■ 第9話:光の檻と、選別されるエリートたち
窓一つない地下の第4会議室は、紫煙と、地球規模の「強制初期化」が迫っているという究極のコズミック・ホラーによって、息を吸うことすら困難なほどの極限状態に陥っていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、人類のタイムリミットを冷酷に削り取るように鳴り響いている。
宇宙から届く光の波形が100パーセントに達した瞬間、この世界のすべての物質が真っ白な虚無へとデリートされる。
七海悠太は、パイプ椅子から転げ落ちたまま、冷たいコンクリートの床に額を擦り付け、ガタガタと震え続けていた。もはや彼は、蛍光灯のわずかなチラつきにすら、世界が消去される前兆を感じて怯えている。
「……待ってください。皆さん、冷静になって論理の破綻に気づくべきだ」
氷室司が、長机の上に置かれた冷めきったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、一気に飲み干した。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、タブレットの画面を執拗に拭き上げながら、銀縁眼鏡の奥で鋭い光を放つ。
「仮に御子柴さんや轟さんの言う通り、光通信の正体が『世界の強制初期化』だったとしましょう。だとしたら、大国が血眼になって宇宙のコードを傍受し、暗殺まで行って情報を隠蔽している【動機】と完全に矛盾します」
氷室の指先がタブレットを滑り、巨大モニターに新たなデータ群を投射した。
そこには、アメリカのロッキー山脈地下、中国のチベット高原地中深く、そしてロシアのウラル山脈に極秘裏に建設されている、巨大な地下施設の衛星写真と予算規模が映し出されていた。
「もし世界中のすべての物質がデリートされてしまうのなら、特権階級の支配者たち自身も消滅してしまうはずだ。しかし彼らは今、国家予算の半分を注ぎ込んで、信じられない規模の『地下シェルター』を建造しています」
氷室はレーザーポインターで、地下数十階層にも及ぶ巨大施設の断面図を指し示した。
「自分の命が初期化されると分かっているなら、こんな無駄な箱モノ行政に予算を突っ込むはずがない。……これは単に、核戦争や巨大隕石の衝突に備えた、物理的な【VIP専用の退避壕】に過ぎません。彼らは現実の、極めて物理的な脅威に備えているだけであり、宇宙からの『光による概念消去』など信じていない証拠です!」
データと経済的合理性に基づく、氷室の鋭いカウンター。
支配者たちが「逃げ場」を作っている以上、世界そのものが概念ごと消滅するという仮説は成り立たない。
しかし、その言葉を聞いた轟大吾の顔色は、全く晴れなかった。
轟は、分厚い両手で自分の顔を覆い、深く、重い溜息を吐き出した。
タクティカルジャケットの背中が、呼吸のたびにギュッと軋む音を立てる。
「……氷室。お前は『建物の形』しか見ていない。軍事工学の観点から言わせてもらえば、奴らが作っているのは、核シェルターなんかじゃない」
「核シェルターではない……? どういうことです、轟さん」
氷室が怪訝な表情を浮かべる。
「放射能や爆風を防ぐだけなら、分厚い鉛とコンクリートがあればいい。だが、俺が軍の資材調達ルートからハッキングした、あの地下施設の【外壁の設計図】を見てみろ」
轟は、自らの暗号化端末を操作し、巨大モニターに複雑な素材の構造図を割り込ませた。
そこには、「超伝導ファラデーケージ」「光子吸収メタマテリアル」「絶対遮光性ナノコーティング」といった、異常な単語が並んでいた。
「これを見てみろ。奴らが地下施設の壁に何重にも張り巡らせているのは、放射線を防ぐ素材じゃない。あらゆる波長の電磁波と、光の粒子の侵入を100パーセント完全に遮断するための、【究極の光学シールド】なんだよ!!」
「……っ!! 光を、完全に遮断する空間……!」
氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。
「ああ!!」
轟が、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。
「奴らは核兵器から逃げようとしているんじゃない!! 宇宙から降り注ぐ、世界を初期化するための『光のアップデートパッチ』が、自分たちの肉体や空間に絶対にダウンロードされないように……【光を物理的に弾き返す完全密閉の檻】を作っているんだよ!!」
「ええ、まさに現代の『方舟』ね」
密室の空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先で弄りながら、モニターに映る地下シェルターの図面をうっとりと見つめた。
「氷室さん。旧約聖書の『ノアの方舟』の物語を知っているかしら? ……神が堕落した世界を洪水でリセットしようとした時、選ばれたノアの一族だけが、木の箱舟に乗って難を逃れたわ」
