第7話 同じ帳簿
書状が届いたのは、余白の実演から三日後の夕方だった。
三日の間、私は子爵邸の書斎でドラモン卿の残りの論文を読み続けていた。卿の研究の全貌が、頭の中で少しずつ形になってきていた。鑑定魔法の基礎理論から応用論文、それに若い頃の試論まで、時系列順に並べると、この人の四十年の思考の流れが、きちんと一本の線になる。その線の途中で、十二年前の「感情は複製できない」の式がある。その先の論文では、複製可能性について触れた箇所が一切ない。卿は十二年前以降、感情複製の議論から手を引いておられる。
手を引いた理由を、私はまだ知らなかった。知らないまま、論文の余白に藍色の点を打ち続けていた。
その夕方、父が書斎に入ってきた。
「ギルドから、追加証拠の提出通知が届いた」
父の声は低かった。低い中に、いつもの父の声にはない、硬い色が混じっていた。
◇
書状の文面は短かった。
『本日付にて、告発側より追加の物証が提出された。当該物証について、翌朝、ヴァレンシュ嬢の立会いのもとに鑑定再審の続行を行う』
翌朝。
父の手配で、即日、私は審問室に呼び戻された。ギルド本部までの馬車の中で、私は鞄の中の帳簿控えの重みを、膝の上で一度だけ量り直した。
審問室の配置は、三日前と同じだった。
中央の机、対面の席、主査の席、傍聴席。辺境伯の立会人席にヴェルナー様。けれど机の上の空気の重さが、前回とは違った。主査の方の顔色に、前回にはなかった戸惑いが浮かんでいた。
ドラモン卿は、まだ着席されていなかった。
主査が口を開かれた。
「ヴァレンシュ嬢。本日の続行審問は、告発側から追加で提出された物証について、貴殿の所見を伺うものである。物証を、開示する」
机の真ん中に、一冊の帳簿が置かれた。
私はその背表紙を見て、息の入り方が変わった。
◇
バルトゥール伯爵領・備蓄管理台帳。
四年前の秋の巻。
最初に届いた写しと同じ頁の、同じ日付の、同じ転売記録が入っている、ただしそれが一頁の切り抜きではなく、一冊まるごとの帳簿として製本されていた。
私は震える指で頁をめくった。
最初の頁。本文の数字。桁の揃え方。縦線の硬さ。全部、私の字。
左の余白。
そこに、小さな数字の列があった。
検算の跡だった。
本文と別系統の計算。合計の確認。濃さの違う藍色のインク。昨日までの私の癖が、そこにあった。
指先が、そのまま止まって動かなくなった。
頁をめくった。次の頁。また余白に検算がある。右の余白にも、縦方向の走り書きが入っている。その次の頁。縦の書き込みがない代わりに、左の余白に長い数列がある。全部、頁ごとに違うかたちで、けれど全部が私の癖と一致している。
私の癖を、知っている人間が書いた。
いや。
知っているだけでは、書けない。
知った上で、毎頁の余白のかたちまでを再構築した人間が書いた。
◇
なに、これ。
舌の付け根のあたりが、急に重くなった。
なに。この頁。この余白。これ私、これ、私がいつか書いたやつみたい、でも書いてない、書いてないのに、書いてる。書いてあって、私の字で、私の癖で、私の、
違う。これは私じゃない。
私じゃないのに、私の手の中から出てきたみたいな形をしている。
頁をめくる指が、自分のものではなくなっていく感じがした。めくっているのは誰なんだろう。この指は誰の指なんだろう。この癖は誰の癖なんだろう。八年間、毎晩、寝る前に数字を確かめて、間違いがないことを確かめて眠った、あの癖。あれは、私のものだったはずだ。はずだ。はずだった。
主査の方の声が、遠いところで響いていた。
「三日前、貴殿は『余白の検算こそが、経理の人格である』と主張された。鑑定魔法の対象外であった部分に、貴殿は論拠を置いた」
「……はい」
自分の声が、別の人の声みたいに聞こえた。
「告発側は、それを受けて、追加の物証を提出された。余白を含む帳簿一冊の完全な再現である。鑑定魔法による再検査の結果、余白の検算部分にも、本文と同等の感情残留値が検出されている」
主査の方が、一度だけ言葉を切られた。
「すなわち、」
続きの言葉を、私は聞きたくなかった。けれど聞かなければならなかった。
「この帳簿一冊は、現行の鑑定基準において、貴殿の手によるものと同定される」
同定される。
書いていないものが、私の手によるものと同定される。
机の木目を、ぼんやり見ていた。節のある場所を、気づかないうちに指先で撫でていた。この机の木目を、なぜ今、私は撫でているのだろう。意味のない動きだった。けれど意味のない動きでもしていなければ、指先がどこかに行ってしまう気がした。
審問室のどこかで、ドラモン卿の穏やかな目が、こちらを見ているはずだった。
私は、顔を上げなかった。
◇
主査が、口を開かれた。
「本日をもって、王立鑑定魔法師ギルドの鑑定再審は、一旦の結論に至る。本件の鑑定判定は、告発側の主張と整合する。貴殿の余白論拠は、追加物証の提出により、論拠としての独自性を失った」
