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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第4話 八年ぶりの石畳

 王都の石畳の音は、八年前と同じだった。


 変わったのは、それを聞いている私のほうだ。


   ◇


 馬車の車輪が王都の中央区の石畳を踏んだ時、音の跳ね返り方で、ああ帰ってきたのだと思った。北方の土の道を三日走ってきた車輪が、固い石の上で急に明瞭な音を立てる。がたん、がたん、という土の道の響きではなく、かつん、かつん、という石の響き。この石の並べ方を覚えている。八年前の春、この同じ石畳の上を、嫁入りの馬車で通った。


 あの日は、道の両側に並木の葉がまだ若くて、空気が甘かった。


 今日の空気は、別の色をしている。


 北方から王都までの三日間は、ほとんど沈黙の旅だった。ヴェルナー様は護衛の兵と共に先行する形で馬に乗っておられる時間が長く、私は父の代理で遣わされた御者と一緒に、ひとりで馬車の内にいた。手に持っていたのは例の書簡の写しと、四年前の秋の帳簿控え。本物のほうだ。藍色の布で巻いて、膝の上に置いていた。


 二日目の夜、小さな宿場町で休んだ。三日目の朝、出発の直前になって、ヴェルナー様が馬ではなく、馬車のほうに乗り込んでこられた。


「今日は、中にいる」


 短い一言だけで、向かいの席ではなく、私の隣の席に腰を下ろされた。


 向かい合わせではなく、隣。肘が触れそうで触れない距離。


 どうしてですか、とは伺わなかった。伺う前に答えが見えた気がしたからだ。馬上で三日間、この方はずっと護衛の目で私の馬車を見ておられた。けれど、見るだけでは、ご自身の中の何かが収まらなくなったのだと思う。だから今日は、中にいる、と。


 北方から王都へ近づくにつれて、道端の村の数が増える。村の子供が馬車を見る目が、少しずつ別の種類の目になる。辺境伯の紋章を入れた馬車を、物珍しく眺める目から、何かを知っている目へ。


 知っている、というのは、帳簿の噂のことだ。


 書簡のことが、どうやら早馬よりも速く、王都の噂の網を伝って広がっているらしかった。それは私が出発する前から予想していた。けれど、実際に村の目を通り抜けていく道中で、噂の重みは想像よりも少し重かった。


 馬車の中で、ヴェルナー様は何も言わずに外を見ておられた。


 ただ一度だけ、私の膝の上の藍色の布に、視線を落とされた。


「揺れが少ないか」


 短く尋ねられた。


「少ないです。ありがとうございます」


 私は答えた。揺れが少ないのは、隣に体重がもう一つ乗ったせいで、馬車の車軸が落ち着いたからだ。理屈としてはそれだけ。それだけのことに、私は礼を言っていた。


 ヴェルナー様は短く頷かれて、また窓の外を見られた。


   ◇


 ヴァレンシュ子爵邸の玄関には、父が立っていた。


 雨は降っていないのに、玄関先の石畳が濡れていた。朝に水を撒いたらしい。父は昔からそういう人だ。客人が来る日には、誰に言われなくても自分で水を撒く。八年前の嫁入りの朝も、同じようにこの石畳が濡れていた。


「ただいま戻りました、お父様」

「ああ」


 父は、娘を抱きしめなかった。代わりに、藍色の布に巻いた帳簿控えに目を落として、それから私の顔を見て、それからヴェルナー様を見上げて、深く頭を下げた。


「辺境伯閣下。娘のために、遠路ありがとうございます」


 ヴェルナー様は一度だけ頭を下げ返された。


「頼まれずとも、こうした」


 短い一言だった。


 短い一言なのに、父の肩の線が、見ている方がわかるくらい、わずかに緩んだ。父は若い頃からずっと、言葉を信用する癖のある人だ。文官として生きてきたから、文字になった約束と、口から出た約束を、同じ重さで量ってしまう。「頼まれずとも」のひと言が、父の中で、何かをきちんと量って見せたのだと思う。


 父は私に向き直って、短く言った。


「証拠書類は、私が預かる」


   ◇


 書斎には、すでに三人の客が待っていた。


 父が王都法曹界に持っている旧友たち。いずれも文官出身で、仲裁裁判所や監査局に関わった経験のある方々だった。一人は父と同年代の退官者、一人は中堅の法務官、一人はまだ壮年の実務家。三人とも派手な装いではなく、ただ机の上に分厚い書類綴りを広げていた。


