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第23話「それでも村にいる理由」

 朝の村には、いつもと変わらない音が流れていた。


 鶏の声が転がり、畑では鍬が土を叩き、風は草と湿り気を混ぜながら通り抜けていく。


 そんな日常の風景の中で、一人だけ“非日常”を背負った背中があった。


 ちゃたろ〜。


 軽い荷袋を背に、肩には見慣れたライトメイス。その歩幅は穏やかで、だが確かに“旅立つ者の歩き方”だった。


 推薦状は出た。


 だが、正式な出立の日取りまではまだ少し猶予がある。ちゃたろ〜は、その前に一度だけ村の外れまで歩き、荷の具合と道の感触を確かめるつもりだった。


 ギルド支部の前には、ティナとルナが立っていた。


 二人とも笑顔を作ることは忘れていなかったが、心の奥で小さな痛みを抱えていることは互いに気づいていた。


「……行っちゃったね」


 ルナがぽつりと呟く。声が震え、小さな指が胸元でぎゅっと絡まる。


「……そうね」


 ティナも穏やかに返すが、そのまなざしの奥には別の色が沈んでいた。彼女が何度も見てきた旅立ちでも、この少年の背はどうしても胸がざわつく。


 ふたりの間に沈黙が落ち、朝靄が道をぼやかし、ちゃたろ〜の影を飲みこんでいく。


 このまま背中が完全に消えてしまえば――もう戻らないのかもしれない。


 そんな予感が、ふたりの胸の底にゆっくり降り積もった。


 だがその静寂は、不意の声で破られる。


「――あ、やべ。飯、食い忘れた」


 ふたりの視線が一直線にそちらを向き、ぽかんと口を開く。


 ちゃたろ〜が、さっき歩き出した道から普通に戻ってきていた。その顔には、困惑でも恥じらいでもなく、ただ純粋な“空腹”が浮かんでいた。


「は?」

「……ちゃたろ〜? 今の流れで戻る……?」


 少年は真顔だった。


「腹減ったまま歩くのは無理だろ。死ぬ」


 その理屈が妙に正しいのが、さらに面白い。


 ルナは吹き出し、ティナは額を押さえ、肩の力がふっと抜けた。


「……ほんとにもう……あなたはそういう子よね」


 その声色には、安堵の色が濃く混じっていた。


 ちゃたろ〜はギルド食堂へ歩き、まるで「ちょっと朝ごはん食べてくる」程度の態度で姿を消した。


 残されたふたりは、なんとも言えない顔で見送るしかなかった。


「……帰ってきましたね」

「……うん。旅立ちとは?」


 ふたりは同時にため息をつき、しかしそのため息はどこか温かかった。


 その後、日常はすぐに戻った。


 ちゃたろ〜は朝に薬草を丁寧に干し、昼は治療所で子どもの擦り傷に《ヒール》を施し、夕暮れには軽い仕事を片づける。


「……こっちの土のほうが、湿り気が安定してるな。明日からここで干そう」


 そんなつぶやきは、村の生活音に自然に混じって溶けていった。


 だが、周囲はその自然さにこそ戸惑った。


「出ていったんじゃなかったのか?」

「昨日、普通に治療所にいたぞ」

「上位職の推薦もらったのに……?」


 酒場でも同じ反応だった。


「おい、本当に戻ってきてるらしいぞ」


 バルドが目を丸くする。


「……あの子なら、ありえるわね」


 ミナリスが苦笑しながら言う。


「あの子、“行くべきときじゃなきゃ動かない”もの」


 ギルド支部でティナが窓の外を見ると、薬草を抱えて歩く少年の背が揺れていた。


 その姿を目にするたびに、彼女は胸の奥で小さく微笑む。


「……ほんと、あの子らしいわ」


 しかし、その穏やかさは長く続かなかった。


 ギルドの扉が勢いよく開き、羽飾りを揺らしたウソヤクが飛び込んできた。


 その顔には、いつもの軽い笑みも飄々さもない。純粋な焦りと緊張がにじんでいた。


「見つけた……とんでもないのを」


 バルドが立ち上がる。


「なんだ、今度は薬草じゃねぇのか?」


「違う。北の丘陵地帯……あれは魔獣じゃない。悪魔族、それも“厄災級”だ」


 その言葉は、村の空気を瞬時に変えた。


 ミナリスはすでに地図を広げていた。

 バルドは剣に手を伸ばす。

 冒険者たちはざわつき、ティナは息を飲む。


「見間違いじゃ……?」と誰かが呟くが、ウソヤクはかぶりを振った。


「あり得ない。あれの瘴気……生き物のそれじゃない。森を腐らせる“死”の匂いだった」


 その直後、村の北空に、影が浮かんだ。


 黒く、霧のように広がり、ゆっくり形を持ち始める異形。


 翼とも、煙とも、怪物の輪郭ともつかない何か。陽光が呑まれ、影が地面を覆う。


 誰もが息を呑んだ。


 その場にいた全員の胸に、同じ言葉がこだました。


「……嘘、だろ」


 その頃、村の片隅で薬草を干していたちゃたろ〜は、風に混じった異臭に顔を上げた。


 鉄と腐敗を混ぜたような瘴気。

 肌に粘りつくような悪意。

 風向きが変わっただけで、世界が歪んだように感じられる。


 彼は空を静かに見上げた。


「……面倒なのが来たな」


 淡々とした声。


 だがその奥にある覚悟は、誰よりも鋭かった。


 干された薬草が風に揺れる。

 その影が地面で震え、村全体に“不穏の振動”が走っていく。


 災厄の影が、村へ向かっていた。

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