木槌の音は、今日は鳴らなかった。
代わりに、別の通知が続いた。
「ヴァレンシュ嬢側からの最終審申立権は、仲裁裁判所への送致という形で生きている。本件は仲裁裁判所の最終審へ移される。判定権は、そちらに移譲する」
仲裁裁判所。
父の法曹仲間が口にしていた、最終審の名前だった。ここで決まれば、もう上はない。
私は立ち上がって、一礼した。
一礼した時、指先がまだ木目を覚えていた。
◇
帰りの馬車の中で、ヴェルナー様は何も言われなかった。
馬車の車輪が石畳を踏む音だけが、窓の向こうで規則正しく続いていた。王都の夕方の光が、馬車の内側の革張りの座席を、斜めに照らしていた。革の色の、普段は目に入らない細かい傷が、光の加減で見えた。
子爵邸に戻って、書斎に入った。
父は、書斎の扉のすぐ外で一度だけ私の肩に手を置いて、「一人で考えさせてやる」と言うように、何も言わずに廊下の奥に下がっていかれた。父の、こういう気の遣い方は、昔から変わらない。
ヴェルナー様は、書斎の中まで入ってこられた。
扉を、音もなく閉められた。
◇
「リゼット」
名を呼ばれた。
短く、一度だけ。
「明日、仲裁裁判所への送致願いに、俺の名を添える」
低い声だった。
「辺境伯の名を添えれば、審問の日程は速まる。主査への働きかけもできる。仲裁裁判所の裁判長は、北方の防衛に関して俺と何度か文書のやり取りをしたことがある相手だ。全く縁のない相手ではない。政治的な筋から、一定の働きかけが可能だ」
私は机の椅子の背もたれに、指先を置いていた。
背もたれの布張りの縫い目を、小指が無意識になぞっている。昼間の木目と同じだった。意味のない動きで、指が落ち着こうとしていた。
「……ヴェルナー様」
「ああ」
「その働きかけを、お受けするわけには参りません」
ヴェルナー様の肩が、ほんの僅かに、固くなった。
「なぜだ」
「私が今日、機会を逃したからでございます」
自分の声が、落ち着いているのが意外だった。本当は、喉のどこかで震えていてもおかしくない状況で、けれど指先で縫い目をなぞっていたら、声のほうは別の場所に落ち着いていた。
「余白の論拠は、私が差し出した剣でございました。その剣は、今日、折れました。折れた剣の代わりに、辺境伯家の剣をお借りして、私の戦いを続けることは、私には、できません」
「折れていない」
「折れました」
「折れていない。手がかりは、まだ残っている。あなたは昨夜までの論文の検討を続けていた」
ヴェルナー様の声が、一段階だけ上がった。
いつもの短い声ではなかった。いつもの短さを、ご自身の中で捻じ切ったような声。
「俺は、あなたが潰されていくのを、黙って隣で見ていろというのか」
「違います」
「違わない。俺の名を使わせないということは、俺にこの場で役に立つな、と言うのと同じだ」
◇
沈黙が、書斎に落ちた。
窓の外で、ヴァレンシュ子爵邸の古い庭木が、夕風に一度揺れた。葉が擦れる音が、硝子越しにうっすらと届いた。
私は椅子の背もたれから指を離して、ヴェルナー様のほうに向き直った。向き直った時、ヴェルナー様の眉の間の皺が、この前の廊下の時よりも、少し深くなっているのに気づいた。
「違います。ヴェルナー様。あなた様のお名前が役に立たないとは、一度も思っておりません。むしろ、あなた様がここに立っておられるだけで、私の背中は支えられております」
声を整えて申し上げた。
「けれど、今日折れたのは、私の筆でございます。私の筆で折れたものを、私の筆で立て直さなければ、私は、自分のために帳簿を書くことが、二度とできなくなります」
ヴェルナー様は、答えられなかった。
答えられないまま、しばらく、私を見ておられた。見ておられる間、ご自身の中で言葉を一度か二度、飲み込まれたのがわかった。
「……俺に、何ができる」
ようやく出た声は、昼間の馬車の中の沈黙によく似ていた。
「隣にいてくださいませ」
私は短く答えた。
「隣にいてくださる、それだけで十分でございます」
ヴェルナー様は、私の顔を、もう一度だけ見られた。
それから、短く、一度頷かれた。
頷きに、納得は半分しか乗っていなかった気がした。けれど、残りの半分を飲み込む力が、この方にはあった。納得しきれないまま、頷く。この方のそういう不器用さを、私は、少しだけ愛おしく感じた。感じてしまったことに、自分で驚いた。
◇
夜遅く、父が書斎の入り口にそっと顔を出した。
「仲裁裁判所の日程が仮に決まった」
短く言われた。
「四日後の朝から、証人尋問の手続きが始まる。最終弁論はその数日後だ」
四日。
私は机の上の、ドラモン卿の論文集の山を見た。まだ読み切っていない巻が、机の右側に積まれていた。一番古い巻から、一番新しい巻まで、藍色の点を打ちながら、まだ途中。
四日。
証人尋問の間にも、夜は来る。夜の間に、私は読む。読まなければならない巻は、まだ残っている。