「お帰りなさい、リゼット殿」


 退官者の方が、穏やかに声をかけてくださった。父が若い頃、法学院で席を並べた方だと聞いたことがある。


「長旅、お疲れ様でした。本題に入らせていただきます。時間が、少し惜しい」


 書類綴りが開かれた。


 そこから先は、私の戦いだった。ヴェルナー様は書斎の壁際の椅子にそっと腰を下ろして、口を挟まずに聞いておられた。辺境伯として出てこられるべき場ではないことを、この方はきちんと弁えておられた。


 私は例の写しと、本物の帳簿控えを机の上に並べた。


 三人の法曹が、順番に頁を見比べた。頁をめくる指の速さが、三人それぞれに違う。退官者の方はゆっくりと。中堅の法務官の方はもう少し速く。若い実務家の方は、一番速い。速度は違うのに、見終えた後の沈黙だけは、三人ともよく似ていた。


 退官者の方が、最初に口を開かれた。


「リゼット殿。第一審で『これは私の筆跡でございます』と申し述べられたのは、正しい判断です。否定していれば、鑑定魔法の証拠に押し切られて、一審で結論が出てしまっていた。認めた上で、余白の形式の不一致を持ち出すのは、鑑定魔法の上位審へ送るための唯一の筋道です」


 それから、少し間を置いて、付け加えられた。


「ただ、一つ、お伝えしておかねばならないことがございます」


   ◇


 退官者の方は、自分の手元の書類の束から、一枚の紙を抜き出した。


 監査局の内部回覧。通常は外部には出ない文書。どういう経緯で手元に届いたかは聞かなかった。父の古い法曹仲間の人脈が、そこに働いていたのだろう。


 紙を裏返された。


 下の方に、告発状の受付記録があった。受付日、受付番号、そして告発者の欄。


 私はその欄に書かれた名前を、読んだ。


『王立鑑定魔法師ギルド長 アーベル・ドラモン卿』


 読んでから、自分の指先が、冷たくなっているのに気づいた。


 北方の冬を三ヶ月過ごしてきた指が、王都の四月の午後に、氷の縁を触った時のように冷えた。


「……ドラモン卿」

「はい」

「鑑定魔法の、権威の」

「四十年、鑑定の基礎理論を一人で支えてこられた方です」


 退官者の方の声は、落ち着いていた。落ち着いていすぎるくらい、落ち着いていた。


 私は顔を上げた。父を見た。


 父の手が、書斎の机の上に置かれていた茶碗の縁に、かかっていた。かかって、止まっていた。父は茶碗を持ち上げようとして、途中でやめた、というより、持ち上げている途中で時間が止まったような止まり方だった。


 父の目が、一度だけ、ゆっくりと瞬いた。


「……ドラモン卿、だと」


 父の声は、低かった。


「私が法学院に入った年に、同じ講堂で論議を交わしたことがある。あの方は、あの頃もう講師格だった」


 初めて聞く話だった。父は、自分の若い頃のことをあまり話さない人だ。


「人柄は真面目な方だった。軽率な論を立てない方だった。その方が、なぜ……」


 父はそこで言葉を切った。


 切った理由は、私にもわかった。なぜ、と問うても、今の私たちには答えが出ないからだ。答えを出すために、これから王都で時間を使うのだ。


 茶碗を持ち上げかけた父の手が、ゆっくりと、机の上に戻った。


   ◇


《ヴェルナー》


 同じ夜、王都の宿の窓辺に、俺は立っていた。


 ヴァレンシュ子爵邸の客間に泊まることも勧められたが、俺は断った。辺境伯が王都に入った事実を、余計に目立たせたくなかった。彼女の戦いに、俺の肩書きが先に立ってはならない。通りから一本入った小さな宿に部屋を取り、旅装のまま窓辺に立っていた。


 机の上には、北方から持ってきた経理の基礎書が開いたままになっていた。


 俺は自分の指を見た。


 剣を握るために鍛えられた、硬い指。ペンを握るために作られた指ではない。朝、書斎で法曹たちが書類をめくる速さを見ていた時、俺は自分がこの場で何もできないことを、はっきりと認識した。彼女のための剣は、今日の戦場では使えない。


 それでも。


 夜が明けて、彼女が朝の光の中で目を覚ました時、温かい茶を出せる男でありたいと、俺は思った。茶の温度を覚えているくらいは、俺にもできる。それくらいは、ペンを握れない指にもできる。


 そのために、今夜は眠らない。


 窓の外で、王都の夜が深くなっていた。石畳の道の向こうで、見知らぬ貴族の馬車が一台、通り過ぎていった。車輪の音が、北方のそれとは違う音で響いていた。


 俺はもう一度、経理の基礎書の頁を開いた。


 合わない検算の続きが、まだ残っていた。

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