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第88話《終焉の三つ首②》

 灼熱の大地に踏み込んだ瞬間から、全員の肺は焼けつくようだった。

 熱風は皮膚を焦がし、硫黄の匂いが鼻腔に貼りつく。

 一歩ごとに石床がじりじりと熱を持ち、足裏から疲労が吸い上げられていく。


「全フェーズ、想定通りに進めば……勝てます!」


 オリーブが震える声で言う。

 恐怖を押し殺すための言葉。

 それでも、眼鏡の奥の瞳はまっすぐ仲間を見据えていた。

 揺れているのは声だけで、目の奥は強い光を帯びている。


 ララは唇を舐め、大きく息を吸う。

 ルンナは肩を落とすように一度呼吸を整え、剣をゆっくりと握り直した。

 その仕草だけで、心が決まったことが伝わってくる。


 黒き大地がかすかに揺れ、空気そのものが軋む。

 ケルベロスが、首をもたげた。


 三つの喉が同時に膨らみ、広間の圧が一段増す。


 ――地獄の門番の咆哮が、闇を切り裂く。


 音が鼓膜に来る前に、内臓に来た。

 胃がひっくり返り、背骨が震え、膝が一瞬だけ“折れる方向”へ引かれる。

 頭の中で、昨日の敗北が熱と一緒に蘇る。

 あの時も、この咆哮から全部が崩れた。


「パイセン、いくよ!!」


 ララの叫びが沈黙を破る。

 ちゃたろ〜は躊躇なく前へ駆け出した。

 盾を構え、一直線に敵の中央頭部へと突進する。


《エンドオブフェイス》


 赤い鎖の閃光が一直線に走り、暗黒の空間を裂く。

 刺さった瞬間、三つの首の視線が“揃う”。


 右が横へ回るのをやめ、左が後ろを嗅ぐのをやめる。

 迷うのではない。――命令が一本に束ねられた。


 だが、それで終わらない。

 束ねられた殺意が、そのままちゃたろ〜へ集まる。

 空気が変わる。圧が一点に寄る。


 即座に《ホーリーボール》を叩き込み、意識を完全に自分へ釘付けにした。


「今のうちに!」


 ルンナが剣を構え、素早く詠唱する。

《アクアチャージ》。


 水の精霊が刃に宿り、青い膜が刀身を覆っていく。

 刃が滴るような輝きを放ち、空気すら冷たくした。


「……私も!」


 ララが《マジカルブースト》を起動。

 彼女の周囲に炎と雷の紋章が浮かび、魔力が膨張して空気が震える。

 髪が逆立ち、頬が赤く染まる。

 だが、その代償みたいに呼吸が少し荒くなる。力を引き上げるたび、身体にも無理がかかる。


 オリーブもすかさず《タイムアシスト》を発動。

 魔法陣が床に広がり、仲間の呼吸がわずかに軽くなる。

 スキルの再使用が短縮され、動きが連携の速さを得る。


 そして――オリーブは、短く“釘”を刺す。


「……熱を溜め込む毛皮です。冷やすと、関節が遅れます。今なら……通ります!」


 全員の攻撃態勢が整った、その刹那――

 ケルベロスが再び咆哮した。


 今度は、さっきより近い。

 空間全体がひしゃげ、耳の奥が裂けるように痛む。

 喉の奥が震え、視界の端が白く飛ぶ。


「来る!」


 ちゃたろ〜が《セイクリッドキュア》を即座に発動。

 聖光が仲間を包み、精神の混乱を祓う。

 一瞬前まで心臓を握られていたような恐怖が、霧散する。


 だが、敵は待ってくれない。


「止めるには遅いッ!」


 オリーブが悲鳴に似た声をあげた瞬間、三つの口が一斉に開かれる。


 紅蓮のブレスが奔流となって床を舐め、焼き尽くす。

 石床が割れ、熱で赤く染まり、空気が爆ぜた。


「やるよ……私、できる!」


 ララは声を震わせながら《バーニングレジスト》を詠唱するが、熱風が詠唱を乱す。

 舌が痺れ、言葉が歪む。

 喉が焼けて、息が細くなる。

 あと半拍遅れたら、術式は崩れていた。


 ――そこで、オリーブのヒールが差し込まれた。


 乾いた喉に、水が落ちるみたいに魔力が通る。

 視界が戻る。

 詠唱の形が、ぎりぎりで繋がる。


「ありがと、オリーブ!」


 ララの顔に、再び戦意が宿る。

 怖さが消えたわけじゃない。

