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■ 第4話:物質を形作る「プログラミング言語」

 地下の第4会議室は、御子柴が吐き出す紫煙と、世界そのものが「上書き保存」されようとしているというコズミック・ホラーの重圧によって、じっとりと冷たい空気に包まれていた。

 無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、破滅へのカウントダウンを刻むように鳴り続けている。

 宇宙から降り注ぐ光通信が、この現実リアルの物理法則を書き換えるための【特大のアップデートパッチ】であるという仮説。

 七海悠太は、自分の身体を両腕で強く抱きしめ、自分の肉体がいつバグを起こして消滅するのかと、ガタガタと震え続けていた。

「……御子柴さん、烏丸さん。あなた方の言う『世界がプログラムである』というシミュレーション仮説は、哲学としては面白い。ですが」

 氷室司が、冷めきったブラックコーヒーの紙コップをテーブルに置き、銀縁眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げた。

 彼は手元のタブレットを操作し、巨大モニターに新たなデータ群を投射する。

 そこには、複雑な化学式と、原子核の構造を示す三次元モデルが回転していた。

「私たちは現実の物理世界に生きています。物質は原子で構成され、原子は陽子と中性子、そして電子でできている。これらを結びつけているのは『強い力』や『電磁気力』といった絶対的な【宇宙の四つの力】です」

 氷室の細い指がタブレットのキーボードをリズミカルに叩き、レーザーポインターで原子の結合モデルを指し示す。

「光(電磁波)を照射したところで、原子の結合を自由に組み替えることなど物理学的に不可能です。例えば、鉛にレーザーを当てて黄金に変えるような錬金術は、莫大なエネルギーを用いた核反応でも起こさない限り絶対に成立しない。……ましてや、光通信の『データ』を受信しただけで、物質の構造がプログラムのように書き換わるなど、熱力学の法則を完全に無視した妄言です!」

 データと物理学に基づく、氷室の鋭いカウンター。

 物質は確固たる実体であり、パソコンの中のテキストデータのように、キーボード一つで書き換えられるものではない。

 しかし、その言葉を聞いた轟大吾の顔色は、決して明るくならなかった。

 轟は、分厚い両手で自分の顔を覆い、深く、重い溜息を吐き出した。

 タクティカルジャケットの背中が、呼吸のたびにギュッと軋む音を立てる。

「……氷室。お前は『現在の民間技術』の枠内でしか物理学を見ていない。軍事や兵器開発の観点から言わせてもらえば、お前の前提はすでに時代遅れだ」

「時代遅れ? 物理法則がですか、轟さん」

 氷室が怪訝な表情を浮かべる。

「ああ。物理法則そのものを【ハッキング】する技術は、すでに軍の極秘研究所で実用化の一歩手前まで来ている」

 轟は、自らの端末を操作し、アメリカの国防高等研究計画局(DARPA)の極秘ファイルの一部を巨大モニターに割り込ませた。

 そこには『プログラマブル・マター(プログラム可能な物質)』という見出しと、微小な機械群が形を変える映像が映し出されていた。

「これを見てみろ。ナノサイズの極小ロボットスマートダストにプログラムを送信し、瞬時に結合させて銃器や防弾装甲を『物質化』させる技術だ。……氷室、もしこのナノロボットが、人工物ではなく【素粒子そのもの】だとしたらどうなる?」

「素粒子……そのものが、ロボット……?」

 氷室が、怪訝な顔で眉をひそめる。

「ええ、その通りよ」

 密室の空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先で弄りながら、モニターの前に歩み出る。

「氷室さん。最先端の量子力学では、素粒子は『硬い粒』ではなく、ただの【固有の振動ヒモ】に過ぎないと考えられているわ。……すべての物質は、特定の周波数で振動しているエネルギーの波に過ぎないのよ」

 烏丸は、透き通るような白い指先で、長机の上に置かれたガラスのコップをそっと弾いた。

 チィン、と澄んだ音が地下室に響く。

「音叉を鳴らせば、同じ周波数の音叉が共鳴して震え出す。それと同じよ。……もし、宇宙を構成するすべての素粒子の『振動数』を書き換えるための【完璧な周波数のレーザー】が存在したとしたら?」

