第19話「その視線の先には」
森からの帰り道。
夕暮れが木々の影を長く引き伸ばし、鳥の声は少しずつ高みへ遠ざかっていく。昼間は鮮やかだった葉の色も、今は夕陽の赤を吸い込み、森全体がひとつの大きな呼吸をしているようだった。
ちゃたろ〜は肩にかけた薬草袋を軽く揺らしながら、隣を歩くルナへ問いかけた。
「……で、結局あいつ、どうだった?」
「ウソヤクさんですか?」
ルナは足元の落ち葉を、わざと音を立てるように踏みしめた。ぱり、と小さな破裂音がして、それからくすりと笑う。
「すごく悔しそうでした。……でも、楽しそうでもありました。『また面白くなりそうだ』って、帰り道ずっと言ってましたよ」
「そっか」
ちゃたろ〜はどこか納得したように目を細める。
「じゃあ、そのうち“今度は負けない”って言いに来るな、あいつ」
「言いそうですね……絶対」
ルナの笑い声は、森の静けさに溶けて広がる。その横顔には、安堵と、ほんの少しの誇らしさが混じっていた。
ちゃたろ〜は歩を緩め、肩の薬草袋の口を確かめる。中には、今日の依頼の要――銀煙花をはじめとした薬草が、丁寧に収められている。
袋をひとまとめにして、彼はルナの前に差し出した。
「これで任務完了だ。ギルドに届けておいてくれる?」
「はいっ、了解です!」
ルナは両手で袋を受け取り、ぎゅっと胸の前で抱きしめた。その仕草は、まるで大切な宝物を預かった子どものようで、見ている側の息を少しだけゆるめる。
(……重さ、ちゃんとある)
これだけ持って帰ってきた。
それだけの事実が、布越しに伝わってくるようだった。
そんなことを思いながら、ルナは袋の布越しに薬草の匂いをそっと吸い込んだ。
グレイハウス村のギルド支部は、夕刻特有のにぎやかさを帯びていた。
冒険者たちが報告を終え、酒場へ流れていく前のざわめき。金属が触れ合う音、笑い声、少し疲れを含んだ溜息。
その中心で、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて立つ女――ティナがいた。
扉が開き、ちゃたろ〜とルナが入ってくる。
ティナは手元の帳簿から顔を上げ、その姿を認めて少し目を丸くした。
「……あら。随分早く戻ってきたわね。ケガはしてない?」
「平気」
ちゃたろ〜はいつもどおりの短い返答をしながら、木札をカウンターに置いた。
その表面に刻まれた数字を見て、ティナの表情が一瞬止まる。
「……ちょっと待って。これ……“20”?」
「今日、達成した。報告と……上位職申請に来た」
まだ幼さを残した顔立ち。けれど、その声音と目の奥には、他の冒険者と変わらない“戦場の色”が混じっている。
ティナは感心とも、少しの寂しさともつかない光を目に宿し、ゆっくりと目を細めた。
「ふふ……やっぱり早いわね。じゃあ、上位職の申請用紙、用意するから少し待ってて」
彼女はカウンター下から数枚の書類を取り出し、さらさらと羽ペンを走らせながら続ける。
「……それにしても、抜け目ないわね。実地試験と面接があるって、もうわかってるんでしょ?」
「まあ、ね」
ちゃたろ〜は肩をすくめ、書類を受け取る。上から下まで目を通しながら、淡々と記入し始めた。
(たかが20。されど20)
死なずに積み上げた日数の重さくらいはある。
その裏側で、彼だけの時間感覚が静かにずれていく。周囲の人間が“成長していく速度”と、自分の内側に流れる“変わらなさそうな何か”との、わずかな差。
それに、まだ名前はつけない。
「じゃあ言うまでもないけど……実地試験の担当は――」
「バルド、だろ?」
ティナのペン先が止まる。
きょとんと目を瞬かせ、それから苦笑混じりに肩をすくめた。
「ほんとに……見ずに当てるんだから。はい、正解。バルドが試験官。あの人、自警団の顔だもの。腕試しできる機会、大好きよ」
「“好きそうだ”って思っただけだよ」
ちゃたろ〜はあっさりと言う。
横で話を聞いていたルナが、思わず声を上げた。
「バルドさんって、村で一番の実力者じゃ……? わたし、あの人に勝った人、見たことないです」
「だろうね」
