第11話 震える手
書斎の蝋燭が、もう短くなっていた。
昨夜の論文発見のあと、朝になって父と短い打ち合わせをして、昼は法曹仲間への事前通知で終わって、午後はまた書斎に戻った。最終弁論の構成を、頭の中で組み直し続けた。どの頁を最初に開き、どの問いを最初に置くか。誰に向けて、どの順番で、何を差し出すか。一日が、そういう組み立ての作業だけで終わった。
気づいたら、窓の外はもう暗くなっていた。
今夜が、前夜だった。
◇
机の上に、資料を並べ直している。
鑑定審問用の帳簿控え、偽帳簿の写し、アーベル・ドラモン卿の論文集、その十四頁に挟んだ細い栞。昨夜、ヴェルナー様の手が重ねられた同じ頁に、今は別の色の栞が一本だけ挟まっている。明日の朝、この栞のところを開いて、卿ご本人の前で一行を読み上げる。
全て、揃っていた。
揃えたはずなのに。
ペンを取った。検算の跡が一つ、ずれている気がした。書き直そうとして。
インクが滲んだ。
◇
ああ。
手が震えている。
だめだ。だめだだめだ。震えたらだめ。震えてるのに。どうしてこんなに。
(落ち着きなさい、落ち着きなさい、リゼット)
自分に言い聞かせた。帳簿の数字が合わない時と同じだ。まず深呼吸をして、ペンを置いて、一行目から確認する。そうやって八年間、乗り越えてきた。
ペンを置いた。
深呼吸をした。
震えは、止まらない。
握ったり開いたりしてみる。指先が冷えている。北方の冬を越えてきた手が、王都の四月の夜にこんなに冷えるのはおかしい。おかしいとわかっているのに、温まらない。こめかみの内側のどこか、耳の後ろのあたり、鎖骨の下のくぼみ、体のあちこちが別々の温度で、どこを押さえたら落ち着くのかもわからない。
明日の朝。
最終弁論の朝が来る。アーベル卿の十年前の論文の一行を、私は卿ご自身の前で読み上げる。四十年の権威を、その方の若き日の筆が裁く。計算では勝てる。論理では崩せる。頭ではわかっている。
わかっているのに、手が。
明日。明日この手が、ペンを握れなかったら。論文集の頁を、震える指で開けなかったら。開けなかったら、私は、あの論文の一行を読み上げられない。読み上げられなかったら、私は、私は。
私は、何。
(……情けない)
帳簿を閉じた時に似ている、と思おうとした。全ての数字が合って、検算も終わって、あとは頁を閉じるだけの、あの静かな瞬間。似ているはずだ。似ていてほしい。
似ていなかった。
◇
書斎の扉が、音もなく開いた。
「入ってもいいか」
顔を上げた。
ヴェルナー様が立っておられた。今夜はもう上着を脱いでおられる。白いシャツの袖を、肘のあたりまで折り返しておられる。襟元のボタンを外す余裕があった夜らしい。手には、北方から持ってきたあの経理の基礎書。頁の端が、前よりもう少し擦れている。
「……ヴェルナー様」
ヴェルナー様は何も言わずに、机の隣の椅子を引いて腰を下ろされた。向かい合わせではなく、隣。昨夜と同じ、肘が触れそうで触れない距離。
私の手元の、滲んだインクに目を落とされた。
「……」
何か言われるのかと思った。言われなかった。
代わりに、基礎書を机の上に置かれた。そっと、数字の列を崩さないように。あの、帳簿を戻す時の手つきで。
「昼間、ここまで読んだ」
指が、栞を挟んだ頁を開かれた。
のぞき込んで、息を呑んだ。
欄外に、下手な字で検算の跡があった。ヴェルナー様の字だ。剣を握るための硬い指が、慣れないペンで、一つ一つの数字を確かめようとした跡。答えの一つが、間違っている。
間違っているのに。
帳簿に向き合おうとした手の跡が、そこにあった。
今朝方までは、書斎の端で『検算のおぼえがき』の束を開いて、自分の間違いを見つけようとしておられたのだ。見つけて、見つからない部分はそのままにして、それでも書き続けておられた。
(……なんで、この人は)
喉の奥が、きゅうと絞まった。泣くのとは違う。泣くのとは違うのだけれど、何か、舌の付け根のあたりが重い。
「リゼット」
名を呼ばれた。
短く。
「震えていい」
隣の人が、言われた。
「俺が隣にいる」
◇
ゆっくりと、大きな手が伸びてきた。
机の上で震えていた私の手の甲に、そっと重なった。
温かい。
(……あったかい)
北方の冬を越えてきた、剣を握ってきた手が、なぜこんなに温かいのかわからない。わからないまま、私は無意識にその温度を計ろうとしていた。帳簿の癖で。インクの乾き具合を測る時と同じ指先の感覚で、この方の体温を、少しだけ計測して。
(……私、今、この方の手を、計算しようとした)
気づいて。
私は、少し笑ってしまった。
笑ったのに、舌の付け根はまだ重い。笑いながら、目の縁が熱い。帳簿を前にして泣いたことは八年間で一度もなかった。これは帳簿ではないのだから、泣いてもいいのだろうか。まだ、わからない。
「……震えていいのですか」
「ああ」
「明日、ペンを握れなかったら」
「握れるまで、待たせる。あの弁論の時間は、あなたのために止めさせる」
止めさせる、と、この方は言われた。
辺境伯の権限で、国の裁判所の時刻を止めさせる、と。冗談には聞こえなかった。冗談を言われる方ではない。この方が言われるなら、本当に止めるのだろう。
笑ってしまった、二度目。
「……変わった方ですね」
「前に言われた」
「その時も、同じ冗談を」
「冗談は言わない」
知っている。
知っていて、聞いてしまうのは、この方の「冗談は言わない」という言葉を、もう一度聞きたかったからだ。どうしても。今夜だけは。
手の甲の上の温度が、少しずつ、私の指先にも移ってきた。冷えていた指が、一本ずつ、人の温度を取り戻していく。帳簿を閉じる時の感覚には、やはり似ていない。これは、別の何かだ。名前を知らない、別の温度だ。
重ねられた手の下で、震えが、いつの間にか止まっていた。
◇
蝋燭の芯が、ぱちりと小さく爆ぜた。
書斎の窓の外で、王都の夜が少しずつ色を変えていく。夜明け前の、一番暗い時間。
「……少し、眠れそうです」
「寝台まで送る」
「いえ、ここで」
首を振った。机の上に並んだ資料を、見渡した。帳簿控え、偽帳簿の写し、論文集、栞。全て整っている。明日の朝、この机からまっすぐ仲裁裁判所へ向かう。それでいい。
「ここで、少し」
ヴェルナー様が頷かれた。立ち上がって、ご自身が着ていた上着を脱いで、私の肩にかけてくださった。外套ではなく、内側の上着。体温が、まだ、かすかに残っている。
「隣の部屋にいる」
「はい」
「何かあれば」
「……お呼びいたします」
扉が、音もなく閉まった。
上着の袖の下で、私の手はもう震えていない。
机の上の論文集を、もう一度開いた。十四頁の栞を指先で撫でる。明日の朝、この頁を公の場で読み上げる。震えない指で、まっすぐに。
帳簿の数字は、嘘をつかない。
私の手も、もう、嘘をつかない。
窓の外で、夜明けが始まっていた。




