1周年イベント、ボイチェンのおっさんを探していたら美少女がいた(1)名札の絆創膏
一睡もできなかった。
七月二十五日、土曜日の昼。秋葉原のイベント会場の、受付の前。ここで待ち合わせる、と先週決めた。決めたのは僕で、相手は番号も教えてくれなかったから、目印は名札しかない。
三十分、立っていた。さっきからあくびが止まない。
VRサーガの一周年イベント。ゲームの中の連中が、一日だけ、ゲームの外に集まる。受付でもらった名札を、紐で首から下げる。「みな」「ねこのて」。ゲームの中なら頭の上に出ている名前を、ここでは胸にぶら下げて歩く。
ボイチェンで女の声を作っている男。二十代か三十代。眼鏡か、髭か、その両方。そういう男が「ねこのて」の名札を下げて、受付の前に来るはず。いや、そうだったらいいなと思い、辺りを眺めていた。
受付の前を、そういう男が何人も通った。通るたびに胸の名札に目をやった。全員、別のギルドだった。一人、名札を下げていない眼鏡の男がいて、声をかける寸前で、やめた。汗が背中を伝った。七月の昼で、会場の外は暑かった。
隣に女の子が立っていた。
気づいたのは十分くらい前だ。誰かを待っている顔で壁に寄りかかって、たまにこっちを向く。名札は見なかった。女の子の胸を覗き込む勇気は、僕にはない。
「みなくん」
知らない声だった。
知らない声だったから、返事をしなかった。みな、という名前の人間は、ここに何人いてもおかしくない。
「みなくん。名札、裏」
胸に目を落とした。名札が裏返っていた。白い紙の裏側が、三十分、外を向いていた。
「……裏だった」
言ってから、誰に言ったのかに気づいた。
隣の女の子が、こっちを向いていた。目が合った。
幼いが整った顔立ち。線が細い体。パッチリとした瞳。周りが思わず振り向くぐらいの美少女がそこに立っていた。
名札が見えた。「ねこのて」。名前の欄には、肌色の絆創膏が一枚、斜めに貼ってある。
「リアルでは、はじめまして、だね」
声は知らない。言い方は知っていた。語尾の少し伸びる癖、言い終わってから一拍おいて笑う間。八ヶ月間、毎晩聞いてきたやつのままだった。音だけがまるで違った。
「……あっ、はい。はじめまして、みな、と申します」
それしか出なかった。
背は僕より低い。黒い髪は肩の下まで。それ以上は見ていられなかった。目が名札の絆創膏に戻る。戻れる場所が、そこしかなかった。
「ほら、言ったでしょ。わたし、リアルだとけっこう美少女だって」
わたし、と言った。ボク、ではなかった。それ以外は、何も変わっていなかった。
「……ごめんなさい、ちょっと待って……ください。今、処理してます」
「ん。処理、どうぞ。……わたしもね、けっこう緊張してて、あんまり寝てないの。本当に会うと思ってなかったから」
一睡もできていないのは、こっちだ。おっさんであることを、一週間も願ってきた。願ったものは来なかった。
言いたかった。どうしても言いたかった。
「ほらやっぱりな。こんなにかわいい女の子が、リアルで女をやってるわけが、絶対に……」
言いたくても言えなかった言葉が、寝不足の頭からこぼれ落ちてきた。
「絶対に、なに?」
絶対にない! お前は男に決まっている! そう言いたくても、目の前にいるのは誰が見ても女だった。
「んふふー。言えないんだ」
んふふー、まで知らない声で、それでも、んふふー、だった。
「……名札、裏なのに、なんで僕だって分かったんですか」
「三十分、おじさんの胸ばっかり見てる男の子がいたから。……みなくん、名札なくても見つかるよ」
八ヶ月間みてる、と先週言われたのは、こういう意味らしかった。
「ええっと、その……ほんとに、女の人、だったんですね」
「んー? なんで敬語なの? 今まで通りでいいってば」
今まではおっさんやガキだという設定で良かった。おっさんやガキに向かって使っていた口調を、目の前の女の子に向けようとしたら、出てこなかった。
「声は」
「ん」
「……声、その」
「この話は、あとで。ちゃんとする。……先に、中、入ろ」
入り口で、ユイナが僕の名札に手を伸ばした。裏返っていたのを、表に返した。