ちゃたろ〜の返答は揺れない。
「だから試験相手になる。本気で殴って、本気で見てくれる相手じゃないと、意味がない」
「うわぁ……やっぱり怖いです。でも……なんか、ちょっとワクワクもします」
ルナは胸元で手を組み、不安と期待をないまぜにした表情を見せた。
ティナはその横顔をちらりと見て、少しだけ柔らかく微笑む。
「心配しなくても大丈夫よ。少なくとも、あの子が“今なら受ける”って思ったなら、無茶な時期ではないってことだもの」
「ティナ……」
ちゃたろ〜は返事をしなかった。
ただ木札に触れ、静かに息を吐く。
(“居場所”をもらってしまった分、ここで立ち止まるって選択肢は最初からない)
夜。
村の片隅に建つ、ちゃたろ〜の小さな小屋。その裏庭に、星明かりとランプの光が重なり合っていた。
物干し台代わりの横木には、縄に束ねられた薬草がいくつもぶら下がっている。夕方に採ったばかりの葉が風に揺れ、かすかな甘い香りを漂わせていた。
ちゃたろ〜は指先で葉の裏をなぞり、乾き具合を確かめる。
「……よし。これなら明日には使えそうだな」
そう呟いたところで、背後から柔らかな足音がした。
振り返ると、ランプを手にしたティナがいた。ゆらめく灯りに照らされて、長く伸びた影が地面をなぞっていく。
「夜更けまで作業してるのね」
「まあね。こうしてると、落ち着くから」
ティナは彼の隣まで歩み寄り、ランプを高く掲げた。灯りが薬草の束を照らし、葉脈の一本一本まで浮かび上がる。
「……ちゃんと風の通り道、考えて干してるのね。日が強すぎると香りが飛ぶって前に言ったの、覚えてた?」
「忘れないよ。役に立つことは、だいたい忘れない」
「そう。……そういうところ、昔から変わらないわね」
ティナの声には、懐かしさと少しの安堵が混じっていた。
「変わらない、か」
「ええ。私から見たら、ずっと“ちゃたろ〜のまま”。でも、だから安心できるのよ。この村が少しずつ変わっていっても、あなたは“ここにいる”って思えるから」
そう言って、ティナはそっとちゃたろ〜の肩に手を置いた。
押しつけがましくもなく、頼り切るでもなく、ただ“そこにいること”を確かめるような、ごく自然な触れ方。
風が二人の間を抜け、薬草の匂いと土の匂いを運び去る。
言葉は続かない。
だが並び立つ二人の距離は、外から見れば“かつてを共有した者同士”の近さだった。
その光景を、少し離れた場所からじっと見つめている影があった。
ギルドの裏手の陰。ランプの光が届かないところで、ルナがそっと息を殺している。
(……やっぱり、ティナさん、近いなぁ)
ちゃたろ〜の肩に置かれた手。当たり前のように並んでいる二人の背中。何気ないやり取りのはずなのに、どうしてだか胸の奥がざわざわと落ち着かない。
(別に、変な意味じゃないはず……なんだけど……)
ティナとちゃたろ〜の時間は、自分が知らない“最初の頃”から続いている。それを頭ではわかっているのに、視界に入るたび、どこかそわそわしてしまう。
ルナは小さく唇を噛み、ランプの明かりから一歩退いた。
(……わたしなんて、まだギルドに入って一年ちょっとだし。あの二人と比べること自体、変だよね。わかってるのに……)
理解と感情がうまく重ならず、胸の中で小さな波紋だけが、じわりと広がっていく。
踵を返し、その場を離れようとした――そのとき。
村はずれの木陰。もっと遠く、月の光と闇の境目に、もうひとつの影が潜んでいた。
木にもたれ、腕を組んでいる男。羽飾りを揺らしながら、レンジャー特有の鋭い目で、ちゃたろ〜、ティナ、ルナの位置関係を順に眺めていく。
「……ふむ。薬草の匂いだけじゃなくて、空気の匂いもだいぶ濃いな」
男――ウソヤクは、小さく笑った。
「ま、俺は採取役であって、色恋の案内人じゃないんだけどな」
軽く口笛を吹くと、ウソヤクは森の闇へと身を沈めた。
足取りには余裕と、これからの展開を前にした妙な楽しさが漂っている。
夜風が吹き、縄に吊された薬草がさらさらと鳴った。
その音は、まだ誰も知らない“次の変化”の前触れのようでもあった。