烏丸は、透き通るような白い指先で、モニターの光学シールドの層をそっとなぞった。
「古代のオカルトや陰陽道では、外界からの干渉を完全に遮断する不可侵の空間を【結界】と呼ぶわ。……大国が莫大な予算を注ぎ込んで作っているのは、退避壕じゃない。宇宙の創造主が放つ『削除コマンド』を無効化するための、科学と物理学の粋を集めた【絶対的な結界】なのよ」
烏丸は妖しく微笑み、その漆黒の瞳で氷室を射抜いた。
「外界のすべてが光の奔流に飲み込まれてデリートされていく中、その光を通さない『結界』の内側にいる者だけが、フォーマットを免れて古いデータのまま生き残ることができる……。彼らは、神の初期化から【エラー(例外処理)】として逃れる気なのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、密室に地鳴りのような笑い声が響き渡った。
御子柴健だ。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で立ち上がった。
「見事だ、轟! 烏丸! これで超大国の特権階級どもが描いた、【人類史上最悪の裏切り】の全貌が完全に暴かれたぜ!!」
御子柴はホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで『世界』という大きな円を描き、その中に小さく『地下結界』という四角を書き込んだ。
そして、円の外側から無数の波線を引いて『強制フォーマット(光)』と書き殴る。
「氷室! お前はさっき、世界が初期化されたら支配者も消滅すると言ったな! 違う!! 奴らは最初から、俺たち一般人を救う気なんて微塵もねえんだよ!!」
「一般人を、救う気がない……!?」
氷室がタブレットを握りしめ、身を乗り出す。
「そうだ!! 奴らは、宇宙からの光の明滅が100パーセントに達する直前に、自分たち特権階級と、優秀な科学者や軍人だけを引き連れて、あの【結界】の中に閉じこもる!!」
御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードをドスンドスンと激しく叩きつける。
ダンッ、ダンッ、という乾いた音が、地下室の空気を震わせる。
「そして、結界の外側……つまり地上に残された99パーセントの俺たち人類は!! 何も知らないまま夜空を見上げ、光のアップデートパッチを食らって、世界ごと真っ白に【消去】される!! 奴らは、俺たちがバグとして処理されるのを、分厚い壁の向こう側でワイングラスを傾けながら見物するんだよ!!!」
「……っ!! 自分たちだけが、アップデートから逃れる……!!」
轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。
「そうだ!! だが、それだけじゃねえ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「世界の初期化が終わった後、どうなる!? 地上は、既存の国家も、貧困も、邪魔な下層民もすべて綺麗にフォーマットされた【真っ白なキャンバス】に戻るんだ!!」
御子柴は、悪魔のような笑みを浮かべて咆哮した。
「そこへ!! 古い世界の知識とテクノロジーを保持したまま、結界の中で生き残った特権階級どもが這い出してくる!! 奴らは、邪魔者がいなくなった新しい地球を独占し、自らが神となって【次の世界を思い通りにデザイン(創造)】する気なんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の髪を強く掻きむしりながら、絶叫した。
「俺たち……! ミサイルの盾にされるどころか……偉い奴らが新しい世界で『神様ごっこ』をするための、ただの【不要なゴミデータ】として、ゴミ箱に捨てられるのを待ってるだけだって言うのかよ!!」
七海の脳裏に、真っ白に初期化された美しい地球の上で、生き残った一部のエリートたちだけが笑顔で新たな文明を築き上げる悍ましいヴィジョンがフラッシュバックする。
その世界には、七海のような一般市民の存在した痕跡すら、一文字も残されていない。
「ふざけんな……! 俺たちの人生も、家族も、友達も! 全部、あいつらが新しい地球を独り占めするための【大掃除】の一環として、綺麗サッパリ消されちまうって言うのかよおおおっ!!」
宇宙の創造主が放つ光の処刑。
そして、それに便乗して人類の99パーセントを切り捨てる、支配者たちの冷酷な選別。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。
無機質な空調のモーター音が、まるで選ばれなかった者たちを無慈悲にデリートしていく、冷酷なシステムの駆動音のように、低く、重苦しく鳴り響いていた。