「みなくんは、表でいいでしょ。隠すの、わたしだけで」
それにしても、少し高くて透き通った綺麗な声だ。ボイチェン、なんでやってるんだ? 一番いいところだけ、どうして変えた? きんたまもペンギンもそのままでいいから、そっちを戻せよな。
「ん? みなくん、どうしたの? はやく行かないと邪魔になるよ」
会場は、ホール一つだった。奥にステージとでかいスクリーン、手前に物販の列。人がいっぱいいて、全員が名札を下げて、全員が、アバターとは違う顔をしていた。誰も、誰のことも、頭の上の名前では探せない。だから、みんな、胸の名札を覗き込んで歩いていた。
「それ、なんでなんですか」
「ん?」
「絆創膏。名前のところです」
「恥ずかしいの、この名前。リアルで、名札にして下げるのは」
みなのて。ねこのてから二文字変えた、みなのて。ギルドのランキングは47位まで上がり、知名度もそこそこついて、ゲーム内では公認カップルの名前として通っている。リアルで、名札にして胸にぶら下げて歩く名前ではない。言われてみれば、そうだった。
「あと、あんまりみられたくないし」
SNSでは、二番目に有名な幻術師、と書かれている。一番目はアステル。二番目がみなのて。名前を隠しても、ギルド名は隠していない。
「ギルド名、出てますよ」
「ん。それはいいの。ねこのては、みなくんの名前だから」
どういう理屈なのかは分からなかった。
「隠すなら、もっと良い方法があると思うのですが」
「なかったの。カバンに、これしか入ってなくて」
そう言って、絆創膏の端を指で押さえ直した。すれ違った男の人の目が、その絆創膏を一度なぞって、僕の名札に移って、離れた。名札を覗き込むのは、ここでは全員がしていることだ。
「てか、なんでさっきからわたしに敬語なの? なんか、いつも他の人にやってる、オドオドしている雰囲気」
そうだよ。目の前にいるのが、ユイナではなく、ただの美少女にしか見えてないよ。これ、慣れるのか?
「みな」
後ろから呼ばれた。今度は男の声だった。
振り返ると、僕より年上の、普通の男の人が立っていた。名札に「たけのこ」「ティータイム」。
たけのこだ。うちの最古参で、蜂狩りの途中で抜けていった、たけのこ。そのとき移ったギルドからも、もう一度移っていた。ティータイム。みんなが蜘蛛の茶会と呼んでいる、あのギルドの正式な名前だ。
「……たけのこ」
「さっき名札が見えた。お前、顔はぜんぜん想像と違うな」
「そっちもだ」
剣士のアバターは、背の高い、無口な男だった。目の前にいるのは、普通の、少し疲れた顔の人だった。VRの中で肩を叩いていた手が、リアルでも肩に乗った。乗ったら重かった。
しばらく、どうでもいい話をした。会場が暑いこと。物販の列が長いこと。その間、たけのこは一度も「ねこのて」の名前を口にしなかった。
それから、僕の隣に目を移した。絆創膏の名札で少し止まった。
「で、そっちが」
「ペンギンです」
ユイナが先に言った。丁寧語だった。知らない相手のときの、いつもの口調だ。同じギルドにいた相手にも、その口調で言った。
「……ペンギン」
「はい」
「お前、女だったのかよ。しかも、めちゃくちゃかわ――」
「今日、知った」
僕が言った。たけのこが、僕とユイナを見比べて、それから、少しだけ笑った。笑ってから、肩の手に力が入った。
「あの大木討伐に参加したメンバーから聞かされたよ。……あのとき抜けて、ごめんな」
「いいよ。行けって言ったのは、僕だ」
「言われて、行った。行って、後悔した。……蜂をやらされてた二人が、大木を落としたって聞いたとき、俺、何やってたんだろうって思った」
ユイナは何も言わなかった。よそ行きの顔のまま、黙っていた。
たけのこは、一度、息を吐いた。吐いてから、いつもの調子に戻った。
「なあ、お前らは結婚しろ」
ユイナの顔が赤くなった。
赤くなるのを初めて見た。VRでは、顔は赤くならない。声が止まるか、平らになるか、それだけだった。いまのこいつには、赤くなる顔があった。
「ええっ? 惚れてるのはペンギンのほうなの? 意外すぎる組み合わせだな。お前ら」
「や、やめて……ください……」
