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第13話「名前を呼ばれる日々」

 朝の村は、まだ少し眠たげだった。


 夜露の残る土の匂い。家々の煙突から細くのぼる白い煙。遠くでパンを焼く匂いがして、どこかの家の扉が軋む音がした。


 ちゃたろ〜は自警団の木札を胸元に下げ、村の中央通りを歩いていた。


「お、ちゃたろ〜。今日は東の見回りだったか?」


 荷車を引く男が、気軽に声をかけてくる。


「ああ。ついでに柵の傷みも見てくる」


「助かるよ。この前みたいに、また変なもんが入り込んだらたまらんからな」


 軽いやり取りだった。だが、ちゃたろ〜はその短い会話のあとに、わずかに足を止めた。


(……今、名前で呼ばれたな)


 最初は“あの子”だった。

 次は“ギルドの坊主”。

 それが今は、ちゃんと名前になっている。


 それだけのことが、妙に胸に残った。


 ギルドへ顔を出すと、ティナが巡回表を抱えて待っていた。


「おはようございます、ちゃたろ〜さん。今日の担当、書き込んであります。東の柵沿いと、水場の確認もお願いします」


「水場?」


「昨日、桶の水が少し濁ってたって話があって。大きな問題じゃないと思うんですけど、一応……」


 ティナはそう言って笑ったが、その目はちゃんと仕事の色をしていた。


「わかった。見てくる」


「……無理はしないでくださいね」


 短い言葉。

 けれど今では、それがただの挨拶ではないと分かる。


 ちゃたろ〜は小さく頷き、巡回表を受け取った。


 ギルドの外へ出ると、入口脇の柱にもたれていたミナリスが、ちらりと視線を寄越した。


「東側なら、風下を先に見なさい。臭いが残っていれば、先に気づける」


「……覚えておく」


「覚えるんじゃない。使うのよ」


 それだけ言って、ミナリスはもう別の方向を見ていた。


 だが、その一言がただの指示ではなく、“次に生き残るための知恵”として渡されたものだと、ちゃたろ〜には分かった。


 村の東へ向かう途中、鍛冶屋の前で大きな荷袋が道の端に崩れていた。


「おい、悪い! そっち持ってくれ!」


 呼びかけたのは、汗だくの若い職人だった。


 ちゃたろ〜は無言で荷袋の端を持ち上げる。見た目よりずっと重かったが、足の踏ん張りと腰の入れ方を意識すれば運べないほどではない。


「おお、助かった! お前、小さいのに案外力あるな」


「慣れてきただけだよ」


「はは、頼もしいな。今度また頼むぞ、ちゃたろ〜」


 また名前で呼ばれた。


 大したことじゃない。

 それでも、その積み重ねが少しずつ身体の内側に沈んでいく。


 東の柵沿いは、今のところ静かだった。


 木の杭に手を当て、ぐらつきがないかを確かめる。古くなった縄は二か所ほど毛羽立っていたが、急いで替えるほどではない。


 足元の土を見れば、村人の靴跡と荷車の車輪跡ばかりで、目立った獣の痕跡はない。


(今朝は静かだな)


 だが、静かな朝ほど油断しやすい。


 ちゃたろ〜は歩幅を緩めず、水場へ向かった。


 村の東端にある共同の水場は、小さな石組みの井戸と、汲み上げた水を溜めておく木桶がいくつか並んだだけの簡素な場所だった。


 先に来ていたらしい老婆が、桶を覗き込んで首を傾げている。


「おや、ギルドの子かい」


「水が濁ってるって聞いた」


「ああ、ほんの少しだけどねぇ。飲めないほどじゃないんだけど、なんだか前より土っぽい感じがして」


 ちゃたろ〜は桶の縁に手をかけ、水面を覗いた。


 たしかに、うっすらと濁りがある。泥が入ったほどではない。だが、いつもより細かい沈殿が多い。


 指先ですくい、匂いを嗅ぐ。


(土だけじゃないな)


 鉄とも違う。腐敗でもない。水そのものが悪くなっているわけではないが、どこか“流れてきたもの”が混ざっている感触があった。


「水源の方、見てくる」


「そうかい。気をつけなよ」


 老婆の声を背に、ちゃたろ〜はさらに先へ進む。


 水場の裏手は、森へ続く手前の浅い草地になっていた。


 風は弱い。

 鳥の声もある。

 空は明るい。


 それでも、何かが少しだけおかしい。


 草の倒れ方が、揃いすぎている。


 しゃがみ込み、地面に指を這わせる。浅く抉れた跡が三つ。いや、四つかもしれない。獣の足跡に見えるが、村の近くをうろつく野犬よりわずかに大きい。


 しかも歩幅が、妙に一定だった。


(……ただ通っただけじゃない)


