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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第5話 同じ机

 ヴァレンシュ子爵邸の書斎には、昔の匂いが残っていた。


 本の革表紙と、古いインクと、父が長年愛用しているナラの机のほんのりとした油の匂い。八年前に私がここを出ていった日と、同じ匂い。変わっていないことに安心してから、変わっていないことが少しだけ痛くもなった。八年の間、この部屋の時間は、私ではなく父のほうに残っていたのだ。


 机の上には、アーベル・ドラモン卿の論文集が積まれていた。


 父が王立図書館の写本局に急ぎで手配してくれたものだった。夜明け前に子爵家の使用人が図書館の勝手口まで走り、写本係の朝一番の出勤時刻に合わせて、手書き写本を順番に借り受ける段取りを付けたらしい。父の人脈と、父の手配の丁寧さが、紙の束の形で机に届いている。


 背表紙の色は、古いものほど赤みが抜けていた。若い頃の論文ほど紙が薄く、新しいものほど頁数が厚い。四十年の仕事が、机の上に降り積もっている。私はその一番古い冊から、順番に開き始めた。


   ◇


 最初の論文は、『筆跡鑑定における感情残留の検出について』という題名だった。


 若い頃のドラモン卿は、筆致が速い人だった。頁の文章から、そう感じた。結論を急がない慎重さがあるのに、その慎重さを文の中に閉じ込める書き方をしていた。読んでいて、息が詰まらない。手慣れた人の文章には独特の呼吸があって、それが私には馴染みがある。帳簿も、積み重ねた人の書いた帳簿は読みやすい。同じだ。


 論文の要旨は、こういうものだった。


 筆跡は、書いた者の感情の温度を、紙の繊維にわずかに残す。鑑定魔法はその残留を色と光の揺らぎとして検出する。これは、筆跡の「形」だけでは判別できない作者同定を可能にする、画期的な手法である。


 画期的、と本人がきちんと書いていた。若い頃のドラモン卿は、自分の発見を誇る方法を知っておられた。それが嫌味ではなく、むしろ少し微笑ましく読めるのは、文章の誠実さが嘘をついていないからだ。


 私は頁の余白に、短い印をつけた。


 こういう読み方は、八年間の帳簿の癖だった。気になる箇所に点を打ち、戻ってくる時のしるしにする。大事な頁には丸をつける。決定的な一行には縦線を引く。父の書斎の古い論文の余白に、藍色のインクで私の癖の記号を残していくのは、少しだけ申し訳なかった。でも父なら許してくれる。父の書斎は、昔から、私が字を書いていい場所だった。


   ◇


 書斎の扉が、昼過ぎに物音もなく開いた。


 顔を上げると、ヴェルナー様が立っておられた。


 旅装ではなく、簡素な上着。手には一冊の分厚い本。北方から持ってきた経理の基礎書だった。表紙の端が、旅のせいで少しだけ傷んでいる。


「入っていいか」


 短い声だった。


「どうぞ」


 私が答える前に、ヴェルナー様は机の向かい側の椅子ではなく、机の端のほうの椅子を引いて腰を下ろされた。向かい合わせでもなく、斜めの位置。私の視界の端に入る場所。


 経理の基礎書を開かれた。


 頁をめくる手が、慣れていないというより、慎重だった。紙を破らないように、指先で角をそっと持ち上げる。この本を大事にしておられるのだ、と思った。


 ヴェルナー様は、何も話しかけてこられなかった。


 私も話しかけなかった。


 その沈黙の種類が、よかった。


   ◇


 陽が傾いていくのを、頁の隅の影の動きで知った。机の上に射していた窓の光が、少しずつ右へずれていく。私は二冊目の論文に移っていて、ヴェルナー様は基礎書の、前に来た時より先の頁を読んでおられた。時折、欄外に短くペンを走らせる音がする。前と同じ、ペンを強く押しつけすぎた時の音だった。


 私はその音を、数えるともなく聞いていた。


 夕方、父が茶を持って入ってきた。


「差し入れだよ」


 父は机の端に銀の盆を置きながら、私とヴェルナー様を見比べて、一度だけ短く咳をした。咳の中身を、私は少し察した気がした。父は、この書斎に別々の本を開いた人が二人並んでいる光景を、八年ぶりに見ているのだ。母が生きていた頃、この書斎にはよく母が本を持ち込んでいた、と聞いたことがある。


