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第87話《終焉の三つ首》

 ――あの訓練の日々は、決して無駄ではなかった。


 地下十八階での連携訓練。

 滝に打たれながらの修練。

 夜更けの戦術会議。

 それぞれの弱さに触れ、仲間の動きに耳を澄まし、何度も崩れ、何度も立て直した。


 敗北の痛みを、ただの痛みで終わらせないために。

 積み重ねたものを、今度こそ実戦の中で証明するために。


 四人は準備を整えた。

 装備を磨き、魔核を調整し、オリーブの記録ノートには戦術のページが隙間なく埋まっている。

 ララは炎と雷の詠唱を何度も反復し、ルンナは水の流れを指先で確かめるように剣を研いだ。

 ちゃたろ〜は盾を抱え、言葉少なく全員の姿を見渡していた。


 そして――ついに、その時が来た。


 彼らは再び、あの“門”を越える。

 迷宮都市の最下層、地下十九階。

 灼熱と硫黄の風が吹き荒れる“地獄門”の先へ。


     ◇


 門前に立った瞬間、誰もが一度だけ呼吸を止めた。


 目の前の石扉は、ただ大きいのではなかった。

 近づくほど、重い。

 重いというより――向こう側にあるものの“拒絶”が、扉そのものに染み込んでいる。


 石肌に浮いた赤黒い古代文字が、脈を打つように淡く揺れていた。

 見ているだけで、喉の奥がひりつく。

 熱のせいじゃない。

 これは“ここから先は戻れないかもしれない”と、体が先に理解している時の感覚だった。


 ララが息を呑む。

 その横で、ルンナは剣の柄を握り直した。

 握り直す音さえ、小さい。

 オリーブはノートを胸へ抱え込み、眼鏡の位置を一度だけ直す。

 指先は震えていたが、もう逃げる震えではなかった。


 ちゃたろ〜が扉へ手を当てる。


 ざらり、とした手触り。

 石は冷たい。なのに、その奥に熱がある。

 冷たさの向こうに、生きた火が息を潜めている。


「……開けるぞ」


 低い声。

 短い言葉。

 それだけで、全員の背筋が揃った。


 ぎ……ぎぎ……と、扉が軋む。

 わずかな隙間が生まれた瞬間、向こう側から熱が噴き出した。


 硫黄。

 焦げた鉄。

 乾いた血。

 それらが混ざった空気が、一気に鼻と喉を焼く。


 オリーブの瞳が揺れる。

 ララの肩がびくりと跳ねる。

 ルンナだけが、黙って一歩前へ出た。


 扉が、さらに開く。


 その先に広がっていたのは、まさしく地獄だった。


 灼熱と硫黄の風が、剥き出しの皮膚を焼く。

 目に見えない熱波が頬を撫でるたび、そこだけが薄く切られたみたいに痛い。

 足元の岩盤は赤黒く裂け、裂け目の奥で地熱が脈打っている。

 歩を進めるだけで、靴底から体温を吸い上げられていくようだった。


 そして、音が死んでいた。


 無音ではない。

 呼吸もある。衣擦れもある。熱の唸りも、確かにある。

 なのに、それらが全部、空間の途中で沈んでいく。


 耳に届かないのではない。

 届く前に、圧に呑まれる。


 だから、余計に分かる。

 この場所は、生きたまま踏み込むことを歓迎していない。


 誰も口を開かなかった。

 沈黙が耳を圧迫し、思考さえ鈍くなる。


 ルンナは唇を噛みしめ、視線を足元へ一度だけ落とす。

 ララは拳を握り、肩で呼吸を整える。

 オリーブはノートの端を強く押さえ込み、震える指先を無理やり止めていた。


 それでも、ちゃたろ〜だけは迷いなく進む。


「……《エレメントガード》」


 静かな詠唱。

 淡い光がその身体を包み込む。

 空気がぴんと張り詰め、盾の縁に光の膜が重なっていく。


 間を置かず、オリーブが続く。


「《バリア》、展開……《リジェネ》、起動」


 青白い光が仲間たちを薄く覆う。

 前の戦いでは震えていた声が、今はきちんと術式の形を保っている。

 眼鏡も曇らない。

 集中と覚悟が、彼女の顔をまっすぐ前へ向けていた。


 そのとき。


 灼熱の闇の向こうで、何かが動いた。


 先に来たのは姿ではない。

 圧だった。


 そこに“いる”と分かった瞬間、広間そのものがひとつ深く沈む。

 視界の奥で、ゆっくりと三つの光が灯る。

 赤黒く、濁って、けれど異様に澄んだ瞳。


 ケルベロス。


 三つ首の巨獣が、炎を宿した眼を爛々と光らせ、重々しい歩みで姿を現す。

 吠えない。

 威嚇もしない。


 ただ、こちらを見ている。


 獲物としてではない。

 試すように。

 裁くように。

 誰から崩れるのかを、静かに見定めるように。


 広間の空気は、剣の切っ先を喉元へ突きつけられたみたいに張り詰めていた。


「行くぞ」


 ちゃたろ〜の低い声が、合図になる。


 オリーブが喉の奥の震えを押さえ込みながら言う。


「……想定は、全部あります。順番を守れれば……勝てます!」


 震える声だった。

 けれど、最後まで言い切った。

 それが今のオリーブの強さだった。


 ララが大きく息を吸う。

 ルンナが無言で剣を握り直す。


 そして、黒き大地が、かすかに揺れた。


 ケルベロスが三つの首をもたげる。

 次の瞬間――地獄の門番、その咆哮が闇を切り裂いた。

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