 でも、怖さの上に手順を置ける。


 ルンナは冷徹だった。

 自らに《アクアガード》を施し、水の防御膜が全身を包む。

 炎を受けても一歩も引かず、氷のような瞳で敵を睨み返す。


 だが、その足元で蒸気が爆ぜる。

 熱と冷却の差で、床が滑る。

 バランスを一瞬崩しただけで、三つ首の反撃が来た。


 ケルベロスの三連撃――顎、爪、尾。


 轟音が重なり、ちゃたろ〜の盾に叩き込まれる。

 バリアが砕け、プロテクトウォールが悲鳴を上げる。

 受けた衝撃が腕から肩へ、肩から背骨へ伝わる。

 膝が沈み、靴底が石を削る。


「耐えろ……っ」


 ちゃたろ〜の足は一歩も退かない。

 押される。沈む。

 それでも踏み直す。

 踏み直すたび、石床が鳴る。

 鳴るのは勝利の音じゃない。

 “倒れないための音”だ。


《ハイヒール》


 白い光が、自分の内側から一気に爆ぜる。

 削れた体力が、痛みごと正しい位置へ引き戻される。

 腕の重さが消える。呼吸が戻る。視界が定まる。


 自分に《ヒール》を使わないのは、意地じゃない。

 《ヒール》は他人にも使える。

 なら、自分は《ハイヒール》で立て直した方がいい。

 そのぶんだけ、仲間へ回せる。


 そのとき広間の空気が、ぐにゃりと歪んだ。


「チャージ、入った……!」


 オリーブの警告。

 ケルベロスの全身が燃え上がり、灼熱の魔力が一点に凝縮されていく。

 赤黒い火球が形をなし、空気そのものを焼いていく。


「ララ、受けろ。《エイシェントグレイス》」


 ちゃたろ〜が即座に加護を授ける。

 ララの体を緑光が包み、光の盾が彼女の身体に溶ける。

 オリーブはちゃたろ〜から借りた火耐性魔核を握りしめ、《バリア》を再展開。

 手が震える。だが離さない。

 ルンナは剣に力を注ぎ、己を水と一体化させる。


 ――来る。


 爆発的な咆哮と共に、炎の嵐が広間を呑み込む。

 轟音、熱風、爆風。

 視界が真っ白に塗りつぶされ、肌が焼け、肺が煮え立つ。

 歯を食いしばっても、奥歯の裏まで熱い。


 それでも。

 それでも――誰一人倒れなかった。


 だが、立っているだけで精一杯だった。

 ララは膝をつきかけ、オリーブは片手を床についている。

 ルンナの肩から湯気が立つ。

 ちゃたろ〜の盾の縁は、赤く灼けていた。


「全員、立てるな!」

「よく耐えた……ここからだ」


 ちゃたろ〜の声が、熱の中で落ちる。


《ヒールウインド》


 緑の光が広がり、全員の呼吸が戻る。

 疲労で重かった手足が、少しだけ軽くなる。

 軽くなるだけで、人は前へ出られる。


 すかさず二発目の《エンドオブフェイス》。

 紅い衝撃波がケルベロスの右首を直撃する。


 骨の軋む音が響き、巨首がぐらりと揺れる。

 噛みつきの軌道が、ほんの一瞬だけズレる。


「いくよ、こっちの番!」


 オリーブが《ディテクトウィークネス》を発動。

 敵の弱点が光点となって浮かび上がる。

 続けて《ディスラプトフィールド》。

 ケルベロスの防御がわずかに崩れ、攻撃が通りやすくなる。


 だが、オリーブ自身の呼吸は浅い。

 維持しながら分析し、さらに場を見る。

 負荷が大きい。額から汗が伝い、眼鏡の縁を濡らす。


「ララ、今ッ!」


 ララは一度だけ目を閉じた。

 吸って、吐く。

 炎に呑まれた夜の呼吸じゃない。――訓練で作った呼吸だ。


「任されたぁッ!」


《アイスショット》


 氷矢が敵の肩を貫く。

 じゅ、と濡れた音がして、関節の動きが一拍遅れる。

 熱が、冷えに噛まれる。


「雷、落とすよ……!」


 ララの両手から雷が奔流となり、数発が連続して降り注ぐ。

 爆裂音と共にケルベロスの体が痙攣し、黒煙が噴き出す。

 痙攣は“止まる”じゃない。

 次の刃が入るための“隙”だ。


 ルンナが一気に踏み込み、水属性の斬撃を放つ。

 波紋のように広がる斬撃が左首を切り裂き、血飛沫と水滴が混じり合って舞った。


