■ 第7話:大国が争う「創造主の座」
地下の第4会議室は、紫煙と、自分たちの肉体すらも宇宙のコードを受信する生きた端末に過ぎないという究極の絶望によって、まるで重力が倍増したかのような息苦しさに沈んでいた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、逃げ場のない檻の中で不吉な羽音を立て続けている。
星空の美しさすら、創造主が仕掛けた「ダウンロードを促すためのウイルス」だったという事実。
七海悠太は、パイプ椅子の上で両膝を抱え、自分の眼球を両手で覆い隠すようにして、ガタガタと小刻みに震え続けていた。もはや彼は、蛍光灯の光すら恐ろしいものとして認識し始めている。
「……落ち着いてください。全員、冷静に物理的な制約を思い出すんだ」
氷室司が、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの残りを紙コップで飲み干し、乾いた唇を舌で舐めた。
彼は銀縁眼鏡の奥の瞳に、データ至上主義者としての意地と冷徹な光を強引に取り戻し、手元のタブレットを起動する。
「御子柴さん、轟さん。大国が光通信を『宇宙のソースコード』として傍受し、兵器化しようとしているという仮説。……その野心自体は軍事的にあり得るでしょう。ですが、彼らの計画は絶対に【成功しない】。データがそれを証明しています」
氷室の指先がタブレットを滑り、巨大モニターにスーパーコンピュータの演算能力を示すグラフと、複雑な素粒子の数式が投射された。
「仮に光の中にソースコードが含まれていたとしても、それをコンパイル(翻訳)し、現実世界の物質に干渉させるためには、天文学的な計算能力が必要です。現在、人類が持つ最高峰の量子コンピュータをすべて繋ぎ合わせても、たった一つの『石ころ』の原子配列を再定義するプログラムを解読するのに、数百年はかかる。……ましてや、都市や国家規模の物質を書き換えるなんて、人類の演算能力では絶対に不可能です!」
氷室は、勝ち誇ったようにタブレットの画面を指先で叩いた。
「彼らがどれだけ光を傍受しようと、それは【開かない巨大な金庫】を拾ったのと同じことだ。超大国は、解読不可能なゴミデータに莫大な予算を注ぎ込んでいるに過ぎないんですよ」
唯物論と情報工学の絶対的な壁。
神の言語を人間が翻訳することなど、マシンスペックの限界が許さない。
しかし。
その氷室の論理を真っ向から粉砕するように、轟大吾が地を這うような低い声で唸った。
「……氷室。お前はプログラミングの『構築』しか見ていない。軍事兵器の歴史において、人間が最も得意とするのは何だと思う?」
「人間が得意とするもの……?」
氷室が、怪訝な顔で眉をひそめる。
「【破壊】だよ」
轟は分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、氷室を鋭く睨みつけた。
「軍のハッカー部隊が、敵の強固なシステムを無力化する時、何千行もの美しいコードをイチから読み解く必要はない。たった数行の『致命的なバグ』を見つけるか、あるいはシステムを強制終了させる【Delete(削除)】のコマンドだけを総当たり(ブルートフォース)で割り出せばいいんだ」
「削除の……コマンド……!」
氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。
「そうだ。超大国の軍事研究所は、宇宙のソースコードの『すべて』を翻訳しようとなんてしていない。奴らが莫大な予算とスーパーコンピュータを注ぎ込んで、血眼になって探し出そうとしているのは、たった一つの文字列……【対象を消去する実行コマンド】だけなんだよ!!」
轟が、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。
「石ころを創り出すのは神の領域かもしれない。だが、すでに在る石ころを『消す』だけのコードなら、現代の量子コンピュータの総当たり攻撃で、いつ解読されてもおかしくないんだ!!」
「……ええ、歴史がそれを証明しているわね」
密室の空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先で弄りながら、モニターに映る素粒子の数式をうっとりと見つめた。
「氷室さん。旧約聖書に登場する『バベルの塔』の話を知っているかしら? ……人間たちが天まで届く塔を建て、神と同じ領域に立とうとした時、神はどうした?」
「……人々の『言語』をバラバラにし、互いに通じ合えなくして、塔の建設を崩壊させました」
氷室が震える声で答える。
