■ 第3話:神話の暗号と、「光あれ」の真実
窓一つない地下の第4会議室は、紫煙と、世界そのものが巨大な受信装置に改造されているという絶望的な真実によって、肺が押し潰されるような極限の重圧に支配されていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、逃げ場のない密室の空気をかき回し続けている。
自分たちが毎日見上げている青空すら、超大国が宇宙からの光を受信するために作り出した「歪められたレンズ」に過ぎないという事実。
七海悠太は、床に這いつくばったまま、焦点の合わない目で冷たいコンクリートの床を見つめていた。
「……落ち着いてください。全員、冷静になるんだ」
氷室司が、割れんばかりの力で握りしめていたタブレットを長机の上に置き、冷え切った声で沈黙を破った。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げる。それは、彼が自らの内なる動揺を、絶対的なデータ至上主義の力で押さえ込もうとする時の癖だった。
「轟さんの言う通り、超大国が大気を操作し、光通信の傍受網を敷いていることはデータとして認めましょう。しかし、だからといってそれが【天地創造のソースコード】であるという御子柴さんや烏丸さんの主張は、あまりにも非科学的だ。飛躍にも程がある」
氷室は眼鏡をかけ直し、曇りのない鋭い瞳でリーダーを睨みつけた。
「彼らが傍受しているのは、もっと現実的で、物理的な軍事データのはずです。例えば、他国の秘密裏に打ち上げられたステルス衛星からの暗号通信や、次世代レーザー兵器の設計図。……宇宙から『世界を創るプログラム』が降ってくるなど、カルト宗教の教義と何ら変わりありません!」
唯物論とオッカムの剃刀。
最もシンプルな現実的解釈こそが真実であるという、氷室の強靭な論理の盾。
しかし。
紫煙のベールを透かして、烏丸玲奈の鈴を転がすような、ひんやりとした笑い声が響いた。
「ふふっ……。氷室さん、あなたは『科学』という新しい宗教に囚われすぎているわ」
「何ですって?」
氷室が不快そうに眉をひそめる。
烏丸は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がった。彼女はペットボトルの水をグラスに注ぐと、透き通るような指先でその縁をなぞり、妖しい視線を会議室の全員へと向けた。
「氷室さん。最先端の量子力学や宇宙物理学が行き着いた、一つの究極的な仮説をご存知かしら? ……【ホログラフィック宇宙論】よ」
「ホログラフィック……我々のこの三次元宇宙は、二次元の境界面に記録された『情報』のホログラム投影に過ぎない、という理論ですか。あくまで仮説に過ぎません」
氷室が即座に反論する。
「ええ。でも、もしこの世界が本当に『情報』でできているとしたら? 物質も、時間も、空間も、すべてがプログラムされた【コードの集積】だとしたら?」
烏丸は、グラスの水を一口含み、うっとりとした表情で巨大モニターに映るレーザー光の軌跡を見つめた。
「歴史を遥か古代まで巻き戻してみて。人類がまだ科学を持たなかった時代、すべての文明の神話には、この世界の『始まり』について、ある【共通の暗号】が残されているわ。とりわけ有名なのは、旧約聖書の創世記ね」
「創世記……神が世界を創った、七日間の記録ですか」
七海が、床に座り込んだまま、怯えた声で呟く。
「そう。第一日目、神は混沌とした闇の中で、一番最初に何を生み出したかしら?」
烏丸の問いに、氷室が怪訝な顔で答えた。
「……『神は言われた、光あれ。すると光があった』。有名な一節です。それが何か?」
「なぜ、【物質あれ】じゃないの?」
烏丸の静かな、しかし鋭利な問いかけが、密室の空気をピタリと凍りつかせた。
「え……?」
七海が間の抜けた声を漏らす。
「大地でもなく、海でもなく、肉体でもなく。神は世界を構築する一番最初のプロセスとして、なぜ【光】を指定したのかしら?」
烏丸は、透き通るような白い指先を天に向け、まるで目に見えない何かを受信するかのように目を閉じた。
「古代の預言者たちは、神の声を聞いたんじゃない。彼らの松果体は、宇宙の彼方から降り注いだ【世界をレンダリングするための大容量光学データ】を、スピリチュアルなヴィジョンとして直感的に受信していたのよ!」
「……っ!!」
氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。
「彼らが見た『神の御業』。それは、無の空間に【光】という名の絶対的なプログラミング言語が照射され、素粒子が配置され、物理法則がコンパイルされていく、システムの起動プロセス(ブート・シークエンス)そのものだったの。……だから彼らは、それを『光あれ』という神話の言葉で後世に書き残した」
烏丸は目を開き、その漆黒の瞳で氷室を射抜いた。
「この宇宙における【光】とは、ただの電磁波じゃない。創造主がこの三次元ホログラムを書き換えるための、唯一の【絶対的な通信プロトコル】なのよ」
