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第15話「死闘、そして始まりの終わり」

 森は沈黙していた。


 風の巡りが変わり、鳥の声が止み、空気が粘りつくように重くなる。ちゃたろ〜の耳奥で、自分の鼓動が硬い音を打ち始めた。


 目の前に立つ影は、巨大でもない。凶悪なドラゴンでも、魔王の眷属でもない。


 だが、この世界における“現実の死”を象徴するには十分だった。


 毒牙ウルフ。


 灰をまぶしたような毛並み。牙の間から滴る粘ついた唾液。そして、腐敗臭を曇りガラスのように纏った濁った赤眼。


(……逃げられない。ここは、受けるしかない)


 腰のライトメイスを握る。


 十歳の身体は軽い。だが、その内側にある意識は、恐怖に呑まれて足を止めるにはもう慣れすぎていた。


 毒牙ウルフの肩が沈む。


 動く――!


 閃光のような突進が飛んだ。


「ッ……!」


 大気が裂けた。牙が顔面へ迫り、ちゃたろ〜は咄嗟に体をひねって退く。鋭い痛み。肩の皮膚が薄く裂け、血の匂いが空気に溶けた。


(速ぇ……!)


 木の幹に背を打ち、息が詰まる。体勢を崩しながらも、足元の地形だけは見失わない。


 倒木。湿った泥。根の段差。


(足場は悪い。……でも、使える)


 毒牙ウルフの爪が泥を弾き、二撃目の突進が迫る。


 ちゃたろ〜は倒木と倒木の狭間へ身を滑り込ませた。


 成人では不可能な狭さ。十歳の身体だからこそ通れる隙間。


 牙が木の皮を削り、破片が飛び散る。


「ッ……ここなら、動きは鈍る!」


 ウルフの肩幅は広い。倒木が障害となり、思うように軌道が取れない。


 その一瞬の引っかかりを見逃さず、ちゃたろ〜はメイスを振り上げた。


「ぉおおッ!」


 乾いた破砕音。


 ウルフの鼻先に直撃し、獣が怯んでよろける。


 だが――


「ガルァアアッ!!」


 怒りの唸りとともに、再度跳びかかってくる。牙が腕を掠め、皮膚が裂けた。熱い痛みが走る。


(……足りない)


 石を掴み、目元へ投げる。ひるませ、距離を取り、呼吸を整える。


 それでも分かっていた。


 一人で押し切れる相手じゃない。


 数分ももたない。身体の限界も、集中力の限界も近い。


(それでも、崩す。勝ち筋だけは残す……!)


 そのときだった。


「下がれ、坊主ッ!!」


 森の上から、太い声が落ちてきた。


 バキィィン!!


 木上からバルドが振り下ろした巨木の枝が、毒牙ウルフの背に直撃した。獣の体が大きく揺らぐ。


 同時に――


 ヒュッ……ッ!


 ミナリスの矢が側頭部へ突き刺さる。


 精密な一撃。ウルフが苦悶の咆哮を上げた。


「援護だ、坊主! 状況は!」


「……倒せる!」


 三人が一つの円を描くように散開し、毒牙ウルフを囲む。


 ウルフは矢を嫌う。バルドの接近戦を嫌う。そして――ちゃたろ〜が死角へ回り、注意を逸らす動きも、もう警戒し始めていた。


 ガルルルァァッ!!


 怒り狂った獣が、真正面へ突っ込む。


 標的は――ちゃたろ〜。


「来いよ……!」


 心臓が跳ねた。


 恐怖はある。だが、それ以上に意識は澄んでいた。


 バルドが横から斬りかかる。ミナリスが視界を削るように矢を放つ。


 毒牙ウルフの意識が、一瞬だけ左右に割れた。


(……今、だ!)


 ちゃたろ〜は泥を蹴り、全力で踏み込んだ。


 吠え声。うなる息。擦れる泥の音。すべてが一瞬に溶ける。


 胸元が空いた――!


「うおおおおおッッ!!」


 ライトメイスが獣の胸骨に深く叩き込まれる。


 乾いた破裂音。衝撃が腕を突き上げる。


 ウルフが痙攣し、がくりと崩れ落ちた。


 泥に倒れ、もう動かない。


 しばし、森に静寂が戻った。


 ちゃたろ〜は膝をつき、肩で荒い息を繰り返す。腕は震え、視界が揺れる。


「やった……のか……?」


 バルドが背中を豪快に叩く。


「おうよ! 最後の一撃、見事だった!! よくやった!」


 ミナリスは血を拭いながら、静かに言う。


「一人じゃ無理だった。でも、あんたが崩した。あれで十分よ」


 ちゃたろ〜は返事をしない。ただ息を整え、メイスをゆっくり下ろす。


 その手は、戦いで泥と血にまみれていた。


 その夜、ギルド。


 扉を開いた瞬間、ティナが駆け寄ってくる。


「ちゃたろ〜さん……!! 本当に……本当に無事で……っ」


 ぎゅっと胸の前で手を握りしめる。その瞳には、安堵と涙の光が混じっていた。


 渡された木札には、新たな刻印。


 数字は、“5”。


 レベルアップの輝きが淡く揺れる。


「……ありがとう」


 短い言葉。


 けれど、ティナは頬を赤らめるでもなく、ただ深く息をついた。


「生きて……ほんとによかった……」


 ちゃたろ〜は木札を見下ろした。


 最初は何もなかった。


 名前も、職も、居場所も、頼れる誰かも。


 あったのは、生き延びたいという意地だけだった。


 けれど今は違う。


 泥と血の先に、帰る場所がある。

 名前を呼ぶ声がある。

 ひとりでは届かなかった勝利を、分け合う相手がいる。


 ちゃたろ〜は静かに木札を握りしめる。


 まだ強くはない。

 まだ遠い。

 それでも、もう“始まったばかりの子ども”ではなかった。


 夜のギルドには、薪の匂いと人の声が満ちていた。


 そのあたたかさの中で、ちゃたろ〜の最初の章は、静かに幕を閉じる。

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