 父は何も言わなかった。言わずに出ていかれた。


 茶を一口含んで、私はまた論文に戻った。


 ヴェルナー様が、基礎書の頁を一度閉じて、私の横に置かれた外套を取られた。立ち上がる気配だと思って顔を上げかけた時、その外套が、ふわりと私の肩にかけられた。


「冷える」


 短く、それだけ。


 窓の外は、まだ春の夕暮れで、そこまでの冷えではなかった。けれど私の肩を、ヴェルナー様は冷えると判断されたらしい。外套の内側に、先ほどまでこの方の体温が残っていた。柔らかい重みが、私の肩と背中に広がった。


(……あたたかい)


 私は、論文の一行目を二度読み直した。


 一度目は内容が頭に入らなかったからだ。二度目でようやく、数式の前半の記号が目に入ってきた。


   ◇


 夜が更けた。


 父が二度目の茶を届けに来てくださった頃には、私は四冊目の論文を開いていた。ドラモン卿が十二年前に発表した、筆跡鑑定の応用論文の一つ。鑑定魔法の精度の向上と、偽造検出の理論的限界について論じたものだった。


 ヴェルナー様は、基礎書の別の章に入っておられた。先ほどから、同じ頁で止まっておられる。利益と費用の勘定の区別のところだ。そこで詰まる人は多い。私も最初は詰まった。


 時々、ヴェルナー様が小さく息を吐かれる音がした。答えの合わない検算を何度かやり直しておられる時の息の吐き方。懐かしいくらい、北方の帳簿室と同じ音だった。


 私は自分の論文に戻った。


 十二年前の論文の、中ほどの頁。


 そこに、一つの式があった。


 感情の複製可能性を論じた、短い数式。ドラモン卿が当時の理論の限界として提示していた仮説で、「鑑定対象の感情を人工的に再現できるか」という問いに対する、否定的な結論の式。要するに、当時の卿は、感情は複製できない、と書いておられた。できない理由の数式を、きちんと記号で並べておられた。


 私は、その式を指先で辿った。


 辿って、もう一度、辿った。


 辿りながら、自分の呼吸が少しずつ浅くなっていくのに気づいた。


 この式の形。


 見覚えがある。


   ◇


 机の横に置いたままの、例の鑑定写しを引き寄せた。


 北方から持ってきた、偽帳簿の鑑定複製。銀色の線で筆跡が浮き上がっているあの紙。その紙の隅のほうに、鑑定魔法が記録した「感情残留値」の数値が、小さな記号の並びで書き添えられている。鑑定結果の付記として、監査局の書式で印字された記録。


 その記号の並びを、論文の式と比べた。


 並びが、似ていた。


 いや、似ている、ではない。


 論文の式の変形として、きちんと導ける形だった。十二年前のドラモン卿が「複製不可能」と結論づけた式を、別の方向にひっくり返すと、この鑑定結果の記号列になる。ひっくり返し方は、複数の手順があり得て、そのうちの一つを選ぶと、ぴたりと合う。


 誰かが、十二年前の式を、引っ繰り返している。


 引っ繰り返した結果を、実用に使っている。


 感情を複製する手段として。


(……誰が)


 問いは一つだったが、答えの候補は限られていた。十二年前の論文を、式の変形まで追いかけられる人間は、この国にそれほど多くはいない。論文を書いた本人か、その直接の弟子か、あるいは、論文を読み込んだ上で、意図的に別の方向に再構築した誰か。


 私は顔を上げた。


 ヴェルナー様が、こちらを見ておられた。いつの間に視線を上げておられたのか、わからなかった。基礎書の上に置かれた指が、止まっていた。


「……何か見つけたか」


 短い声。


 私は、うなずいた。うなずいてから、自分のうなずきが遅かったことに気づいた。


「手がかりが、一つだけ。けれど、これはまだ答えではございません。もう少し、先の論文まで進まないと」


 ヴェルナー様は、私の顔をしばらく見ておられた。


 それから、ご自身の基礎書を閉じて、机の端に丁寧に寄せた。閉じる時の指の動きが、帳簿を戻す時の手つきと同じだった。


「茶をもう一杯もらってくる」

「……ヴェルナー様、ご自身で取りに行かれる必要は」

「眠気覚ましは、俺の役目にしてくれ」


 短い一言を残して、ヴェルナー様は書斎を出ていかれた。


 扉が閉まった。


 私は、机の上の論文と、鑑定写しと、その間に残された空白を、もう一度見た。


 十二年前に、若き日のドラモン卿が「できない」と書いた一行。


 その一行を、誰かが「できる」に書き換えた。


 その誰かの顔を、私はまだ知らない。知らないけれど、卿ご本人ではないかもしれない、という感覚が、式の読み返しの途中から、私の中で立ち上がり始めていた。


 窓の外では、王都の夜が深くなっていた。


 書斎の暖炉の薪が、ぱちりと一度、小さく爆ぜた。

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