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■ 第5話:世界同時多発的な「観測所の沈黙」

 窓一つない地下の第4会議室は、御子柴が吐き出す紫煙と、自らの肉体すら書き換えられるかもしれないというコズミック・ホラーの重圧によって、まるで深海の底のような息苦しさに包まれていた。

 無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、何かを警告するような不吉なリズムを刻んでいる。

 宇宙から降り注ぐ光通信が、物質の構造を再定義する【天地創造のソースコード】であるという悪夢。

 七海悠太は、自分の両腕をさすりながら、自分の体がまだ人間のままであることを何度も確認し、ガタガタと震え続けていた。

「……御子柴さん。あなたの仮説は、SF映画としては秀逸です。しかし、現実の社会システムを完全に無視している」

 氷室司が、冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを長机に置き、銀縁眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げた。

 彼は手元のタブレットを操作し、巨大モニターに新たなデータ群を投射する。

 そこには、世界中の大学や民間研究機関が運営する、無数の天文台のネットワーク図が映し出されていた。

「天文学という学問は、極めて【オープンソース(開かれた共有)】な世界です。世界中の民間ネットワークや、アマチュアの天文家たちが、毎晩のように自前の望遠鏡で夜空を観測し、少しでも異常な光や信号を見つければ、即座に論文サイトやSNSでデータを共有し合う。……夜空は、誰の頭上にも平等に開かれているんですよ」

 氷室の細い指がタブレットの画面をスワイプし、天文学のフォーラムや論文データベースの検索結果を示す。

「もし宇宙から、世界を書き換えるほどの大容量のレーザー光が絶え間なく降り注いでいるのなら、大国の軍事施設だけでなく、民間の天文台も必ずその異常な『光のノイズ』を捉えているはずです。しかし、そんな論文も、ネット上のパニックも一切存在しない。……この静けさこそが、あなたの陰謀論が虚構であるという最大の証明です」

 データと集合知に基づく、氷室の鋭いカウンター。

 隠し通せるわけがない。空は大きすぎ、人間の目は多すぎるのだから。

 しかし、その言葉を聞いた轟大吾の顔色は、決して明るくならなかった。

 轟は、分厚い両手で自分の顔を覆い、深く、重い溜息を吐き出した。

 タクティカルジャケットの背中が、呼吸のたびにギュッと軋む音を立てる。

「……氷室。お前は『ネット上にあるデータ』しか見ていない。軍事や諜報の観点から言わせてもらえば、お前の言う【静けさ】こそが、最も恐ろしい異常事態なんだよ」

「静けさが、異常……? どういうことです、轟さん」

 氷室が怪訝な表情を浮かべる。

「情報統制の基本だ。都合の悪いデータが出た時、国はどうすると思う? データを改ざんするんじゃない。……データを出す【目と口】そのものを、物理的に塞ぐんだ」

 轟は、自らの暗号化端末を操作し、インターポールの未解決事件データベースや、公安の極秘ファイルを巨大モニターに割り込ませた。

 そこには、世界地図の上に無数の「赤いバツ印」が点滅していた。

「これを見てみろ。ここ半年間の間に、チリのアタカマ砂漠、ハワイのマウナケア、さらには欧州の民間光学観測所など、世界トップクラスの解像度を誇る天文台が、なんと47箇所も【同時多発的に閉鎖】されている」

「よ、47箇所も!? なぜですか!?」

 氷室が、信じられないものを見るように画面を凝視した。

「表向きの理由は様々だ。『原因不明のサイバー攻撃』『深刻な予算カット』『山火事による設備延焼』……。だが、それだけじゃない」

 轟が、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。

「深宇宙の光学異常を専門にしていた世界的な天文学者たちが、この数ヶ月で次々と姿を消している! バルコニーからの不自然な転落死、突発的な心不全、あるいは国家反逆罪での不当逮捕! ……氷室! ネット上にデータがないのは、誰も気づいていないからじゃない! 気づいた奴らが全員、国家の諜報機関によって【物理的に抹殺パージ】されているからだ!!」

「……っ!! 科学者に対する、世界規模の暗殺作戦……!」

 氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。

「ええ、歴史は繰り返すのね」

 密室の空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先で弄りながら、モニターの赤いバツ印の群れをうっとりと見つめた。

