第20話「実地試験――スタンの価値」
朝の霧がまだ地面にまとわりつき、灰色の薄膜が広場を覆っていた。
それはまるで、戦士たちの息遣いや覚悟を吸い込み、静かに世界の色を淡くしているようだった。
柵に囲われた円形の試験場。
その中央に、少年が立つ。
ライトメイスを手にしたちゃたろ〜。
レベル20。十三歳。
だが、その立ち姿は「若さ」の輪郭をどこか欠いていた。
揺れない視線。
揺れない呼吸。
揺れない重心。
戦い慣れた者だけが身につける、あの妙な静けさが、年齢不相応なまでに自然にそこにあった。
観客席の最前列で、ティナは記録用紙を握る手に少し汗を滲ませていた。
横でルナは、胸の前で組んだ指先にぎゅっと力を込めている。
(怖い……違う)
ちゃたろ〜はちらりと二人の方を見る。
(あれは、“本気で心配してる顔”だ)
観客席のざわめきも、緊張も、今の彼には風向きの変化みたいにわかった。
その中心を、大地ごと揺らすような足音が横切る。
「準備はいいか、ちゃたろ〜?」
バルドが歩み出る。
両手剣を肩に担ぎ、筋肉の鎧をまとったような巨体。霧は彼の前だけわずかに後退し、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
だが、ちゃたろ〜の目に映ったのは力強さだけではない。
(……右の靴底が少し削れてる。踏み込みの軸は右。初手はたぶん縦。深く踏み込んで、真正面から潰してくる)
バルドは笑っていた。
けれどそれは、油断した笑いではない。相手の出方を見る者の、試験官の笑いだった。
「うん。手加減はなし、でしょ?」
「当然だ。試験だぞ。命までは取らねぇが……折れる骨くらいは覚悟しとけ!」
豪快に剣を抜く。
空気がびり、と震えた。
職員の手が高く上がる。
「――試験開始!!」
開始の合図はほぼ同時。
だが、動いたのはバルドがわずかに早かった。
「うおおおおおッ!!」
吠えるような声とともに、剣士は大地を砕く勢いで踏み込む。
大剣が空気を裂いた。
読みどおり、初撃は縦。
だが――速い。
予測より半歩、深い。
(……速ぇ!)
ちゃたろ〜は掌を突き出した。
「《プロテクト》!」
透明の障壁が眼前に展開した次の瞬間――
ドッッッ!!
剣と障壁が激突し、地面に蜘蛛の巣じみた亀裂が走る。
衝撃が腕から肩、肩から肋骨へと突き抜け、息が一瞬で押し出された。
「っ……!」
障壁の表面にひびが走る。
一撃目で、もう限界が近い。
観客席から息を呑む音が漏れた。
「うそだろ……」
「今ので立ってるのか……?」
ティナの指が、紙の端を強く握る。
ルナは立ち上がりかけて、ぎりぎりで踏みとどまった。
(重い……まともに受け続けたら終わる)
バルドの声が落ちる。
「どうした! 守るだけじゃ試験は終わらねぇぞ!」
その圧すら武器だった。
ちゃたろ〜は、障壁が砕ける寸前に半歩だけ斜めへ逃がした。真正面で受け止めず、流す角度を作る。
剣はわずかに軌道を外し、地面を深く抉った。
土煙。
その隙に詠唱を重ねる。
「《ライトボール》!」
白光が弾け、バルドの視界を染める。
「ちっ……!」
だが、バルドは止まらない。
視界を切られても、気配と足音で追ってくる。経験だけで十分に危険だとわかる踏み込みだった。
(やっぱり、ただの目くらましじゃ足りない)
ちゃたろ〜は位置を変えながら、地面を見る。
中央は踏み固められて硬い。
だが、さっき剣が叩き込まれた周辺だけ、下の土がゆるんでいる。
左に小石。右奥に浅い窪み。さらにその先に、水を含んだ柔らかい地面。
(使える)
バルドの二撃目が横薙ぎに来た。
「おらああッ!」
風圧だけで頬が切れ、熱い線が走る。
ちゃたろ〜はメイスを差し込み、まともに受けず、当たる角度だけずらして弾いた。腕が痺れる。掌が焼けるように痛い。