「そう。神の怒りはいつだって『言語の破壊』として現れるのよ。……でも今、超大国がやっていることはその逆。人間が、神の【破壊の言語】を盗み出し、自分たちがいちばんの神様になろうとしているの」
烏丸は、透き通るような白い指先で、自分の唇をそっと押さえた。
「ヒンドゥー教の破壊神シヴァが、第三の眼を開いて世界を灰燼に帰すように。……大国は、宇宙の光の中から『世界を消去する一言』だけを抽出しようとしている。それは、人類が絶対に触れてはならない【概念の火】なのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、密室に地鳴りのような笑い声が響き渡った。
御子柴健だ。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で立ち上がった。
「見事だ、轟! 烏丸! これで超大国どもが、核兵器すら窓から投げ捨てて、狂ったように光通信を傍受している【本当の理由】が完全に暴かれたぜ!!」
御子柴はホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで『アメリカ』『中国』『ロシア』と書き、それぞれから中央の『創造主の座(ルート権限)』に向けて巨大な矢印を引き殴った。
「氷室! お前はさっき、開かない金庫だと言ったな! 違う!! 奴らは金庫を開けようとしているんじゃない! 金庫ごと爆破する【自爆スイッチ】の起爆コードだけを解析しているんだよ!!」
「自爆スイッチ……!!」
氷室がタブレットを握りしめ、身を乗り出す。
「そうだ!!」
御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードをドスンドスンと激しく叩きつける。
ダンッ、ダンッ、という乾いた音が、地下室の空気を震わせる。
「もし、どこかの大国が、宇宙のコードの中から【Delete(削除)】のコマンドを解読し、自国のシステムに組み込むことに成功したらどうなる!? ……敵国にミサイルを撃ち込む必要なんてなくなるんだよ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「キーボードで【敵国の座標】を指定し、実行キーを叩き込む!! それだけで、宇宙のサーバーが直接その座標の物理法則に介入し、敵国の領土、都市、人間、そのすべての素粒子を【バグ】として処理し、この三次元空間から完全に『消去』しちまうんだ!!!」
「……っ!! 物理的な破壊じゃない……存在そのものの【概念消去】……!」
轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。
「核兵器なら、放射能という痕跡が残る! 報復の連鎖が起きる! だが、宇宙のソースコードを使った【概念兵器】ならどうだ!? 敵国は『最初から存在しなかったこと』になり、俺たちの記憶からも完全に抹消される!! 誰がやったかの証拠すら、この宇宙のどこにも残らねえんだよ!!!」
「そうだ!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて咆哮する。
「だからこそ、どこの国も必死なんだ! 他国に先に【削除キー】を解読された瞬間、自分たちの国は抵抗する間もなく、歴史ごと『なかったこと』にされるからな!! 奴らは今、地球というサーバーの【創造主の座】を巡って、互いに相手の存在を消去するための、究極のチキンレースを繰り広げているんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の髪を強く掻きむしりながら、床の上でのたうち回った。
「俺たち……! もしかして、もうすでに世界の色んなものが【消去】されてるんじゃないのか……!?」
七海の脳裏に、恐るべき疑念がフラッシュバックする。
もし昨日、どこかの大国が実験で「ある国」を消去していたとしたら?
自分たちはその国の存在自体を忘れ去り、今日のこの世界が「最初から完璧な形だった」と思い込まされているだけなのではないか。
「俺の記憶も! この世界の歴史も! どっかの国の偉い奴らがパソコンでカタカタ叩いて書き換えた【パッチワークの現実】に過ぎないって言うのかよおおおっ!!」
核兵器すら児戯に等しい、究極の概念兵器。
神の言葉を奪い合った者だけが、次の世界を支配する。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。
無機質な空調のモーター音が、まるで世界のどこかで今この瞬間にも、誰かの存在が静かに「削除」されていることを告げるかのように、低く、重苦しく回り続けていた。




