第6話 余白にこそ
鑑定再審の朝、私は新しいインクを一瓶、鞄に入れた。
使い慣れた銘柄ではない。王都に来てから、子爵家のお抱えの文具商に父が頼んで取り寄せてもらった、北方で使っていたのと同じ藍色のインクだった。一瓶の首を薄い紙で包んで、空瓶が中で転がらないように、藍色の布で挟む。ついでに新しい羽ペンを二本と、白紙の帳簿用紙を数枚。帳簿のかたちで綴じられていない、綴じる前の紙。
本物の帳簿控えは、父が昨夜のうちに一冊ずつ藍色の布に巻き直してくれていた。七冊。バルトゥール伯爵領の八年分。原本ではない控えとはいえ、これだけの枚数の帳簿を王都のギルド本部まで運ぶのは、嫁入り以来の荷物の重さだった。
父は玄関で見送ってくれた。
「行ってらっしゃい」
それだけだった。
余計な言葉を重ねない父の癖が、今日は頼もしく感じた。
◇
王立鑑定魔法師ギルドの本部は、王宮の北門に近い一画にあった。古い石造りの建物で、入り口の両脇に大きな鑑定装置の意匠が彫られている。銀の粉で筆跡を浮き上がらせる時の、あの丸い光の紋様。彫り込みの線が、長年の手入れで鈍く光っていた。
審問室は建物の奥まった場所にあった。
天井は高く、壁には過去の有名な鑑定結果を額装した銘板が並んでいる。ドラモン卿の鑑定結果が、正面の壁に数枚、特に立派な額で掛けられていた。
私は中央の席に案内された。
机の広さがあって助かる、と最初に思った。運んできた七冊の帳簿控えを並べられる程度には広い。私は立ったまま、藍色の布を解いて、一冊ずつ机の上に並べていった。八年分の一月から十二月まで、年代順に左から右へ。帳簿の背表紙の色と、年ごとのインクの変遷が、並べてみると一目でわかる。
対面の席に、アーベル・ドラモン卿が座っておられた。
初めて見る方だった。
論文の文面と、四十年の経歴と、写本局の司書が「若い頃のお姿は肖像画でしか」と呟いた言葉だけが、頭の中にあった。実際のドラモン卿は、想像よりも少し背が低く、想像よりも少しゆったりとした所作の方だった。白髪は櫛目が通っていて、眉間の皺は深い。目が、穏やかだった。
穏やかなのに、目の奥に何もない、という種類の穏やかさだった。
それは帳簿の余白が真白い時の、あの種類の空白によく似ていた。
◇
鑑定再審の開会は、形式通りに始まった。
審問の主査を務めるのは、ギルドの副長格にあたる老齢の魔法師だった。白いローブの前を合わせて座り、書類の束を机の真ん中に置いて、短く宣言した。
「本日は、ヴァレンシュ嬢が提出した不一致申立てについて、鑑定再審を行う。告発側からの冒頭陳述を」
ドラモン卿が、ゆっくりと立ち上がられた。
「本件の鑑定結果は、既に出ている」
低い、よく通る声だった。
「問題の帳簿頁は、ヴァレンシュ嬢の筆跡と完全に一致する。感情残留値も同様である。鑑定魔法の現行基準において、本件は記帳者同定が完了している案件である。本日の再審は、申立て側の主張を形式的に記録するための手続きに過ぎない」
勝利宣言だった。
落ち着いた勝利宣言。傍聴席の気配が、言葉の抑揚の波に合わせて、少しだけ卿の側に傾いていくのがわかった。
私は傾きを感じたまま、動かなかった。
主査が私に視線を移した。
「ヴァレンシュ嬢。反論陳述を」
◇
席を立った。
立って、机の上に並べた七冊の帳簿を、一冊ずつ順番に開いていった。一月の頁から始めて、三月、七月、十一月、と、季節がはっきり違う頁を選んで、全て開いた状態で並べる。
並べ終わったところで、私は主査のほうに向けて、小さく申し上げた。
「主査殿。本物の帳簿控えを、主査殿ご自身の目でお確かめいただけますでしょうか。筆跡の話ではなく、頁の全体の形の話でございます」
主査の方が、眼鏡の位置を正された。
机の向こうから身を乗り出して、並べられた頁を順番に見ていかれる。一冊目の頁。二冊目の頁。三冊目の頁。
視線の速度が、途中から、少しだけ遅くなった。
「……これは」
主査の方の声が、少し間を置いて出た。
「頁の余白に、小さな数字の列がございますな。本文の数字とは別に。インクの濃さが違っておりますので、書いた時期が異なる印が見える」
「はい。検算の跡でございます」
私は自分の帳簿控えの、余白の一箇所を指先で示した。
「本文を書き終えた後、余白に計算を書き写し、合計を別系統で検算いたします。同じ頁で二度検算することもございます。検算の位置、回数、形は、日によって違います。忙しい日は左の余白にだけ。時間のある日は右の余白にも。特に合わない数字があった日は、縦に書き込むこともございます。私の癖でございます。八年分の全ての頁に、この癖が入っております」