「中世のヨーロッパ。カトリック教会は、民衆が聖書を自分たちの国の言葉に翻訳することを固く禁じたわ。……なぜか分かる? 『神の言葉ロゴス』は、特権階級である聖職者だけが独占し、解釈しなければならなかったからよ」

 烏丸は、透き通るような白い指先で、自分の唇をそっと押さえた。

「神の言葉を勝手に盗み聞きし、民衆に広めようとした者は、『異端者』として火あぶりにされた。……轟さんが見つけたこの【観測所の沈黙】は、現代の異端審問よ。大国という名の新しい教会が、宇宙からの『光あれ』という神聖なコードを、一般の科学者たちが盗み見ることを絶対に許さないという、血塗られた意思表示なのよ」

「ククク……ハハハハハ!!!」

 突如、密室に地鳴りのような笑い声が響き渡った。

 御子柴健だ。

 彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。

 深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で立ち上がった。

「見事だ、轟! 烏丸! これで奴らが敷いた【最悪の情報統制】の全貌が完全に暴かれたぜ!!」

 御子柴はホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで『宇宙のソースコード』と書き、その下に『一般市民』と書き殴った。

 そして、その間に分厚い壁のような直線を何本も引き、赤のマーカーで『暗殺・閉鎖』という文字を叩きつけた。

「氷室! お前は空が開かれていると言ったな! 違う!! 奴らは今、地球上のすべての人間から【夜空を見上げる権利】を力ずくで奪い取ろうとしているんだよ!!」

「夜空を見上げる権利を、奪う……!?」

 氷室がタブレットを握りしめ、身を乗り出す。

「そうだ!!」

 御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードを激しく叩く。

 ダンッ、ダンッ、という音が、地下室の空気を震わせる。

「なぜ奴らが、ここまで露骨で強引な暗殺作戦を急ピッチで進めているのか分かるか!? 答えは一つだ! 宇宙から送られてきている【アップデートパッチ(光)】の信号強度が、日を追うごとに強烈になっているからだ!!」

 御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。

「このままダウンロードが進めば、いずれ安物の天体望遠鏡でも、空の異常な明滅に気づいちまう! だから奴らは、世界のシステムが書き換わるその瞬間まで、一般市民の目を物理的に塞いでおくための【絶対的なファイアウォール】を、科学者たちの死体を使って築き上げているんだよ!!!」

「……っ!! デジタルな防壁じゃない……人間の死体でできた、物理的な検閲網……!」

 轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。

「そうだ!! 奴らは、自分たちだけが『次の世界の管理者(ルート権限)』を握るために、世界中の人間を真っ暗な檻に閉じ込めているんだ!!」

 御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて咆哮する。

「『星が綺麗だ』なんて暢気に空を見上げている素人どもは放っておけ! だが、あの光の【本当の正体コード】に気づきかけた知恵のある奴は、問答無用で頭を撃ち抜いて黙らせる! これが、超大国が裏で手を結んで実行している、人類史上最悪の【情報の日食ブラックアウト】なんだよ!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、パイプ椅子から床へと転げ落ちた。

「俺……! 昔、星を見るのが好きで、いつか本格的な天体望遠鏡を買おうって思ってたのに……!!」

 七海の脳裏に、自分がベランダに望遠鏡を立て、無邪気に夜空の星にピントを合わせた瞬間、背後の暗闇から特殊部隊の銃口が突きつけられる悍ましいヴィジョンがフラッシュバックする。

「夜空を見上げることすら、死刑になる犯罪だって言うのかよ……! 俺たちは、世界がバラバラに書き換えられるその日まで、何も知らされないまま、目隠しされて殺されるのを待つだけの【家畜】なのかよ……!!」

 星々の瞬きは、ロマンではなく国家の最高機密。

 それに気づいた者から順に、社会から静かに消去されていく恐怖。

「俺たちの空は……! もうとっくに、見上げることすら許されない【処刑場】に変わってたって言うのかよおおおっ!!」

 圧倒的な力による、現実の隠蔽。

 真実に手を伸ばした者たちを待ち受ける、冷酷な物理的パージ。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。

 無機質な空調のモーター音が、まるで真実を語る口を永遠に塞ぐために回り続ける巨大な換気扇のように、低く、重苦しく回り続けていた。

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