第10話 十四頁
アーベル・ドラモン卿の論文集は、机の右側に積んだ。
仲裁裁判所から戻った夕方、父が写本局にもう一度使いを出してくれて、これまで読んでいなかった古い巻を追加で取り寄せてくれた。若い頃の試論、中堅期の応用論文、壮年期の理論書。これで、現存が確認されている卿の論文の、ほとんど全てが手元に揃ったことになる。
机の左側には、これまで私が読んで印をつけた巻を積んだ。
右側は、まだ読んでいない巻。
左から右へ、目で量って、右のほうが少し高い。
時間は、夜の早いうちだった。父が夕食の皿を書斎に運んできてくれて、私とヴェルナー様のぶんを机の端に置いてくださった。夕食の皿を、私は半分だけ食べた。半分以上食べると、頭のほうに血が回らなくなる。経理仕事を長くしているうちに身についた、あまり良くない癖だった。
父は何も言わずに皿を下げて、また書斎を出ていかれた。
◇
最初に開いたのは、中堅期の論文の一冊だった。
十年前の春。
論文の題名は『鑑定魔法における思考連続性の不可侵領域について』。表紙の布張りの端が少し擦れていて、背表紙の字は色が抜けている。写本局の司書の方が、これは卿のご著作の中ではあまり読まれない巻だ、と言っていた。理論的な仮説の提示にとどまった短めの論文で、その後の応用例が少なかったため、引用回数が少ない。弟子筋の方々は基礎理論書のほうを読んでおられて、この仮説論文は、授業で触れられることも稀らしい。
触れられることの少ない論文の中に、私は答えがあると思っていた。
思っていた、というのは、第五日目の夜に覚えた予感だった。十二年前の論文で「感情は複製できない」と書いた卿が、その二年後に、何かの形で「複製の限界」について別の議論を立てておられるのではないか。感情が複製できないならば、別の何が複製できないのか。その「別の何か」が、私たちの戦いの鍵になる予感が、あの夜からずっと、頭の隅で明滅していた。
頁をめくった。
冒頭部分は、形式的な導入だった。鑑定魔法の基礎的な前提の整理。既往研究の要約。問題設定。卿の文章は、いつものように丁寧な筆致だった。いつもの丁寧さの中に、若い頃の慎重さが残っている運びだった。
この論文を書いていた時期の卿の指の速さを、私は想像した。書いている卿の頭の中の時間と、読んでいる私の頭の中の時間が、少しずつ重なっていく。帳簿を読む時も、時々、こういう感覚になる。
私は印をつけた。青色のインクで、頁の余白に小さな点を。
◇
扉が、真夜中過ぎに、音もなく叩かれた。
顔を上げた。
「入ってもいいか」
短い声。
「どうぞ」
ヴェルナー様が入ってこられた。いつもの執務の上着のまま。ただ、手に持っておられるものが、昨日までとは違った。経理の基礎書ではなかった。その基礎書の頁から切り取った紙ではなく、新しい白紙の束を、紐で綴じたもの。
表紙には、下手な字で、短い題名が書いてあった。
『検算のおぼえがき』
ヴェルナー様がそれを、机の空いたところに、そっと置かれた。
「あなたに、読んでもらいたい訳ではない」
短く言われた。
「机の端に置いておくだけだ。俺が、北方から王都に来るまでに書きためたものだ。基礎書の検算を、自分なりに解きながら書き出した。合っていない箇所が多い。俺の癖がどこで間違っているかは、俺自身ではわからない」
私は、束の表紙を、指先で撫でた。
紙の端が、ところどころ軽く波打っている。深夜に書かれた紙の癖だ。手汗がにじんだ場所と、そうでない場所で、紙の張りが違う。ヴェルナー様の指は、剣を握る時より、ペンを握る時のほうが余計な力が入ることを、私はもう知っていた。
「後ほど、読ませていただきます」
私は短く申し上げた。
「今は、先にこちらを片付けさせてください」
ヴェルナー様は頷いて、私の机の隣の椅子に腰を下ろされた。向かい合わせではなく、斜めでもなく、真横。肘が触れそうで触れない、そのぎりぎりの距離で。
そのまま、ご自身の椅子の横から、もう一冊の本を取り出された。
基礎書だった。旅の間ずっとご一緒していた、あの端の擦れた一冊。
「一緒に、読んでいいか」
私は、小さく頷いた。
◇
夜が更けていった。
論文の頁をめくる音と、基礎書の頁をめくる音が、二種類の速さで机の上に混ざっていた。私の頁をめくる手のほうが速い。ヴェルナー様の手のほうが遅い。時折、遅いほうの手が止まって、短い質問が挟まれた。
「これは、『感情残留』と『感情複製』のどちらの話だ」