主査が、顔を上げた。
上げた視線が、卿の側ではなく、ドラモン卿の手元の問題の帳簿写しに向けられた。
「ドラモン卿。問題の頁を、こちらに」
卿が写しを差し出された。
主査が、本物の七冊の頁と、問題の写しを横に並べた。
並べただけで、違いが視覚的に見えた。本物のほうは、どの頁の余白にも小さな数字の走り書きがある。問題の写しのほうの余白は、真白だった。本文の数字が頁の中央に行儀よく並んでいる、美しすぎるほど美しい白だった。
◇
「余白は、鑑定の対象外である」
ドラモン卿の声が、主査の視線を遮るように挟まれた。
落ち着いた声だった。けれど、落ち着きすぎた声だった。
「鑑定魔法は紙面に書かれた筆跡および感情残留を対象とする。書かれていない領域について鑑定結果を論ずるのは、現行基準の範疇を超える。申立て側が提示している『余白の検算の有無』は、鑑定法の枠外の事情であり、本件の結論に影響を及ぼすものではない」
傍聴席の空気が、また少し揺らいだ。
卿の声には、四十年分の権威が乗っている。その重みで、一度は傾きかけた天秤が、もう一度もとの位置に戻ろうとしている。
私は、鞄の中から、新しい藍色のインクと、新しい羽ペンと、綴じる前の白紙を取り出した。
机の端の空いたところに、白紙を一枚置いた。
ペン先をインクに浸した。
「主査殿。ご許可をいただけますでしょうか。ただ今この場で、私の癖を、実演させていただきます」
主査の方が、少しだけ眉を上げて、頷かれた。
「許可する」
◇
私は、白紙に本文の数字を書き始めた。
架空の備蓄管理台帳を、頭の中で組み立てて、月次の数字を手早く並べる。北方辺境伯領の直近の月のかたちを、数字だけ伏せた形で流用した。頭の中の帳簿と、指先の動きが、いつもの癖で勝手に噛み合っていく。
本文の列を書き終えた。
手を止めずに、そのまま左の余白に移る。同じ数字を小さく書き写して、合計を別系統で検算する。検算の途中で、一つだけ合わない数字が出た。私は本文の数字のほうを見直し、指先で一度押さえて、間違いを見つけ、訂正して、また検算に戻った。右の余白にも、念のために一度だけ数列を書く。
そこまでを、何も考えずに、指の動くままに。
終わったところで、ペンを置いた。
主査の方が、白紙に身を乗り出しておられた。
「……これは」
主査の声は、ずっと間が遅れている。
「今書かれたこの頁にも、本文と別系統で検算が余白に入っておる。それから本文の訂正の跡がある。本文を書いてから、検算で合わない数字を見つけて、戻って直した順番が、インクの濃さの差でわかる」
「はい」
「これは、書き写して真似をするには、時間的な順序が大きすぎる」
「左様でございます」
私は、小さく申し上げた。
ここから先は、一言だけでよかった。
「余白にこそ、経理の人格がございます」
◇
審問室の空気が、止まった。
止まり方は、第一審問の時とは違う種類だった。第一審問の時は、困惑の止まり方だった。今は、納得の前の沈黙、という種類の止まり方だった。傍聴席の気配が、卿の側からゆっくりと離れていくのが、振り返らなくてもわかった。
目の端で、傍聴席の辺境伯の立会人席のほうを、短く見た。
ヴェルナー様が、一度だけ、小さく頷かれた。
頷きは短かった。短い中に、「言うべきことが言えた」という種類の肯定が乗っていた。私は視線を戻した。戻した時には、目の縁が少しだけ熱くなっていたけれど、それは顔に出なかったと思う。たぶん。
◇
主査の方が、書類の束を揃え直された。
「本日の再審結果の取りまとめは、評議を経て追って通達する。本日の審問は、これにて」
木槌が、乾いた一打。
私は藍色の布で帳簿を一冊ずつ包み直しながら、対面の席のドラモン卿の方を、一度だけ見た。
卿は、椅子を引いて、立ち上がっておられた。
顔色は、変わっていなかった。穏やかな目も、変わっていなかった。
ただ、帰り際に、主査のほうへ一度だけ向き直って、誰に聞かせるわけでもない、低い声で、短く言われた。
「まだ、切り札がある」
それだけだった。
卿は一礼して、審問室を出ていかれた。入り口の扉が閉まる時、ローブの裾が、石の床をかすかに擦る音がした。
私はその音を、聞いていた。
聞きながら、机の上に残された白紙の実演の頁を、藍色の布の上に、そっと重ねた。新しいインクの匂いが、まだ強く残っていた。