 ケルベロスは怒号の咆哮をあげ、魔力を再び高める。

 だが、三つの首の連携がわずかに乱れている。

 同時に来るはずの圧が、半拍ズレる。


「また来る!」

「任せろ――ッ!」


 ちゃたろ〜が《セイクリッドキュア》で咆哮を無力化。


 次に、ちゃたろ〜は左手で短く、自分のメイスの先を示した。

 続けて、二本指で自分のこめかみを軽く叩く。

 最後に、開いた掌をオリーブへ向けて、鋭く下へ切る。


 ――通す。頭。今だ。


 一瞬だけ、オリーブの目が見開かれる。

 意味はすぐに伝わった。


「……分かりました!」


 震える声のまま、オリーブが術式を重ねる。


《スタンレジストブレイク》


 薄い紫の膜みたいにまとわりついていた耐性が、目に見えないひびを入れられたみたいに揺らぐ。

 完全に消えたわけじゃない。

 だが、“今なら通る”ところまで落ちた。


 その代償で、オリーブの脚がよろめく。

 支えようとしたララも、息が上ずる。

 全員が削られている。

 削られていない者は、誰もいない。


 ちゃたろ〜は、迷わず距離を詰める。

 狙いは中央。

 中心を落とせば、残りが崩れる。


「どーん」


 メイスが、正確に中央の頭を打ち抜いた。


 鈍い衝撃音。

 スタンが決まる。

 その瞬間――残り二首の動きが“遅れる”。


 本来なら同時に来る顎と爪が、半拍ズレる。

 ズレた瞬間だけ、番犬は“ただの獣”になる。


「今だ、たたみかける!」


 全員が一斉に突撃した。


《プロテクトウォール》と《バリア》が再展開され、敵の反撃を防ぎ切る――はずだった。

 だが、完全には防げない。

 熱と衝撃が内側まで通る。

 それでも止まらない。

 止まったら、次の一撃で全部戻される。


 三発目の《エンドオブフェイス》。


 紅の閃光が中央頭部を粉砕する。

 砕けたのは頭だけじゃない。

 三つを束ねていた“中心”が消える。


 残り二首は咆哮を上げようとして――噛み合わない。

 息が合わない。

 圧が、落ちる。


「決めるッ!」


 ララが詠唱に入る。

 雷と水が融合した魔法陣が天に広がり、広間全体が光に包まれる。

 熱が光へ押し流され、視界が“前”へ戻る。


《ラスト・エターナル》――


 全魔力を注ぎ込んだ一撃が、地獄の大気を貫いた。


「ぐおおおおおおおおおおおっ!!」


 三つの首が同時に崩れ落ちる。

 倒れた喉が、最後まで熱を吐こうとしていた。

 だが吐けない。

 熱だけが、広間に残っていく。


 地鳴りのような沈黙。


 誰も言葉を発せず、ただ立ち尽くした。

 勝ったのかどうか、身体の方がまだ信じていない。

 鼓動だけが遅れて追いついてくる。


 残響が消えた後、広間は嘘みたいに静かだった。


「……倒した?」


 ララの声は震えていたが、確かに届いた。


 ちゃたろ〜が一歩前に出て、盾を地に突き立てる。

 その音が、勝利の証みたいに響いた。


 オリーブは膝をつき、顔を覆ってから、眼鏡を押し上げる。

 もう、曇ってはいない。

 息が乱れても、視界が逃げない。


「終わった……俺たち、本当に……」


 ルンナが剣を収める動作は、静かな誇りに満ちていた。

 崩れない背中。

 崩れないのは、最後まで踏みとどまったからだ。


 ララはちゃたろ〜の背を叩く。

 強く叩く元気はもうなくて、手のひらが軽く当たるだけだった。


「ねえ、パイセン――カッコつけすぎ。……でも、マジで、ありがとう」


 ちゃたろ〜は振り返らず、小さく頷いた。


 四人はその場に立ち尽くす。

 地獄の正体を、そしてそれを越えた自分たちを、確かに目で見たのだ。


 やがて、誰からともなく地上への道を歩き出す。

 “地獄の門”を背にして。


 戦いは終わった。

 それでも広間には、焼けた空気と、倒れなかった者たちの静かな誇りだけが残っていた。

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