「残留でございます。書いた者の感情が、書いた時点で紙に染み込む現象のことを、鑑定魔法の基礎理論では『残留』と呼びます。複製は、その残留を、別の紙の上に人工的に再現する試みのほうを指します」
「ふむ」
「残留は、書く人間の側の自然な現象です。複製は、書かない人間の側の人工の技術です。卿は十二年前、後者を『できない』と結論づけておられました」
「それが、今、引っ繰り返されている」
「ええ」
ヴェルナー様は、短く頷いて、また頁に戻られた。
次の質問まで、しばらく間があった。その間、私も論文のかなり先のほうまで読み進めていた。十四頁ぐらいまで来たところで、私の目が、ある段落の先頭でわずかに止まった。
止まった、というのが、自分でも、何に対しての反応か、すぐにはわからなかった。
◇
十四頁の下段だった。
短い段落だった。前後の論旨とは少しだけ離れた、付記のような扱いの段落。卿の他の論文だったら、脚注に下ろしていたかもしれない、短い記述。
内容は、こうだった。
鑑定魔法の複製可能性について議論する際、筆跡の形と感情の残留値は、個別に検討が可能である。しかし、『検算の足跡』、すなわち本文に対する派生的な計算の痕跡は、思考の時間的連続性を反映する情報であり、書き手の頭の中で、本文と検算の間を往復する時間が、紙の上に不可視の順序として刻まれる。この順序は、後から模倣する場合、書き手の思考の時間そのものを再現することを要するため、魔法的複製の理論上の不可侵領域に属する。
私は、読んだ。
読んで、もう一度、読んだ。
三度目は、声に出さずに、唇だけで、形をなぞった。
『魔法的複製の理論上の不可侵領域に属する』。
十年前の、若き日のドラモン卿の手が、書いたのだ。
書いて、それを、国家に登録された論文として、現存させているのだ。
◇
私は、頁の上に、指を一つ置いた。
置いて、しばらく、動かせなかった。
ヴェルナー様が、私の手の動きが止まったことに気づかれたらしかった。基礎書から視線を上げて、私の指のほうを見られた。
「……見つけたか」
短い声。
「はい」
私の声のほうが、ヴェルナー様の声より少しだけ掠れていた。
「ここに、一行あります」
指で、段落の中ほどの一行を示した。
ヴェルナー様は、指のほうに身を乗り出された。文字を読もうとされて、それから、ご自身がこの文の意味を完全には追えないことに、少し遅れて気づかれたらしかった。読もうとする動きが、途中で止まった。
けれど、止まった目の中に、文字の意味とは別の、もう一つの確信があった。
この一行が、戦いを終わらせる。
それだけは、言葉の意味がわからなくても、わかる種類のことだった。
ヴェルナー様の手が、机の上を、ゆっくりと動いた。
動いて、頁の上の私の指に、ご自身の手の甲を軽く重ねられた。
重ねかた、というよりは、添え方、だった。覆うのではなく、ただ、並べる形。剣を握るための硬い指が、私の指の上で、息を止めた。
「これで、終わらせよう」
短い声だった。
短いのに、その中に、今日までのいろいろなものが全部入っていた。北方の屋敷で茶を運んだ朝、馬車で隣に座った三日目、書斎で基礎書を読んだ夜、廊下で声を荒げた瞬間、そして「隣にいてほしい」と言った夜。全てが、その短い一言の中で、畳まれていた。
「……はい」
私は答えた。
答えた後、指の上の手の甲を、払わなかった。払う理由がなかった。
◇
《ヴェルナー》
リゼットが、指を動かさずに、頁の上を見ていた。
俺は、彼女の指の上に重ねた自分の手を、そのままにしておいた。動かすと、何かが崩れる気がした。崩れるほどのものではないのかもしれないが、俺の中で、崩したくないものが一つ、確かにあった。
机の上に、俺が持ってきた『検算のおぼえがき』の束が置かれていた。
彼女に読んでもらうつもりで作ったものではない。俺自身のための記録だ。剣を握るための指が、ペンを握り始めた夜から、一つずつ書き溜めた紙の束。俺の指の癖が、どこで間違うかの記録。彼女の隣に立つための、俺の側の準備だった。
彼女はきっと、明日か明後日、この束をそっと開いて、俺の間違いを一つずつ見つけてくれる。見つけて、欄外に、あの細い藍色の訂正を入れてくれる。俺はそれを、後で見返して、笑うのではなく、ただ、自分の手の癖を一つ直す。
そのための束だった。
窓の外で、夜明けの色が、そろそろ地平線のあたりに滲み始めていた。
あと半日。
俺は、彼女の指の上の手を、そっと下ろした。下ろしながら、短く付け加えた。
「明日で、終わる」
リゼットは、頁から目を上げて、こちらを見た。見て、短く頷いた。
頷いた後、まぶたの縁が、ほんの少しだけ赤かった。