取り乱すユイナの顔を、たけのこはまじまじと覗き込む。
「VRサーガには結婚というシステムはない。でも、結婚式を挙げれば、周りはお前たちをペアと認める。ギルドは片方だけ連れ出せなくなる」
「そうなのか?」
「VRサーガは、そうなってしまった。ほら、のらねこラウンジにいたあの女、イチゴだっけか? あいつは結婚してしまったから、誰も単独では誘えない。腕が良くて有名な剣士なんだぞ」
知らなかった。あのラウンジにいる他の客を、僕は何も知らない。デスペナルティが強烈なVRサーガでは、ギルドは人数より質を求める。引き抜きも多いし、それで引き裂かれてしまったカップルもいる。結婚の意味合いもそれだけ大きい、ということか。
「なあ、お前ら結婚してうちに来いよ。そうすれば、どちらかを脱退させるのはナシだ。お前らは必ずペアでいられる。それなら文句はないだろ」
「……うち、って」
「蜘蛛の茶会だ」
僕らがギルド合同クエストに誘われている、あの有名ギルド。現在7位。
「マスターから、伝言がある」
たけのこは少し姿勢を正した。誰かの言葉を、そのまま運ぶ姿勢だった。
「ウチは十八人しか取らない。トップを目指しているから、精鋭のみを集めているのです。……あなたたち二人の席なら、作ります」
マスターのSPIDER325は、ガチ勢として有名だ。毎日朝から晩までログインしている。学校に通いながらプレイしてきた僕らが、そのレベルに、あと4まで迫っている。
世界7位のギルドが、十八人の枠に二人の席を作る。それだけ幻術師が欲しいのだ。
返事が喉で止まった。
隣で、ユイナが息を吸った。五月のときは、ここで、ユイナに先に言われた。
「……席は、いらないです」
僕が言った。ユイナの息が、吸ったまま止まった。
「うち、二人で足りてるんで。……ありがとうございます、って、マスターに伝えてください」
たけのこは、しばらく僕を眺めていた。眺めてから、肩の手を離した。
「……変わったな、みな」
「そうだな」
「エナリから、ゴブリンの話は聞いてる。合同は、また誘うからな」
それだけ言って、たけのこは人の中に戻っていった。
ユイナが、僕のほうを向いていた。赤い顔のまま。
「みなくん、いま、自分で言った」
「……言いました」
「五月は、わたしが言ったのに」
「お前……、ユイナさんが言いました」
「ん。あと、敬語やめて」
お前、が出かけた。ユイナも気づいていた。何も言わなかった。顔の赤みが少しだけ引いた。
ステージの照明が変わって、会場の全員がスクリーンを向いた。アステルの一時間チャレンジ。幻術師の配信者が、個人向けのゴブリン殲滅を一時間で終わらせる企画だ。本人は会場にいない、と司会が言った。スクリーンの中で、女の子のアバターが毒針を刺して、貼って、走る。ゴブリンソルジャーが後ろをふらふらついてくる。ピンクの付箋だ。
「……刺し方、雑」
小さい声でユイナが言った。
「刺し方なら、どっちも変わらない」
「わたしは、みなくんが止めてるから、雑でいいの」
五十二分で終わった。会場が沸いた。うちの記録は三十九分五十秒。四人向けのやつを二人で出した数字で、個人向けとは比べるものじゃない。比べていた。ランキングが嫌いな男が、会場の隅で、頭の中で順位をつけていた。
ユイナは拍手をしなかった。手を名札の絆創膏に当てたまま、スクリーンを眺めていた。
「一番目と、二番目」
「……え?」
「SNSで、幻術師の知名度。一番目があの人で、二番目が、わたしだって」
「そう、ですね」
「ん。二番目でいい。……二番目には、みなくんがついてるから」
絆創膏の下には、そういう名前が隠れていた。
外に出たときは夕方だった。名札は出口で返した。ユイナは、絆創膏を貼ったまま箱に入れた。
「みなくん、無理しなくていいよ。とりあえずお腹すいたから、ご飯食べに行こ」
「……あ、はい」
処理は、まだ終わっていなかった。終わっていないまま、歩き出した。
袖を引かれた。
海灯祭の砂浜で引かれたのと、同じ袖だった。VRでは、引かれても何もなかった。引かれた、と分かるだけだった。
ここでは、袖が本当に引っ張られていた。