(力じゃ勝てない。だから、動かす)
ライトボールをもうひとつ。
今度はバルド自身ではなく、少し後方の幹へ当てる。
反射した光で影の濃淡が変わり、地面の窪みが曖昧になる。
そこへ小石をひとつ弾く。
からん、と乾いた音。
さらに逆側へもうひとつ。
ばらばらに響く落石音が、位置感覚をわずかに狂わせる。
バルドの目が細まった。
「……やってくれるじゃねぇか、坊主」
笑ってはいる。
だがもう、雑に追ってはいなかった。
(見てる……どこまで俺が組み立ててるか、試してる)
試験官としての目が立ち上がってくる。
ちゃたろ〜は息を整えた。
ライトメイスは、敵を叩き潰すための武器じゃない。
止めるための武器だ。
一瞬を奪い、生き残るための間を作る。
その価値を、今ここで証明する。
わざと左へ逃げる。
足をもつれさせるように見せ、少し大きく体勢を崩す。
バルドの目が変わった。
(食いついた)
大剣が追う。
ちゃたろ〜はぎりぎりで踏み替え、最初にゆるめた地面のさらに先――柔らかい土の縁へ回り込む。
バルドはそのまま追い込むように踏み込んだ。
ズブッ。
ほんのわずか。
ほんの一瞬。
だが確かに、足首が沈んだ。
剣士にとって、その一瞬は致命的な“静止”になる。
観客席の端で、誰かが叫ぶ。
「誘ってるぞ……!」
ティナが息を止める。
ルナの唇が小さく開いたまま固まる。
ちゃたろ〜の目が細くなる。
(……今!!)
影から飛び出し、一気に間合いへ潜る。
大剣が振り下ろされるより早く、メイスが走った。
一撃目、肩。
二撃目、肘。
三撃目――手首から頭部への線を断つように、側頭部へ。
「頭に――どーんッ!!」
乾いた衝撃音が広場に響いた。
痛打ではない。
だが、芯を外さない。
平衡感覚を乱すための一撃。
バルドの巨体が、ぴたりと止まった。
視線が揺れ、膝がわずかに沈む。
スタン。
広場から音が消えた。
風すら止まったようだった。
ティナが口元を覆う。
ルナは泣きそうな顔で息を呑む。
冒険者たちがざわついた。
「巨体が止まったぞ……!」
「あのバルドを……十三歳が……?」
「いや……あれは単なる幸運じゃない。戦略だ」
「逃げながら、場所ごと組み替えてやがった……」
スタンから回復したバルドは、掠れた息を吐き――次の瞬間、豪快に笑った。
「ははははッ!! 見事だ!」
試験場にその声が響く。
「お前、本当に十三歳かよ! 俺がこんなに楽しく戦えたのは何年ぶりだ!!」
ちゃたろ〜は笑わず、ただ静かにメイスを下ろした。
(勝ったわけじゃない。生き残っただけだ)
その手は、汗と土でじっとりと濡れていた。
ティナが震える声で宣言する。
「……ちゃたろ〜、合格です」
レベル差。
力量差。
体格差。
それらを埋めたのは、力ではなかった。
観察。
誘導。
そして、生きるために一瞬を奪う判断。
それは、ただのライトメイス使いの技ではなかった。
試験場の影。
ウソヤクは腕を組み、声を出さずに笑っていた。
「……また気づかれなかったな。見事だよ、ちゃたろ〜」
その声には、敗北の味と、追いつきたい相手への燃えるような興奮が混じっていた。
「お前は間違いなく、本物だ」
この日の戦いは、ただの試験ではなかった。
ティナの胸を揺さぶり、
ルナの心をざわつかせ、
ウソヤクの競争心を燃やし、
バルドに敬意を刻み、
そして――
ちゃたろ〜自身に、“戦う意味”を静かに植えつけた。
まだ強さの途中にいる。
それでも、この日確かに証明したものがある。
止める価値。
生き残る価値。
そして、自分のやり方で前に進む価値を。
不老の少年は、この日また一歩、彼にしか歩けない“長い時間の道”へと踏み出していた。




