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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第12話 十年前のあなた

 仲裁裁判所の最終弁論廷は、思っていたより天井が低かった。


 石造りの高い広間を想像していたのは、父に連れられて子供の頃に見学したことのある王宮側の大法廷のほうだ。仲裁裁判所の最終弁論廷は古い木組みの部屋で、梁が頭上に近い。傍聴席の誰かが小さく咳をすると、音が木の天井に吸われて、すぐに消える。


 私は中央の席に座っている。


 机の上には、昨夜の書斎から運んできた資料が並んでいる。帳簿控え、偽帳簿の写し、論文集、そして細い栞。全て、昨夜の配置のまま。ヴェルナー様の上着の温度は、もう肩に残っていない。けれど指先は冷えていない。


 それで、十分だった。


 裁判長が開廷を告げた。低い、よく通る声。昨日までの証人尋問と同じ方だった。一切の私情を顔に出さないと聞いている、年配の文官出身の裁判官。


「鑑定魔法師ギルド長、アーベル・ドラモン卿。最終弁論を」


   ◇


 対面の席から、アーベル・ドラモン卿が立ち上がられた。


 四十年の権威が一つの身体に収まっている。白い髪、深く刻まれた眉間の皺、節の目立つ指。若い頃の肖像画を写本局の司書から見せてもらったことがあるが、あの頃の精悍な顔はもうない。代わりに、これまでの論文の重みが、その背中に乗っている。


 卿が語り始められた。


「本日の弁論で、私は一つの結論を提示する。すなわち、鑑定魔法は、もはや筆跡と感情の照合のみでは真実を保証しない」


 傍聴席がざわめいた。


 私はざわめきに顔を向けなかった。卿の言葉を、一つずつ拾っていく。検算をする時と同じだ。一行目から。


「感情の複製は、理論上可能である。私はこれを認める。ゆえに本件の問題となる帳簿がヴァレンシュ嬢の筆跡と感情を完全に備えていることは、彼女が記帳者であることを必ずしも意味しない。しかし、逆もまた真である。彼女の本物とされる帳簿もまた、彼女自身の手によるものとは限らない。鑑定魔法は、真偽を問う道具として既に限界を迎えている。ゆえに本件は、鑑定結果のみを根拠に判決を下すべきではなく、より広範な状況証拠の総合判断へと、その基盤を移すべき時期に来ている」


 長い弁論だった。


 卿は、聞かせる話し方を知っている。四十年、学術論文と王宮の答弁を交互に書いてきた方の抑揚。抑揚の山と谷が計算されていて、傍聴席の呼吸が、ゆっくりとその波に合わせ始めるのがわかる。


 私は遮らなかった。


 全て、言わせた。


 卿が最後の一言を置かれた時、弁論廷の空気は、卿の側に寄っていた。肌で感じた。傍聴席の気配、書記の筆の速さ、裁判長の僅かな頷き。この方たちは、鑑定魔法という道具そのものが揺らぐ話を、初めて公に聞いたのだ。揺らぎは面白い。面白さは、人を傾ける。


 裁判長が、私に視線を移された。


「ヴァレンシュ嬢。反対弁論を」


 席を立った。


 立つ時、椅子の脚が石の床を擦って、小さな音を立てた。傍聴席の誰かが、またひとつ咳をした。


 机の上の論文集に手を伸ばした。


   ◇


「ドラモン卿」


 声は、震えなかった。


「ご弁論の前提を、一つだけ、お確かめさせてくださいませ」


 卿が、片眉を上げられた。


「何か」

「鑑定魔法の限界についての卿のご論考は、本日が初めての公表でしょうか。それとも、過去のご論文に連なるものでしょうか」


 穏やかな問いだった。


 論文の方法論を尋ねる、ただの確認。学術の場では誰もが始めに行う形式的な質問。卿は半呼吸だけ答えをためらって、すぐに威厳のある声で返された。


「過去の論考に連なる。鑑定魔法の基礎理論は、私自身が体系づけた。本日の弁論は、その延長線上にある」


「ありがとうございます」


 私は論文集を開いた。


 栞を挟んだ頁。十四頁の下段の、短い段落。


「こちらの論文をご記憶でしょうか。『鑑定魔法における思考連続性の不可侵領域について』。ご発表は、十年前の春」


 卿の顔から、表情が抜けた。


 抜けて、すぐに戻った。けれど戻り方が少しだけ遅かった。帳簿の検算で、答えの合わない行を二度見る時の目の動きに似ていた。


「……記憶している」

「では、十四頁の下段を、私が代わりに核心部分のみ読み上げさせていただきます」


 私は頁に目を落とした。


 声が少し小さくなった。朗読のためではない。読み上げる一行の重みを、自分の舌の上で確かめるためだった。


「『検算の足跡は、思考の時間的連続性を反映するため、魔法的複製の理論上の不可侵領域に属する』」


   ◇


 弁論廷が、沈黙した。


 傍聴席の呼吸が、止まった。


 書記の筆が止まった。裁判長の眉が、わずかに動いた。卿の指が、机の縁を一度だけ叩かれた。叩いて、止まった。


 私は顔を上げた。


「ドラモン卿。本日の弁論で、卿は感情の複製が可能であると仰いました。私はそれを疑いません。問題の帳簿に私の感情が宿っていたことは、鑑定魔法で確かめられております。けれど」