「振動数を……光で、書き換える……!」

 轟の巨体が、ビクンと震えた。

「そう。古代の錬金術師たちが追い求めた『賢者の石』。言霊ロゴスによって万物を創造する奇跡。……それはオカルトじゃないわ。素粒子の周波数に直接干渉し、物質の構造を【再定義リファクタリング】するための、究極の量子光学テクノロジーだったのよ」

「ククク……ハハハハハ!!!」

 突如、御子柴健が天を仰ぎ、狂気と歓喜が入り混じった高笑いを爆発させた。

 彼は咥えていた煙草の灰を床に落としながら、ホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで『光通信のパケット』という言葉を大きく書き殴った。

「繋がったぜ!! 氷室、轟、烏丸! 宇宙から届いている超大容量の光データ、その【正体】が完全に見えたぜ!!」

「正体……!?」

 氷室がタブレットを握りしめ、身を乗り出す。

「そうだ!!」

 御子柴は黒のマーカーで、『光通信のパケット』という文字から矢印を引き、その先に『オブジェクト指向プログラミング』と書いた。

 そして、その横に『酸素』『鉄』『人体』といった単語を書き、すべてを【クラス(設計図)】という枠で囲んだ。

「氷室! お前はさっき、光通信のデータが暗号化されていて解読できないと言ったな! 当たり前だ! それは俺たちが使っているような0と1のバイナリコード(二進数)じゃねえ!! 多次元的な量子状態を記述した【宇宙のプログラミング言語】だからだ!!」

「宇宙の……プログラミング言語……!」

 氷室の眼鏡の奥の瞳が、限界まで見開かれた。

「そうだ!! 創造主が送ってきているのは、画像を映すデータじゃない! 素粒子の振る舞い、結合のルール、物理法則の定数を指定するための【ソースコードそのもの】なんだよ!!」

 御子柴が、ホワイトボードをドスンドスンと激しく叩く。

「大国どもが空を歪めてまで受信し、スーパーコンピュータで必死にコンパイル(翻訳)しようとしているのはこのコードだ!! もしこの言語の文法を完全に解読し、地球上の素粒子に向けて【実行エンターキー】を押すことができたら、どうなると思う!?」

 御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。

「『指定座標の酸素分子を、すべてヒ素に書き換えろ』! 『敵国の首都のコンクリートを、すべて砂に変換しろ』!! ……そんな神の如きコマンドが、現実の物理世界でそのまま【実行】されちまうんだよ!!!」

「……っ!! 物理法則そのものを改変する……【概念兵器】……!」

 轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。

「核兵器なんか目じゃねえ! ボタン一つで、相手の国の物質構成を直接書き換えて消滅させることができる! まさに『天地創造』の力を、人間の手で軍事利用するってことか!!」

「そうだ!! だからアメリカも中国もロシアも、狂ったように光を奪い合っているんだ!!」

 御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて咆哮する。

「他国よりも先にこの【宇宙のソースコード】を解読し、自分の国のシステムにインストールした奴が! この地球上のすべての物質を意のままに操る、文字通りの『全能の神』になれるからな!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の髪を強く掻きむしりながら、絶叫した。

「俺……! 俺たちの身体も、ただのタンパク質と水……つまり『原子の組み合わせ』でできてるんだろ……!?」

 七海の脳裏に、自分がキーボードのバックスペースキー一つで、足元からドロドロの液体に変換され、あるいは空気と同化して消え去っていく悍ましいヴィジョンがフラッシュバックする。

「もし大国がそのコードを解読して、『七海悠太の体を、スライムに書き換えろ』ってプログラムを実行したら……俺は一瞬で、人間じゃなくなっちまうって言うのかよ……!!」

 誰も血を流さない。ミサイルも飛んでこない。

 ただ、目に見えない不可視のコードが送信された瞬間、自分の存在という「データ」が、容赦なく上書き保存されて消去される。

「俺たちの命は……! 俺たちが生きてるこの現実は、偉い奴らがパソコンでカタカタ叩いて書き換えるための【テキストファイル】に過ぎなかったって言うのかよ!!」

 現実世界の完全なるハッキング。

 神の特権を奪い取ろうとする大国たちの、血を吐くような水面下の暗闘。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。

 無機質な空調のモーター音が、まるで世界を上書きするためのプログラムが不気味に実行され続ける、巨大なサーバーの冷却ファンのように、低く、重苦しく回り続けていた。

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