「軍事的な観点から見ても、烏丸の言う通りだ」
轟大吾が、分厚い両腕を組みながら、地を這うような低い声で唸った。
彼の巨体を包む黒のタクティカルジャケットが、呼吸のたびにギュッと軋む音を立てる。
「氷室。軍の最高機密を扱う地下の基幹ネットワークで、なぜ電波(Wi-Fi)を使わず、すべて【有線の光ファイバー】で物理的に繋ぐか分かるか?」
「それは……電波では傍受される危険があり、EMP(電磁パルス)攻撃でシステムが破壊されるからです。光通信ならば、外部からの干渉を受けず、最も安全かつ高速にデータを伝送できる」
「その通りだ!!」
轟が、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。
「電波は減衰し、ノイズにまみれ、何より『改ざん』の隙がある! だが【光】は違う! 真空の宇宙空間において、光の直進性と情報密度は絶対だ!! もし創造主が、この宇宙という巨大なシステムに【絶対にエラーを起こしてはならない中核データ】を送信するとしたら、選ぶ手段は一つしかない!!」
「【深宇宙からの、レーザー光通信】……!!」
氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、密室に地鳴りのような笑い声が響き渡った。
御子柴健だ。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で立ち上がった。
「見事だ、烏丸! 轟! 科学と神話、そして軍事の絶対原則が、今ここで完全に一つに結びついたぜ!!」
御子柴はホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで『光あれ(Genesis)』と書き、イコールで結んで『System.Boot()』というプログラム言語を書き殴った。
ダンッ!!と叩きつける乾いた音が、地下室の空気を震わせる。
「氷室! お前はさっき、光通信が大容量すぎると言ったな! 当たり前だ!! 138億年前のビッグバン、つまり『最初の光あれ』は、この広大な宇宙空間すべてを描画するための、超天文学的な【OSの初期インストール】だったんだからな!!」
「初期……インストール……」
七海が、ごくりと生唾を飲み込む。
「そうだ!! だが問題はここからだ!!」
御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードを激しく叩く。
「138億年前にインストールは完了し、俺たち人類はそのシステムの上で生きてきた。だが今! 2029年現在! 超大国どもは、宇宙の深淵から放たれた【新たな光通信】を、空を歪めてまで必死に傍受している!! これが意味することはただ一つだ!!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「創造主が! この地球というサーバーに向けて! 物理法則や生命の構造を根底から書き換えるための【特大のアップデートパッチ】を送信してきやがったんだよ!!!」
「アップデート……パッチ……!?」
氷室が弾かれたように身を乗り出す。
「そうだ!! 奴らが受信しているのは、兵器の設計図なんかじゃねえ! この現実そのものを書き換えるための【管理者権限】だ!!」
御子柴は、悪魔のような笑みを浮かべて咆哮した。
「アメリカも、中国も、ロシアも! その光の中にある『新しいソースコード』を他国より一秒でも早く解読し! 自国の都合の良いように世界を再構築する【次の神】の座を巡って、血みどろのハッキング戦争を繰り広げているんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。
「俺たちの命は……! 俺たちが生きているこの現実ってやつは、ただの古いバージョンのソフトウェアで……!」
七海の脳裏に、夜空の星々が、世界を消去して上書きするための「プログレスバー」の光の明滅に見えてくる。
もし大国がそのコードを解読し、世界を再起動させたら、自分のような名もなき一般人は、バグとしてあっさりと削除されてしまうのではないか。
「今降ってきている光は、『光あれ』の第二弾……! 俺たちの世界が、デリートされて上書きされるための【処刑の光】だって言うのかよおおおっ!!」
神話の奇跡は、無機質なシステムの起動音だった。
そして今、終わりの始まりを告げるシグナルが、人類の頭上に降り注いでいる。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
自分という存在の根底が、一行のコードとして書き換えられていく恐怖。
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。
無機質な空調のモーター音が、まるで世界を上書き保存するために回転し始めた巨大なハードディスクの駆動音のように、低く、冷酷に回り続けていた。




