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ミッドナイト・フォーチュンテラー  作者: 藍内 射尾
時雨の交差点

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夏の終わりに纏うもの

 夏の終わりに纏うもの

  九月二日。二学期という名の巨大な期間(セクター)が、その幕を開けてから二日目を迎えていた。

 夜の光が丘公園には、新しい日常――あるいは「現実」という名の檻に少しずつ馴染み始めた学生たちの、落ち着きを取り戻した声が満ちている。遠くの広場からは重低音の効いたダンスミュージックが地鳴りのように響き、湿り気を帯びた夜風が、祭りのあとのような寂寥感を孕んだ誰かの笑い声を運んできては消えていった。

  僕はいつものベンチに腰を下ろし、傍らにトランクを広げていた。

 今夜の相棒も、タロットでもルーンでもない。漆塗りの黒い水盆を取り出し、公園の水道から汲んできた水を静かに、縁のギリギリまで注ぐ。秋の始まりの、このひどく曖昧な時間を整理するには、静止した水面に己を映し出すのが一番いいような気がしたからだ。

 街灯の光を呑み込んだ漆黒の鏡には、まだ夏の厚みを残した雲と、不規則に瞬く街の灯が深々と沈み込んでいた。

  「晶くーん!」

  聞き慣れた優子ちゃんの声に振り返ると――今夜の顔ぶれは、昨日までとは少し違っていた。

 彼女とカルラさんが連れてきたのは、見知らぬ誰かではない。昨日と一昨日、この場所で自分の心を「整理」していった二人の人物だった。

  ツカサくんと、アスカさんだ。

  二人は練習着姿の優子ちゃんたちの後ろを、少し遠慮がちに、けれど確かな足取りで歩いていた。ツカサくんは一昨日よりも心なしか背筋が伸びており、アスカさんは昨日よりもその眼差しから険が取れ、足取りが軽く見えた。

  「今日の占い、まだ受付中かな?」

 優子ちゃんが期待に満ちた目で僕を見た。

「ああ。ちょうど準備が整ったところだよ」

「よかった。この二人、どうしてもまた晶くんに会いたいって」

  ツカサくんが一歩前に出て、はにかむように微笑んだ。

「藤崎さん、あの……一昨日は本当にありがとうございました。あのあと、ブレスレットを握りしめながら、久しぶりにぐっすり眠れたんです」

  アスカさんも隣で深く頷いた。

「私も。……あの、お借りした制服、今朝一番にクリーニングに出しました。明日にはきちんとお返しに伺います。でも、今日はそれとは別に、折り入って相談があって」

  僕は軽く頷き、ベンチの隣を手で示した。「座って。二人とも」

  ツカサくんとアスカさんは並んで腰を下ろした。その距離感は、かつて独りで悩んでいた時よりもずっと近く、互いの存在をどこか頼りにしているように見える。

  「……実は」とツカサくんが口を開いた。「昨日、優子さんに無理を言って連絡先を教えてもらって、アスカさんに会わせてもらったんです」

「話してみたら、驚くほど気が合ってしまって」

 アスカさんが少し照れたように続けた。

「それで、二人で決めたんです。自分たちの『本当の姿』を、もっと具体的に形にしてみたいって」

  ツカサくんが膝の上で拳を握りしめる。「僕、もっとちゃんと女の子の格好をしてみたいんです。アクセサリーだけじゃなくて、服も、髪型も」

 アスカさんも真っ直ぐな瞳で僕を見た。「私も、男装をもっと試してみたい。先輩の制服だけじゃなくて、普段の生活の中で纏えるような、私自身の服で」

  二人の瞳には、昨夜までの迷いを焼き切るような、真剣な光が宿っていた。


 僕は水面に映る二人の影を見つめ、少し考えてから言った。「……実は、ちょうど今日、知り合いがここに来る予定なんだ」

「知り合い、ですか?」

「衣装の専門家だよ。僕が今着ているこの夏用ローブを仕立ててくれた人で、着心地のフィードバックを聞きに来るって連絡があった。彼女なら、二人の力になれるかもしれない」

  優子ちゃんが「あ、もしかしてエミさん?」と声を弾ませた。その直後、公園の入り口の方から、夜の静寂を跳ね飛ばすような明るい声が届いた。

  「晶くーん! 待たせたわね!」

  デニムのエプロンを小粋に羽織り、パンパンに膨らんだ大きな布バッグを肩にかけた女性が、颯爽と歩いてくる。僕の祖父が営むアトリエの常連であり、衣装製作に命を懸けているエミさんだ。

