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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第9話 読まれなかった手紙

 仲裁裁判所の朝の廊下は、昨日よりも少しだけ人が多かった。


 イリス・モンフォールの証言の日、ということが、裁判所の内部の人間の間で、少しだけ話題になっていたらしい。宮廷魔法師が仲裁裁判所の証人台に立つことは、そう頻繁にあることではない。それも、筆跡偽造事件の告発側の証人として。書記の部屋の前を通り過ぎた時、中の話し声が瞬時に止まった。


 私は、廊下の途中で、鞄の中に手を入れた。


 鞄の内側の、一番下のほうに、封筒が一通、入っている。藍色の布で包んだ帳簿控えとは別の、小さな油紙の袋に入れて、さらに油紙の上から薄い布で巻いたもの。封蝋は、八ヶ月前のままだった。差出人の封蝋。私が開けることのできない、他人宛の手紙。


 今日、この手紙を差し出す相手のほうに、先に届けておく。


 それが、昨夜決めた段取りだった。


   ◇


 証人尋問室の配置は、昨日と同じだった。


 イリス・モンフォールが証人台に立たれた。


 昨日廊下ですれ違った時と同じ、灰色がかった上品な上着。髪は後ろで簡潔にまとめている。宣誓の声に、震えも迷いも乗っていなかった。嘘をつく時に鼓動も筆跡も揺らがないと、父の法曹仲間が言っていた言葉を、私は頭の中で短く思い出した。


 告発側の弁護人の尋問は、昨日より短かった。


「モンフォール殿。貴殿は、宮廷魔法師の立場で、リゼット嬢の過去八年間の慈善事業の企画に、直接的な支援をなさっていたと聞いている」

「はい」

「その支援の過程で、ヴァレンシュ嬢の帳簿形式と、彼女の筆跡に、直接触れる機会があったと」

「ございました。妹のセリーヌが伯爵家と関わりを持っていた時期、私自身も王都の側で、文書の取りまとめに加わっておりました。ヴァレンシュ嬢が作成された報告書の下書きを、整える形で関与いたしました」


 整える、という言葉の選び方が、丁寧すぎた。


 丁寧すぎる嘘は、しばしば、嘘の気配そのものを消し去る。嘘の気配のない嘘は、一番やっかいだ。傍聴席の気配が、ゆっくりと証人台のほうに引き寄せられていくのが、今日も感じられた。


「問題の帳簿の記帳者特定について、貴殿の所見は」

「私が知るヴァレンシュ嬢の筆跡と、今般の帳簿の筆跡は、同一と認められます」


 弁護人の尋問は、そこで終わった。


 裁判官が、私のほうに視線を移した。


「ヴァレンシュ嬢。反対尋問を」


   ◇


 席を立った。


 立ち上がる時、椅子の脚が石の床を擦って、小さな音を立てた。昨日よりも、少しだけ大きな音だった気がする。


 私はイリス殿に向かって、一礼した。


 それから、鞄の中から先ほどの封筒を取り出した。油紙の袋から出して、薄い布を解いて、封筒を手のひらの上に置く。封蝋の色は、八ヶ月前のまま。封は、開けられていない。


「裁判長殿」


 私は裁判官のほうに向き直った。


「反対尋問の前に、一点、お願いがございます。証拠物件として提出する予定の封筒を一通、持ち合わせております。こちらを、反対尋問の冒頭に、証人に対して一度、提示させていただきたく存じます」


 裁判官が、書記に何か短く確認されて、頷かれた。


「許可する。物件の概要を説明せよ」

「バルトゥール領の離縁問題が発覚した直後の時期に、セリーヌ・モンフォール嬢から、実姉であるイリス・モンフォール殿に宛てて書かれた書簡でございます。宛先はイリス殿の王都の居宅。封の状態から見て、宛先に届けられた後、未開封のまま処分された形跡があるものを、別の経路で回収したものでございます」


 裁判官が、書記に何か指示を出された。書記が小さく頷いて、書類に一行を書き加えた。


「認める。証人に提示せよ」


   ◇


 私は、証人台のほうに歩み寄った。


 イリス殿の目の前に、封筒を置いた。


 裁判所の長机の一角。証人台の手すりと私の机の間の、狭い共有の板の上に、封筒を置くのが正しい作法だった。置く瞬間、封筒の角が板に当たって、乾いた小さな音が鳴った。


 イリス殿が、手元の封筒に視線を落とされた。


 視線が、封蝋のところで止まった。


 止まって、呼吸が半拍遅れた。


 嘘をつく時に鼓動も筆跡も揺らがない方の、その半拍。


 目元が、ほんの少しだけ震えた。震えたのを、ご本人が即座に押さえつけられた。押さえつけ方が、あまりに手慣れていたので、一般の傍聴人にはたぶん気づかれなかった。けれど私は帳簿の頁の、インクの濃さが変わる瞬間を、八年間見てきた人間だ。紙の表面の僅かな温度変化を、色で読むのが仕事だった。


