秋桜のグラデーション
秋桜の濃淡
九月の第一週、週末。
光が丘公園では、駅近くの『四季の香ローズガーデン』が主催する秋のフラワーフェスティバルが開かれていた。色とりどりの花の鉢植えが並び、家族連れや散歩中の人々が足を止めては、秋の訪れを告げる花々を眺めている。
僕もその一角で、コスモスの鉢植えを一つ買った。
風に揺れる淡いピンクの花びら。何気なくそれをひっくり返したとき、裏側に潜む濃淡が目に留まった。濃いピンクから、ほとんど白に近い淡い色まで。
「……これ、使えるかもしれない」
花占いといえば「好き、嫌い、好き、嫌い」と花びらを一枚ずつ毟っていくものだ。
けれど、枚数という「数」で結果が決まってしまうなら、それは最初から答えが見えてしまっているのと同じだ。
それよりも、花びらの裏側に宿る色の濃淡を読み解く方が、今の僕には面白い試みに思えた。
僕はコスモスの鉢植えを小脇に抱えて、いつもの東屋へと向かった。
トランクの水を補給して、それから買ったばかりのこの花にも水をやっておこう。
東屋に着くと、ベンチに一人の男性が座っていた。
三十代前後だろうか。スーツの上着を脱いで膝に置き、ネクタイを緩めている。疲れた表情で、スマホの画面をぼんやりと見つめていた。
僕は軽く会釈して、ベンチの反対側に腰を下ろした。
トランクを開いて、水盆を取り出す。それから水道に向かって、新鮮な水を汲んできた。
水盆に水を注ぎ、それからコスモスの鉢植えにも水をやる。乾いた土が、ゆっくりと音を立てるように水を吸い込んでいく。
「……その花、買ったんですか?」
男性が声をかけてきた。スマホから目を離して、僕の手元をじっと見ている。
「ええ。フェスティバルで」
「こんな都会で花を育てるなんて、珍しいですね」
男性の声には、どこか懐かしむような響きがあった。
「花、好きなんですか?」
僕が訊くと、男性は少し困ったように笑った。
「いえ、今は全然。でも、昔は身近だったんです。田舎の出身で、周りに花がたくさんあって」
「今は?」
「今は、こんな感じです」
男性は自分のスマホを見て、それから深く溜息をついた。
「仕事のことばかり考えて、周りが見えてない」
僕はコスモスの花をもう一度見つめた。
「……占いをしてるんです。もし良かったら」
「占い?」
「花占い。このコスモスを使って」
男性は少し驚いたように僕を見た。
「花占いって、あの『好き・嫌い』のやつですか?」
「少し違います。花びらの裏の濃淡を見るんです」
僕はコスモスの花びらを一枚、そっと毟って裏返した。
濃いピンクから淡い色へ移ろう色が、街灯の光を受けて浮かび上がる。
「……綺麗ですね」
男性が小さく呟いた。
「やってみますか?」
「……はい。お願いします」
男性はベンチの端に座り直した。僕はコスモスの鉢植えを、二人の間の境界線の上に置く。
「何か、整理したいことはありますか?」
「……整理、ですか」
男性は少し考えてから言った。
「最近、ミスが増えてるんです。秋に関東に異動してきて、まだ慣れなくて。前はこんなことなかったのに。焦って、このままじゃ信頼を失うんじゃないかって……自分がダメになってきてる気がして」
男性の声が、少しだけ震えていた。
僕は頷き、コスモスの花を指した。
「この花の花びらを、一枚ずつ毟ってみてください。裏返して、その濃淡を見ながら」
男性は少し戸惑いながらも、花びらに手を伸ばした。
一枚目をそっと毟って、裏返す。
そこには、しっかりとした濃いピンクが宿っていた。
「これは……濃いですね」
「今のあなたの焦りです。強い感情が、ここに出てる」
二枚目を毟る。今度は、少し淡い色。
「これは?」
「迷い。自分が本当にダメなのか、まだ判断がつかない部分です」
そして三枚目。濃淡が複雑に混ざり合っている。
「……これは、色が混ざってる」
「そう。今のあなたは、色が混ざってる時期なんです。濃い部分と淡い部分が、一つの花びらの中で混ざり合っている。それは、変化の途中だから」
「変化の途中……」
「異動して、新しい環境に入った。前の自分と、これからの自分が、まだ混ざり合っている。だからミスも増えるし、焦りも出る。でも、それは色が混ざっているだけで、あなた自身がダメになっているわけじゃない」
男性は、指先の花びらを見つめた。
「……じゃあ、この濃淡は」
「新しい色になる前段階です。濃いピンクから白へ。あるいは、その逆。どちらにしても、今は『途中』なんです」
男性はもう一枚、ゆっくりと花びらを毟った。
四枚目。淡い色の中に、細い筋が一本入っている。
「これは?」
「葛藤。淡く見えても、奥に線が走っている。まだ完全には楽になっていないけれど、少しずつ整理されてきている証拠です」
男性は五枚目、六枚目と、黙って花びらを毟り続けた。
それぞれの裏側をじっと見つめ、何かを考えるように。
最後の花びらを毟り終えたとき、男性は小さく笑った。
「……全部、違うんですね。濃淡が」
「花びらは一枚一枚違う。あなたの日々も、一日一日違うんです」
男性は毟った花びらを、そっと手のひらに並べた。
濃いもの、淡いもの、複雑な模様のもの。
「……前の職場では、毎日が同じだと思っていました。でも、ここに来て、毎日が違うんだと分かった。それが怖かったけれど、これを見ていたら、少し違う気がしてきました」
「違う気?」
「変化しているのは、悪いことじゃないのかもって」
僕は静かに頷いた。
「色が混ざっているのは、次の色になるため。今は見えなくても、そのうち落ち着きます」
男性は手のひらの花びらを、そっと水盆の上に浮かべた。
濃淡の違う欠片たちが、水面にゆっくりと広がっていく。
「……綺麗ですね」
「そうですね」
男性は立ち上がって、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。少し、楽になりました」
「また、困ったら来てください」
「はい。……あの、ちょっと待っててもらえますか」
男性は急いで東屋を出ていった。フェスティバルの方へ走っていく背中が見える。
僕は水盆に浮かんだ花びらの模様を眺めながら、待っていた。
数分後、息を切らして男性が戻ってきた。両手に、コスモスの鉢植えを一つずつ抱えている。
「これ」
男性は一つを僕に差し出した。
「占い代として。それと、もう一つは、自分でも育ててみようと思って」
僕はその鉢植えを受け取った。淡いピンクの花が、風に揺れている。
「自分でも?」
「はい。毎日見ていたら、変化に気づけるかもしれないと思って。花びらの色が、少しずつ変わっていくのを、見てみたいんです」
僕は少しだけ笑った。
「いいと思います。水は毎日。でも、多すぎないように」
「分かりました。大事に育てます」
男性はスーツの上着を羽織り、コスモスを抱えて東屋を出ていった。その足取りは、さっきよりずっと軽く見えた。
僕は手元の二つのコスモスを見た。
自分で買ったものと、今もらったもの。
どちらも、淡いピンクの花を凛と咲かせている。
遠くで、フェスティバルの賑やかな声がまだ聞こえていた。
秋の夕暮れ。風が、少しずつ冷たくなり始めている。
僕は二つのコスモスの鉢植えを、トランクの横に並べた。
これから、少しずつ育てていこう。
まだ使える花びらが、たくさん残っている。




