……ようやく、来たか」


 メッサーラが再び唸り、瘴気が大地を震わせる。


 だが今度は、もう一人ではない。


 背を並べる者たちがいる。


 ちゃたろ〜は震える腕でメイスを握り直した。


 まだ終わっていない。

 むしろ、本当の意味ではここからだった。


 災厄は、地に降りた。


 そしてそれを押し返す戦いが、ようやく始まる。

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