第18話「試される価値」
──風は二人の背を押さず、ただ見届けるもののように森を渡っていた。
朝の森は深く湿っていた。
枝葉の隙間から差し込む光は細く、足元の苔や濡れた根をかすかな銀で縁取っている。土はまだ夜の冷えを抱え、踏みしめるたびにわずかな水気を返してきた。
ちゃたろ〜は膝を折り、湿りの残る地面にそっと手を置く。
冷たさ。
重さ。
土の締まり方。
それから、空気に混じる微かな甘香。
(……銀煙花の気配はある)
葉を三枚ほど摘み、指先で擦って匂いを確かめる。鼻に抜ける青さの奥に、乾いた花粉ではなく、まだ開ききらない蕾特有の甘さが混じっていた。
日差しの角度。
周囲の湿度。
根が吸っている水の量。
ばらばらに見える情報が、頭の中でひとつの線に繋がっていく。
(近い。でも、まだ“ここ”じゃない)
ちゃたろ〜は立ち上がり、ひとつ先の木立へ視線を送った。
背後で小さく息をのむ音がする。
「ちゃたろ〜さん……やっぱり、この香り……」
振り返ればルナがいた。ショートマントの裾に朝露をつけたまま、木々の合間からこちらを見つめている。
急いで追ってきたのか、肩で少し息をしていた。だがその目は、ちゃたろ〜の一挙手一投足を見逃すまいとするように真剣だった。
「銀煙花、ですよね?」
「ああ。条件は揃ってる」
淡々とした返答。
けれど、その短い言葉の奥にある確信を、ルナはもう知っていた。
ちゃたろ〜がこういう声を出すときは、だいたい当たる。
「……本当にすごい」
ルナは思わず呟く。
「森が呼吸してるのを、そのまま読んでるみたい」
そこまで言って、自分で少し恥ずかしくなったのか、ルナは視線を逸らした。
だが、ちゃたろ〜は笑わなかった。
「呼吸してるよ。森も、草も、土も」
「そういう返しを自然にするの、ずるいです」
「そう?」
「そうです」
小さく頬を膨らませた、その瞬間だった。
乾いた笑い声が、木々のあいだから割って入った。
「やっぱり来てたか。“本物”を確かめるには、本人を追うのが一番早い」
草を押し分けて現れたのは、羽飾りを揺らした青年――ウソヤクだった。
軽い足取り、陽気な笑み。背中には矢筒、腰には短剣、肩には大きな薬草袋。
いかにも森に慣れた格好だが、その目だけは狩りの前の獣みたいにぎらついていた。
ちゃたろ〜は表情を変えない。
「……尾行してたのか」
「尾行ってほど陰気じゃないさ。観察だよ、観察」
ウソヤクは肩をすくめる。
「ギルドで聞いたぜ。薬草の匂いだけで生育場所を読む、妙に落ち着いたちび冒険者がいるってな」
「ちび……」
ルナの眉がぴくりと動く。
「子ども扱い……っ」
「そこ気にするとこ?」
ちゃたろ〜が静かに聞くと、ルナははっとした顔をして咳払いした。
「き、気にしてません。ただ、事実確認です」
「してるじゃねえか」
ウソヤクは楽しそうに笑い、それから胸を張って名乗る。
「俺の名はウソヤク。レンジャーをやってる。名前はともかく、薬草を見る目に関しては嘘じゃない」
「名前の時点で信用ならないわね……」
ルナがぼそっと刺す。
「名前に偽りがあるけど」
ちゃたろ〜の静かな追撃。
それでもウソヤクはへこたれない。むしろ笑みが深くなった。
「いいぞ、その感じ。やっぱり話は早そうだ」
彼は矢筒を軽く叩き、薬草袋を揺らした。
「単刀直入に言う。“薬草マニアの相棒”を探してる」
「相棒?」
「そう。本当に森を読めるやつかどうかは、並んで歩けばわかる。でも、もっと早い方法がある」
そこでウソヤクは少し身を乗り出した。
「銀煙花だ」
ルナが息をのむ。
「この辺りにあるっていう、あの……?」
「らしいぜ。依頼も出てる。希少で、扱いが難しくて、価値も高い。だったら話は簡単だ」
ウソヤクの口元が吊り上がる。
「誰が先に、より正確に見つけ出せるか。それで決めよう」
遊び半分の挑発ではない。
興味と、期待と、試したいという衝動が、まっすぐその声に混じっていた。
ちゃたろ〜は少しだけ黙り、森の奥を見た。
湿り気は十分。
風は弱い。
光は散っている。
銀煙花が育つ条件は、たしかに揃っている。
「……いいだろう」
ルナが振り向く。
「ちゃたろ〜さん?」
「ただし、俺は勝つことより、生きて帰ることを優先する」
ウソヤクの目が細くなる。
そして、満足そうに笑った。
「いいねぇ。そういうやつがいい」
風がひとつ、木々の上を抜けていった。
次の瞬間、二人はほぼ同時に動いていた。
先に仕掛けたのはウソヤクだった。
ヒュッ、と風を切る音。矢が頭上の枝を打ち、細い枝葉がぱらぱらと降ってくる。