 イリス殿の表情の揺らぎを、私は、読んでしまった。


   ◇


 私は、何も言わずに、席に戻った。


 戻って、腰を下ろした。


 裁判官が、少し首を傾げて、私のほうを見られた。


「ヴァレンシュ嬢。質問は」

「ございません」


 私は短く申し上げた。


「本件について、証人へのお尋ねは、ただいま提示いたしました封筒一通のみでございます。封筒の来歴、およびその封の状態について、ご証人が何かお答えになるのであれば、伺います。何もお答えにならない場合、私のほうから重ねて問う予定はございません」


 裁判官が、視線をイリス殿に戻された。


「証人。提示物件について、答弁があれば」


 イリス殿は、すぐにはお答えにならなかった。


 ならない時間が、数を数えるならば、あまり長くはなかったかもしれない。けれど、その部屋にいた全員にとっては、数を数える以上の重さがある時間だった。イリス殿の視線は、封筒から動かなかった。動かせなかった、というほうが正確だと思う。


 動かしたら、先ほどの揺らぎの正体を、自分でもう一度確かめなくてはならなくなる。


 ようやく、イリス殿の口が開いた。


「……この封筒について、記憶がございません」


 声は、先ほどまでの声と、形の上では同じだった。けれど、形の下の何かが、微妙に抜け落ちていた。整った音階の中から、一つだけ鍵盤が外されたような、そういう形の声だった。


「妹が私に宛てて書いた手紙は、あの時期、複数通ございました。私はその全てに目を通したわけではございません。文書の管理は、私の居宅の使用人が行っております。使用人が何をどう扱ったかについて、私は個別に把握しておりません」


 答えが、長かった。


 昨日の第一の答えよりも、ずっと。


 長くなる分だけ、別の話が混じっていた。使用人、文書の管理、個別の把握。聞いていないことまで、答えに乗せておられた。


 それは、嘘の気配のない嘘が、はじめて気配を帯びた瞬間だった。


   ◇


 裁判官が、書類を軽く揃え直された。


「以上を以て、本日の証人尋問を閉会とする。次回期日は、」


 裁判官が、書記に何か確認されて、短く言い直された。


「明後日の朝を予定する。最終弁論日として、告発側および申立て側の双方から、総括陳述を聴取する。告発側、主たる総括陳述者は」


 告発側の弁護人が、席から答えられた。


「王立鑑定魔法師ギルド長、アーベル・ドラモン卿が、自ら最終弁論を行う予定でございます」


 傍聴席の気配が、少しだけ揺れた。


 ギルド長が、ご自身で最終弁論に立たれる。これは、異例のことだった。通常は代理の弁護人が立つ場である。ドラモン卿は、何かを、ご自身の口で、直接裁判所に置こうとしておられる。


「最終弁論の主題は」


 裁判官が問われた。


 弁護人が書類を確認して、淡々と答えられた。


「『鑑定魔法の基礎理論に関する、現行の方法論の再評価について』」


   ◇


 証人尋問室を出た廊下で、イリス殿が、私の前で、立ち止まられた。


 何かを言いかけて、言わずに、目を伏せて、そのまま歩き去っていかれた。


 私はその背中を見送った。見送る間、何の感情も湧かなかった。憎しみも、勝利感も、同情も、何もなかった。ただ、封筒の封蝋の色が、私の指先に、まだ残っているだけだった。


 ヴェルナー様が、いつの間にか、私の横に立っておられた。


「……読まれずに、捨てられたのか」

「はい」

「どうやって、手に入れた」

「伯爵家を出る前の、最後の一週間に。伯爵邸の使用人の一人が、屋敷で廃棄される文書を私のほうへ渡してくれました。その時に、一緒に」


 私は、小さく付け加えた。


「捨てるべきではない手紙が混じっている気がして、保管しておりました。誰に見せる予定もない、ただの古紙のつもりで」


 ヴェルナー様は、何も言わずに、私の肩のあたりに短く視線を置かれた。


 置いて、ゆっくりと、短く息を吐かれた。


「明後日の朝、ドラモン卿が最終弁論に立つ」

「はい」

「論文を使う気だ」

「はい。……私も、同じ予感がしております」


 ヴェルナー様の指が、ご自身の上着の胸元に触れた。論文集の栞を指先で確かめる時の、帳簿師の仕草によく似ていた。


「帰ろう。今夜から、もう一度、論文を読み直す」


 短く頷いた。


 廊下の向こうで、仲裁裁判所の古い時計が、鈍い音で時を告げていた。

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