 そこに立ち止まり、周囲を探った形跡がある。


 ちゃたろ〜は視線を上げる。柵の向こう、森の入口まではまだ距離がある。だが、この場所まで“気配を探りに来た”と考えると、話は変わる。


 風が吹いた。


 湿った土の匂い。

 草の青さ。

 それから、ほんのわずかに混じる鉄に似た匂い。


 昨日までなら見落としたかもしれないほど、薄い違和感だった。


(ミナリスの言う通りだな……風下から見て正解だった)


 ちゃたろ〜は巡回表の端に、簡単な印を書きつけた。


 昼前にギルドへ戻ると、ティナが書類を仕分けているところだった。


「おかえりなさい。どうでした?」


「柵は大きな異常なし。水場は少し濁りがある。あと、東の草地に獣の痕跡。たぶん村の様子を探りに来てる」


 ティナの手が止まる。


「……それ、すぐ報告あげます」


 彼女は紙を取り出し、いつもの倍の速さで筆を走らせた。焦っているのに、字は乱れない。そこに、彼女の強さが出ていた。


「水場の件は、村長のところにも回します。東の見回り回数、増やした方がいいかも……」


「増やすなら、夕方前がいい。匂いが残りやすい」


 ちゃたろ〜が言うと、ティナは一瞬だけ目を上げた。


「……ほんとに、ちゃんと見てきたんですね」


「見るしかないから」


 その返答に、ティナは小さく息をついて、少しだけ笑った。


「うん。そういうところ、頼りにしてます」


 飾らない言葉だった。

 それが、妙にまっすぐ胸に入ってくる。


 午後は、バルドに半ば強引に連れ出される形で、訓練場の端に立たされた。


「坊主、走るだけじゃ足りねぇ。支えるやつは、自分が倒れねぇ身体を作れ」


「理屈はわかる」


「理屈だけで筋肉はつかねぇ!」


 笑いながら木剣を投げてよこされる。受け取った手にずしりと重みが乗った。


「振れ。百回」


「多い」


「減らしてほしけりゃ二百回にしてやるぞ!」


 結局、ちゃたろ〜は黙って木剣を振った。


 腕はすぐに重くなり、肩が熱を持ち、掌の皮がじわじわ痛み始める。だが、森を走った時の息の焼け方よりはましだと思えば、少しだけ耐えられた。


 途中で通りがかった子どもたちが、柵の向こうから声を上げる。


「がんばれー!」

「ギルドのちび冒険者だ!」

「ちびじゃない」


 思わず返すと、子どもたちは笑い転げた。


 バルドまで腹を抱えて笑う。


「ははっ、今のはよかったぞ坊主!」


 騒がしい。だが、不思議と悪くなかった。


 夕方、借屋へ戻る道すがら、ちゃたろ〜は村の灯りを見た。


 鍛冶屋の火。

 夕餉の煙。

 家々から漏れる声。


 そのひとつひとつが、以前よりも少し近い。


(外から眺めてるだけじゃない)


 今日、自分はここを歩き、ここで名前を呼ばれ、ここで働いた。


 誰かの荷を持ち、誰かの水を気にし、誰かの報告に言葉を返した。


 大きなことは何もしていない。

 魔物を倒したわけでもない。

 英雄みたいなことは、ひとつもない。


 それでも。


「……こういうのが、居場所ってやつか」


 小さく呟く。


 借屋の前に着いたところで、ちゃたろ〜は足を止めた。


 地面の端。

 踏み固められた土の上に、見慣れない跡がある。


 獣の足跡。

 だが、村の中をうろつく野犬のものより、ひと回り大きい。


 しかも、向きは村の外ではなく──中を見ていた。


 ちゃたろ〜はしゃがみ込み、無言でその跡に指を当てる。


 まだ新しい。


 夕暮れの風が、森の方からゆっくり吹き込んでくる。


 湿った土。

 冷えた草。

 それから、やはり混じる鉄のような匂い。


 村は静かだった。


 静かすぎるほどに。


 ちゃたろ〜は木札を握りしめ、暗くなり始めた空を見上げる。


 何かが、近づいている。


 まだ名も持たない“それ”は、村の境界を探る段階を終え、もう一歩だけ、こちらへ踏み込もうとしていた。

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