その一部が、ちゃたろ〜の進路に落ちた。
「森じゃ“足場を荒らす”のも立派な牽制だ!」
軽い声と同時に、ウソヤク自身は右へ回り込む。単純に速いだけじゃない。動きながら周囲の草や木の癖を見ているのがわかった。
ちゃたろ〜は枝を踏み抜きかけた足をわずかにずらし、進路を修正する。
(雑に見えて、ちゃんと考えてる)
落ちた枝葉の向こうは、わずかに傾斜していた。このまま突っ込めば足を取られる。
ちゃたろ〜は掌に魔力を集めた。
「《ライトボール》」
淡い白光が、木の幹をかすめるように浮かぶ。
反射した光で影の濃淡がわずかに変わり、地面の窪みと盛り上がりが曖昧になる。
ウソヤクの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「影をずらした?」
「森を使うなら、光も使う」
ちゃたろ〜は地面の小石を拾い、斜め後方へ弾くように投げた。
からん、と乾いた音。
さらにもうひとつ。違う方向へ。
森は音を抱え込んで、位置をわずかに歪める。
ウソヤクがそちらへ視線を流した一瞬、ちゃたろ〜は湿りの強い区域へ進路を切った。
(銀煙花は、強い陽を嫌う。だけど暗すぎてもだめだ)
必要なのは、乾かない光。
湿度を抱えたまま、やわらかく朝日が滲む場所。
ちゃたろ〜は幹の苔つき方を見る。根の浮き方を見る。草の葉先がどちらへ伸びているかを見る。
読む。
視るのではなく、読む。
森の呼吸を。
風の流れを。
土の中の冷えを。
背後で矢音が走った。
「っ!」
《プロテクト》が肩口で弾き、衝撃だけが身体を揺らす。
止まらない。
足を止めた方が負けるのではなく、止まった方が森から切り離される。
「……子どもの反応じゃないな、それ」
ウソヤクの声には、驚きと喜びが半分ずつ混じっていた。
「そっちも、ただの変人じゃない」
「褒め言葉として受け取っとく!」
前方の空気が変わる。
湿り気が一段深くなった。草の青臭さの奥に、薄く甘い匂いが混じる。
ちゃたろ〜は足を止めた。
(……ここだ)
そこは、湿った岩場の奥にできた小さな窪地だった。
枝葉の隙間を抜けた朝の光が、滲むように落ちている。
乾ききらず、暗すぎず、風も強くない。
その中心で、ふわり、と銀の霧のようなものが揺れた。
銀煙花。
開き始めたばかりの花弁が、光を吸ってやわらかく揺れる。葉の縁は淡く銀を帯び、花芯の周囲には朝靄のような薄い輝きが漂っていた。
息をのむ気配が横で重なる。
追いついてきたウソヤクだった。
「……まいったな」
彼は素直に苦笑した。
「俺が走って、揺さぶって、森を使ってる間に、そっちはちゃんと“答え”の方を読んでたわけか」
ちゃたろ〜は何も言わず、花の前にしゃがみ込む。
花弁を傷つけない位置。
根を壊さない角度。
湿った土の返し方。
そのすべてを確かめてから、そっと銀煙花を摘み取った。
ウソヤクは、その手元を見つめたまま小さく言った。
「お前、“命を扱う手”をしてる」
ちゃたろ〜は答えない。
だが、否定もしなかった。
しばしの沈黙のあと、ウソヤクが息を吐く。
「負けだ。これはもう、言い訳のしようがない」
悔しそうではあった。
けれど、その顔には妙な晴れやかさもあった。
「また勝負してくれ。お前と競うと、森の見え方が変わる」
「勝負じゃなくても、一緒に見ればいい」
ちゃたろ〜が言うと、ウソヤクは一瞬だけ目を丸くして、それから吹き出した。
「それ、相棒候補としてはかなり強い返事だな」
少し離れた場所で見守っていたルナが、バスケットを抱えたまま駆け寄ってくる。
「ちゃたろ〜さん……!」
その声は安堵に震え、そこにわずかな誇らしさが混じっていた。
ちゃたろ〜は摘み取った銀煙花を、傷がつかないよう慎重にバスケットへ納める。
「依頼、完了だ」
胸元の木札が淡く光った。
小さな脈動が、掌へ伝わる。
――レベル20。
数字そのものよりも、そこへ至るまでに積み上げてきたものの重さが、ちゃたろ〜にはよくわかっていた。
森の風が抜ける。
それは勝敗を告げるようでもあり、新しい道の匂いを運ぶようでもあった。
この勝負は、ただ薬草を奪い合うものではなかった。
何を見て、
何を優先し、
どうやって生き残るか。
その違いごと、互いの価値を見せ合う時間だった。
そして今、少なくともひとつだけは確かだった。
ウソヤクは、ただの変人ではない。
ちゃたろ〜もまた、ただの薬草好きでは終わらない。
森の奥で、静かな競い合いは終わった。
だが、ここから始まるものは、まだ誰にも見えていなかった。