 論文を、卿に向けて開いて見せた。


「十年前のあなたは、検算の思考の流れまでは複製できないと、ここに書いておられます。本物の私の帳簿控えには、余白に検算の足跡がございます。問題の帳簿には、形だけの余白の数字がございますが、その配置順序が私の頭の中で動いた時間と一致しておりません。配置の順序は、追加物証の鑑定時に書記の方が記録された頁送りの時刻と照らし合わせれば、ご確認いただけるはずでございます」


「……」


「それから、もう一つ」


 私は息を整えた。ここからは、計算ではない。


「今、卿が立たれているこの弁論もまた、『鑑定魔法は真偽を問う道具として限界を迎えている』という主張でございました。けれど十年前のあなたは、限界を越えない領域があると明示しておられます。卿は、ご自身の過去の論考を、本日の弁論をもって撤回なさるご予定ですか」


 問いかけの形だった。


 けれど、問いではなかった。


 傍聴席の気配が、音もなく、動いた。卿の側に寄っていた場所から、ゆっくりと、もう一方へ。私は振り返らなかった。振り返らずとも、わかった。


 卿が、口を開かれた。


「それは……当該論文は、若年期の試論であり……」

「試論は、国家に登録された論文として現存しております。卿の弟子の皆様が、基礎理論の一部として学んでおられるとも伺いました」

「……」


 一度だけ、言った。


「十年前のあなたが、今のあなたを裁きます」


 反復しなかった。反復すれば、ただの舞台になる。これは帳簿の場だ。数字は、一度書けば足りる。


 卿は、座られた。


 座る時、椅子の脚が、小さく鳴った。


   ◇


《ヴェルナー》


 傍聴席の、後列の右端。俺はそこにいた。


 リゼットが立ち上がった瞬間から、俺は自分の息が浅くなるのを感じていた。剣を持っていない時の緊張というものを、俺はこの数日で初めて知った。剣を握っている時より、ずっと重い。


 彼女の声は、震えなかった。


 論文の一行を読み上げた時、俺の横に座っていた老いた書記が、筆を取り落としかけた。ペン先がインク壺の縁に当たって、小さな音を立てた。俺はその音を、はっきりと覚えている。


 裁判長が、判決を告げた。


「鑑定魔法師ギルド長、アーベル・ドラモン卿の本日の弁論は、同卿自身の既刊論文と整合しない。よって本廷は、ヴァレンシュ嬢の提示する検算の足跡を、偽造不能領域として採用する。告発された問題の帳簿は、偽造と認定する。——ならびに、王立鑑定魔法師ギルドの鑑定基準について、筆跡および感情の照合に加えて、思考連続性の検証を国家的に導入することを、本廷より王宮に上申する」


 傍聴席がざわめいた。


 俺はざわめきを聞いていなかった。リゼットを見ていた。


 彼女は、判決の間、まっすぐに前を見ていた。泣かなかった。笑わなかった。ただ、机の上の論文集を、そっと閉じた。閉じる時の指の動きが、帳簿を戻す時の手つきと同じだった。


 席を立った。俺は傍聴席の間を歩いた。彼女のところへ。


 中央の席の横で、立ち止まった。


 彼女が俺を見上げた。目の縁が、少しだけ赤かった。夜明け前から一睡もしていない目だ。


 俺は、手を差し出した。


 何か言うべき言葉はなかった。よくやった、と言えば、彼女の戦いを俺の感想で汚す気がした。代わりに、手を差し出した。


 彼女が、自分の手を乗せた。


 細い指だった。昨夜、俺の手の下で震えていた指だ。今は震えていない。


 俺は、その手を取って、立たせた。


 傍聴席の視線が、俺たちの手元に集まっているのがわかった。構わなかった。構いたくなかった。この場の全員に見えるように、俺は彼女の手を取ったのだ。


   ◇


 弁論廷を出た廊下で、子爵殿が待っておられた。


 子爵殿は、娘を抱き寄せる代わりに、一度だけ深く頭を下げられた。娘に、ではなく、俺に。俺は慌てて頭を上げさせた。頭を下げられる筋合いのことは、俺は何もしていない。


 子爵殿が、落ち着いた声で言われた。


「勅令が出るそうです。本日中に」


 リゼットが、俺を見上げた。


「鑑定制度の刷新、ですか」

「それも。それから」


 子爵殿が、息を一つ置かれた。


「バルトゥール伯爵領の過去八年の税収調査について、監査局の最終報告が、明日の朝、王宮に提出されます。あなたが出ていった朝から、ずっと積み上げられていたものです」


 リゼットの手が、俺の手の中で、ほんの少しだけ動いた。


 握り返した、のではない。


 ただ、指先が、俺の手の甲に触れた。


 それだけだった。

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