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第89話《帰還と歓声、そして静謀》

 ――地上の光は、思っていたよりも白かった。


 夜の底からようやく這い上がってきた目には、夜明け前の薄い光でさえ眩しい。

 迷宮都市カンブレーグの大扉が、重たく軋みながら開いていく。

 乾いた石の匂い。

 冷えた朝の空気。

 硫黄と血と焼けた毛皮の臭いを肺に溜め込んだままの身体には、その地上の空気がひどく甘く感じられた。


 そこに現れたのは、四人だった。


 盾を抱え、無言で前を歩くちゃたろ〜。

 剣を背に、黙して従うルンナ。

 帽子を脱ぎ、汗に濡れた髪をかき上げるララ。

 そして、ノートを胸に抱え、眼鏡の奥で涙をこらえるオリーブ。


 誰も派手な勝ち名乗りは上げない。

 誰も誇らしげに胸を張ったりしない。

 ただ、歩いてくる。

 倒れずに、四人で。


 その事実だけで、十分だった。


 広場の端にいた誰かが、信じられないものを見たような声で叫んだ。


「帰ってきたぞ――あの四人だ!!」


 最初は、ざわめきだった。

 半信半疑の視線。

 息を呑む音。

 名前を確かめ合う小声。


 やがて、それが爆ぜる。


「本当に……生きて戻ったんだ!」

「地獄の門を越えて……!」

「四人でケルベロスを倒したのか!?」

「嘘じゃねえのか……いや、あの顔……本物だ……!」


 拍手と叫びが渦巻き、広場を埋め尽くしていく。

 歓声は波になり、波は石畳を揺らし、まだ眠りきっていない都市の朝を一気に叩き起こした。


 ララが振り返り、息を弾ませながら笑う。

 笑いは疲れている。けれど、ちゃんと生きている笑いだった。


「見てよ、パイセン……! みんな、私たちを見てる!」


 オリーブはもう涙を隠せなかった。

 震える唇のまま、嗚咽混じりに呟く。


「……記録者としてじゃない。……仲間として、生きて帰れた」


 ルンナは無言のまま剣を鞘に収める。

 その動作はいつも通り静かだったが、今はその静けさ自体が重かった。

 やがて彼は低く、確かな声で言った。


「――勝ったんだ」


 短い一言。

 飾りも熱もない。

 だが、それがいちばん深く広場に落ちた。


 ちゃたろ〜は答えない。

 ただ静かに頷き、盾を軽く掲げた。


 それだけで、群衆はさらに大きな歓声をあげた。


 都市全体が震えるほどの歓喜。

 それが、地獄を生還した証だった。


     ◇


 だが、熱狂の裏には、別の温度がある。


 討伐から間もない日。

 ギルド本部の地下会議室には、いつものように灯りが少なかった。

 明るくしないのは、節約のためではない。

 余計な顔色を見せないためだ。


 石卓を囲む幹部たちの前に、分厚い資料がいくつも積まれている。

 討伐記録。

 観測報告。

 行動分析。

 そして、回収された魔核。


 部屋の空気は重い。

 勝利の報せを受けた部屋とは思えないほど、冷たく、乾いている。


「確認する」


 最初に口を開いた男の声は、感情の起伏を削ぎ落としていた。


「四人の未登録パーティが、ケルベロスを討伐した」


 紙をめくる音がひとつ。

 誰もすぐには続かない。

 続けた言葉が、その沈黙をさらに重くした。


「戦闘記録は精緻だ。虚偽の余地はない」

「……だが、問題は“ちゃたろ〜”だ」


 石卓の上に並ぶ記録のひとつには、オリーブの残した詳細な観測内容が綴られていた。

 攻撃の流れ。

 支援のタイミング。

 耐久の推移。

 通常なら倒れているはずの局面で、倒れなかった回数。


「全ての攻撃を受け、なお仲間を支援した……? 理屈としては成立しない」

「だが現実には成立した。だから問題なんだ」

「異常だ」

「異常という言葉で片づけるには、結果が大きすぎる」


 会議室に重い沈黙が落ちる。


 賞賛はない。

 安堵もない。

 あるのは、警戒だけだった。


「扱いを誤れば、都市の均衡が揺らぐ」

「任務斡旋は一時保留」

「接触には必ず記録官を同行させろ」

「報酬は規定通り支払う。だが、過度な英雄視は避けるべきだ」


 冷徹な声が続き、ちゃたろ〜を“功労者”ではなく“管理すべき危険”として語る視線が交錯する。


「最大の問題は――彼が次にどこへ向かうか、だ」


 その一言のあと、誰もすぐには口を開かなかった。


 未踏。

 深層。

 地獄門の、その先。


 皆が同じものを想像している。

 だが、はっきり言葉にした瞬間、それは現実の計画になってしまう。


 だから、沈黙する。


 その沈黙は、不気味な確信を孕んでいた。


     ◇


 夜。


 辺境伯領の執務室は、外の熱狂から切り離されたように静かだった。

 窓の向こうには、まだ祝祭の余熱みたいな歓声が遠く揺れている。

 それでも室内は暗く、整いすぎるほど整っている。


「以上です」


 マリアベルが無表情のまま報告を終える。

 声は細くも高くもない。

 だが、その平坦さが逆に、内容の重さを浮かび上がらせていた。


 隣では、セフ=ユステが沈黙したまま記録を整えている。

 白銀の仮面は灯りを鈍く返し、その奥にある表情は読めない。

 読めないまま、ただ紙を揃える手つきだけが正確だった。


 辺境伯は書類を閉じ、しばらく何も言わなかった。


 机の上に置かれた報告書。

 討伐記録。

 そして、ひとりの名。


 やがて、彼は低く呟く。


「……支配ではなく、同盟。彼を縛る必要はない」


 その声は強くない。

 むしろ静かだ。

 だが、静かな言葉ほど覆しにくい。


「互いに踏み外さなければ、それでいい」


 窓外の喧騒を見下ろしながら、辺境伯は目を細めた。

 その横顔に浮かぶのは喜びではなく、もっと遠くを見る者の顔だった。


「だが忘れるな」


 短く置かれた言葉に、マリアベルもセフも視線を上げる。


「地の底には、まだ“何か”が眠っている」


 淡々とした一言。

 だが、その重さは報告書の束よりも深く部屋に沈んだ。


 都市は今、勝利に沸いている。

 歓声が石壁を叩き、人々は英雄を求め、物語は分かりやすい形を欲しがる。


 けれど、その下では、もっと静かなものが動いている。


 未踏。

 選定。

 監視。

 そして、深層で眠る“何か”。


 都市の喧騒の裏で、静かに、着実に――

 新たな策謀が動き始めていた。

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