彼女がログインしなくなった
彼女がログインしなくなった。
VRのゲームで出会い、中身は男だと思い込んで、一年近くいじり倒してきたやつだ。
いつもの場所。いつも僕より早くログインしていた彼女が来ない。今日も二時間だけ待って寝た。
翌朝、文化祭の片付けに向かう電車で、なんとなくSNSを開いた。ただの暇つぶしだった。
タイムラインに、変な言葉が見えた。
――幻術師の付箋。
幻術師は、僕がやっている大作VRゲーム『VRサーガ』のジョブの名前だ。誰も選ばない不遇職なんて言われている。うちのギルドにも一人だけいる。そう、僕の彼女だ。
誰かがニュースを引用していたので、タップした。
朝のニュースだった。都内の民家で少女が死亡。日曜の夜。外傷はなく、詳しい死因は調査中。名前も顔も出ていない。
その投稿には、写真が一枚だけ添えられていた。二階の子供部屋。ベッドと机。遺体は運び出され、人は写っていなかった。
その床に付箋が二枚。一枚は丸められて、一枚はしわくちゃになっていた。
青と、赤。
引用した本人が、わざわざ拡大した画像まで貼っていた。付箋の表面に、渦を巻くみたいな変な模様が入っている。そしてこうコメントしていた。
『これ、幻術師の付箋に似てない?』
不遇職と言われている幻術師を選ぶ人間なんて、ほとんどいない。だから、この模様を知っている人間もほとんどいない。だが、僕はその付箋のことをよく知っている。
似ている。
確かに似ていた。あいつがゲームの中で、モンスターに術をかけるために使っている付箋。公式がグッズ化したのだろうかと、そう思えるぐらいによく似ていた。
そのコメントのリプ欄に、同じ写真の別の場所を拡大したものが貼ってあった。床。付箋のすぐ近くに、VRゴーグルが転がっている。ベルトには、名刺入れくらいの黒い箱が留めてある。
『ゴーグルについてるの、こえますくじゃない?』
こえますく。ボイスチェンジャー。僕に男だと勘違いさせ、広大なVRのワールドを共に旅した相棒の声。そして今は、僕の大好きな恋人の声。
電車が揺れた。
落ち着け。VRゴーグルを持っている女の子なんて、いくらでもいる。同じボイスチェンジャーを使っている人間は、あいつ一人じゃないはずだ。
それに、僕はあいつのことを、何も知らない。
名前は下の名前しか知らない。苗字も、家も、学校も知らない。一年近く、毎晩、どっちかが寝落ちするまで喋っていたのに、知っていることはそれだけだった。
ニュースの女の子と、あいつを繋ぐものは、似た模様の付箋と、同じボイスチェンジャーだ。こんなに少ない手がかりで、都内に何百万人もいる女の子の中から、あいつだと断定するのは無理があるというものだ。
けど、嫌な予感だけは消えなかった。
家に帰って、ゴーグルを被って、ログインした。いつも通りに。
いつもの場所――のらねこラウンジの、カウンターの隅っこ。VRサーガの中にある、BARの形をした店だ。
この時間は、客が四、五人、カウンターでだらだら喋っている。壁のプロジェクターには、今日もいつものつまらない、ソ連のSF映画が映っていた。目をやると、男が一人、霧の出た水辺に立っていた。水の中で、長い藻がゆっくり揺れている。
筋なんて追っていない。追う気もない。僕は、フレンドリストを開いて、閉じて、また開いた。
あいつの名前は、灰色のままだった。
今日も来なかった。
次の日も、その次の日も待った。連休だったから、昼から夜まで、ずっとカウンターにいた。客が入れ替わって、映画が二周して、三周した。あいつの名前の灰色は、灰色のままだった。
ニュースには、少しだけ続報があった。手元のメニューから出した小さなブラウザで、僕は何度も同じ記事を開き直していた。
身元が分かったらしい。都内の中学に通う三年生。名前は未成年だから伏せられていた。
中学三年生。
日曜日、僕はあいつと文化祭で会っていた。あいつは制服で来た。中学の制服で。僕はそこで初めて、あいつが中学生だと知った。知り合いだらけの学校で、あいつに腕を組まれた。男子校の廊下はざわつき、なんで制服なのかを話題にする余裕すらなかった。
聞いておけばよかったことが、いくつもある。全部あとから思いつく。
連休が明けて、僕は普段通りに学校へ行き、普段通りに学校から帰ると、妹が封筒を突き出してきた。
白い封筒だった。宛名は、カタカナで「モチヅキ ミナト」。差出人はなし。
あいつだ、と思った。VRのゲームで知り合った、僕の名前の漢字を知り得ない相手。カタカナで書かざるを得ない人間を、僕は一人しか知らない。
封を切った。
中から、重たいものが滑り落ちた。
平たいケースだった。蓋に、幻術符、と三文字だけ印字してある。
蓋を開けた。蓋の裏に、小さい字で用法が四行、書いてある。その下に付箋の束があった。
白、黒、赤、青、黄、ピンク、紫、緑。八色がひとまとめに綴じられた、分厚い付箋の束。ところどころが使いかけで、ピンクだけは台紙しか残っていない。
その全部に、あの模様が入っていた。幻術師の付箋。
あの部屋に落ちていたのと同じものが、今、僕の手の中にある。
付箋の束の下に、折り畳まれた便箋が何枚か入っていた。
開いた。
丸くて、少し右に傾いた字。封筒の宛名と同じ字だった。あのVRゲームで、何百回も見てきた癖のある字。あいつのものだ。
一行目にこう書いてある。
『この封筒が届いたということは、私の身に何かが起きています』
僕にはこの言葉の意味が、まったく分からなかった。