  「エミさん、ちょうど良かった」

「あら、優子ちゃんにカルラちゃん。それに……素敵なお客さんたちじゃない?」

 エミさんはツカサくんとアスカさんを一目見るなり、クリエイター特有の鋭くも温かい視線で彼らを観察し始めた。

  僕が簡単にこれまでの経緯を説明すると、彼女の目が一気に、少年のように輝き始めた。

「衣装の相談!? 最高じゃない、それこそ私の本領発揮よ! ねえ、どんな自分になりたいの? どんな景色を纏いたいの?」

  圧倒される勢いに、ツカサくんが戸惑いながらも答える。「……女性らしい服を。でも、あまり派手すぎず、僕の体に馴染むような……」

「なるほどね、ラインを殺さずに『しなやかさ』を作るのね。じゃあ、これなんてどう?」

 エミさんはバッグから、いくつかの衣装写真を取り出した。「シンプルだけど、カッティングで女性的なシルエットを強調するワンピース。私の仲間内でも人気なの」

  ツカサくんの目が、吸い寄せられるように写真に釘付けになった。「……綺麗だ」

  「アスカさんは?」とエミさんが向き直る。

「私は、カチッとした男性のカジュアルを。シャツやジャケットを、自分らしく着こなしてみたいんです」

「いいわね! 実は今日、展示会用のサンプルをいくつか持ってるの。試しに着てみない?」

  アスカさんが驚きに目を見開いた。「本当に、いいんですか?」

「もちろん! 服は着てもらって初めて完成するものよ」

  エミさんは魔法使いのようにバッグから、シワ一つない白いシャツ、深い紺のジャケット、そしてベージュのチノパンを魔法のように取り出した。ツカサくんにも、淡いブルーのワンピースを差し出す。

 二人はそれを受け取ると、導かれるように公園のトイレへと向かっていった。

  「エミさん、助かるよ」

 僕が礼を言うと、エミさんは豪快に笑った。「いいのよ。それより晶くん、ローブの風通しはどう? 二学期のスタートに相応しい『威厳』は保ててる?」

「完璧ですよ。おかげで整理屋としての格好がつきます」

  数分後。戻ってきた二人の姿に、優子ちゃんもカルラさんも、そして僕も、言葉を失って見惚れた。

  ツカサくんは、夜風にワンピースの裾を揺らしながら歩いてきた。淡いブルーが彼の透明感を際立たせ、髪を整えたその姿は、一輪の可憐な花が咲いたかのような清廉さに満ちている。

 アスカさんは、ジャケットを完璧に着こなしていた。白いシャツが街灯の下で眩しく光り、スラックスを履いた足取りは、昨日よりもずっと力強く、大地を支配しているかのように見えた。

  「……似合う。二人とも、嘘みたいに自然だよ」

 優子ちゃんの言葉に、カルラさんも深く頷いた。「本当の自分を見つけるって、こういうことなのね」

  ツカサくんとアスカさんは顔を見合わせ、それから弾けるように笑い合った。

「アスカさん、すごく格好いいです」

「ツカサくんこそ、本当に綺麗。……私たち、出会えてよかった」

  二人はスマホを取り出し、画面を見せ合いながら「次はこれを試そう」と楽しげに約束を交わしている。

 今夜、水盆に何かを浮かべる必要はなかった。二人の晴れやかな姿そのものが、水面を揺らす光よりも鮮やかに、未来を映し出していたから。

  「晶くん、秋用のローブの構想が湧いてきたわ!」とエミさんが上機嫌でバッグを担ぎ直した。「ツカサくん、アスカさん、その服はしばらく貸してあげる。自分に馴染むまで着倒しなさい。もっと良いのが欲しくなったら、いつでもアトリエにいらっしゃい!」

  二人が深く頭を下げる中、エミさんは嵐のように去っていった。

 ツカサくんとアスカさんも、新しい自分を纏ったまま、肩を並べて夜の闇へと消えていった。

  僕は水盆の水を、近くの植え込みへと静かに撒いた。

「二人とも、自分の形を見つけ始めたね」

 優子ちゃんが、夜空に輝く夏の大三角を見上げた。

「うん。でも、これからも迷うことはあるんだろうね。世界はまだ、彼らにとって優しい場所ばかりじゃないから」

「それでも」と、僕は拭き上げた水盆をトランクに収めた。「一緒に迷い、一緒に戦える誰かが隣にいる。それだけで、世界は昨日より少しだけ広くなるはずだよ」

  遠くで、学生たちの笑い声がまた聞こえた。

 夏の終わりと、秋の始まり。その境界線で、新しい物語が産声を上げていた。

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