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ミッドナイト・フォーチュンテラー  作者: 藍内 射尾
時雨の交差点

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夏の終わりに沈むもの

 夏の終わりに沈むもの


 九月一日。二学期という名の巨大な期間(セクター)が、その幕を開けていた。

 夜の光が丘公園には、今日から始まる日常――あるいは「現実」という名の檻を前にした学生たちの、憂いを帯びた声が満ちている。遠くの広場からは重低音の効いたダンスミュージックが響き、湿り気を帯びた夜風が、誰かの低い嘆き声を運んできては消えていった。

 僕はいつものベンチに腰を下ろし、傍らにトランクを広げていた。

 今夜の相棒も、タロットでもルーンでもない。使い込まれたトランクの奥から、漆塗りの黒い水盆を取り出す。秋の始まりの、このひどく曖昧な時間を整理するには、水に浮かべて読むのが一番いいような気がしたからだ。

 ベンチの横に置いた水盆に、公園の水道から汲んできた水を静かに注ぐ。

 水面が落ち着くのを待つと、街灯の光を呑み込んだ漆黒の鏡が現れた。そこには、暮れなずむ空と、不規則に瞬く街の灯が静かに沈み込んでいる。

「晶くーん!」

 聞き慣れた声に振り返ると、優子ちゃんとカルラさんが、見知らぬ誰かを連れてこちらへ歩いてくるところだった。二人とも練習用の身軽な格好で、その額には真夏の余韻のような汗が光っている。

「今日の占い、まだ受付中かな?」

 優子ちゃんが少し息を切らしながら、期待のこもった目で僕を見た。

「ああ。ちょうど準備が整ったところだよ」

「よかった。この子、なんだかひどく悩んでるみたいでさ。話、聞いてあげてくれない?」

 優子ちゃんの後ろから、一人の人物が躊躇いがちに顔を出した。

 二十代半ばほどの女性だった。落ち着いたベージュのブラウスに整えられた髪。一見すればどこにでもいる「大人の女性」だが、その眼差しには、自分の内側に鋭い刃を向けているような危うい緊張感があった。

「ダンスを見学に来てたんだけどね」とカルラさんが低い声で補足した。「私のダンスを見てからずっと、何かを堪えているみたいで。晶なら、何か言葉をかけられるんじゃないかと思って」


 僕は軽く頷き、ベンチの隣を手で示した。

「座って。……名前を訊いてもいいかな?」

「...アスカです」

 それは、どこか自分を律しようと強張った、静かな声だった。

  「僕は藤崎晶。ここで『整理屋』、あるいは占い師のようなことをしている。話したくないことは無理に話さなくていい。まずはゆっくり呼吸をして、リラックスして」

 僕が努めて穏やかに言うと、アスカさんは少しだけ肩の力を抜き、ベンチの端に腰を下ろした。優子ちゃんとカルラさんは、邪魔にならないよう少し離れた位置で、祈るような目で見守っている。

  「今夜も水面占断(ハイドロマンシー)をしようと思っているんだ。昨夜は『浮くもの』を読んだけど、今夜はどうなるか」

 僕は足元の水盆を指し示した。

「何か、身につけているものはあるかな? 自分の肌に一番近いところにある、装飾品とか」

  アスカさんは戸惑ったように、細い自分の耳元に手をやった。そこには、街灯の光をか細く反射する淡い乳白色のピアスがあった。

「……これで、いいんでしょうか。彼に贈られた、ムーンストーンのピアスです」

「うん。それを、この水面にそっと浮かべてみて」

  アスカさんが震える指で留め金を外し、ピアスを水盆の縁に置いた。それから、消え入りそうな指先で軽く押し出す。

 その瞬間、奇妙なことが起きた。

 昨夜の銀のブレスレットが軽やかに舞ったのとは対照的に、重いムーンストーンの部分が、拒絶を物語るように水底へ沈み込んだのだ。しかし、銀のフック部分だけが水面に必死に食らいついている。

 石と金具が、水面という境界線の上で、互いを引き裂こうと残酷な綱引きを繰り広げていた。

  「何を、整理したい?」

 僕は水面に映る光の歪みを見つめたまま、静かに問いかけた。

「……自分が、壊れそうなんです。ひどく、息ができなくて」

  「どうして、そう思うんだい?」

「彼が求める『女性らしさ』。可愛くて、髪が長くて、いつも一歩後ろで微笑んでいる私。それが幸せなんだって、自分に言い聞かせてきました。でも、その『正解』の中にいると、どんどん自分が透明になって、沈んでいくみたいで……」

  言葉が、涙の予感に詰まって途切れる。

 僕は水盆の中をじっと見つめた。ムーンストーンは深淵へと沈もうとし、銀の金具は必死に光を求めて浮こうとしている。

  「アスカさん。このピアスを見てごらん。ムーンストーン――月は古来より女性性の象徴だ。柔らかくて、受動的で、母性的。それは世間が、あるいは彼が君に期待している『理想の偶像』だよ。その期待の重さが、今、君を深い底へ引きずり込もうとしている」

  「……はい。重いんです。この石が、私には」

  「でも、金具は浮いている。細くて、鋭くて、どこか頑固なまでの金属の意志だ。こいつが『まだ死ぬな』と、君という存在を現世《水面》に繋ぎ止めている。君がカルラさんのダンスに惹かれたのは、君の魂がその金属のように、強く、激しく、自律して立ちたいと叫んでいるからじゃないのか?」

  アスカさんの目から、溜まっていた雫が溢れ、膝の上に落ちた。

「……私は、女なのに。こんな、可愛くない感情を持っていいんでしょうか」

「女とか男とかいう外郭(ラベル)を剥がした後に残るのが、君の本当の形だ。昨夜の彼は、自分の中に『美しさ』を見つけて浮き上がった。なら、君が自分の中に『強さ』を見つけて浮き上がっても、誰にも文句は言わせない」

  優子ちゃんが歩み寄り、優しい声で言った。

「アスカさん。あなたが何を選んでも、その魂はとても素敵だと思うよ」

 カルラさんも静かに頷く。「その瞳を、どうか恥じないで」

  優子ちゃんが不意に僕のトランクを覗き込んだ。

「ねえ、晶くん。今日、学校の制服持ってるんでしょ? ……アスカさん、ちょっとこれ、着てみませんか?」

「え……? 男子生徒の制服を、私が?」

「試しに。闇が隠してくれるから」

  僕は黙ってトランクから、畳まれたままのブレザーとスラックスを取り出した。

「公園のトイレで着替えてきて。今の君を整理するための、一つの試作だ」

  数分後、戻ってきたアスカさんの姿に、僕たちは息を呑んだ。

 白いシャツに紺のズボン。少し大きめのサイズが、かえって彼女の凛とした骨格を浮き彫りにしていた。髪を後ろで束ねた彼女の表情は、先ほどまでの「沈みゆく人」のそれではない。

  「……なんだろう、これ。すごく、楽。息が、肺の奥まで入ってくる」

  僕は水盆を見た。ピアスは相変わらず揺れている。けれど、金具の輝きが、沈もうとする石を力強く牽引しているように見えた。

  「アスカさん。石――つまり他人の期待を完全に捨てる必要はない。でも、その金具の強さを、もう自分に隠さないでいい。浮きたがっている自分を、許してあげて」

  「……ありがとうございました。藤崎さん。僕、もう少しだけ、この感覚を持ったまま歩いてみます」

  「僕」と、彼女は言った。無意識か、あるいは意志か。

 僕は制服を貸したまま、彼女を送り出した。男子制服を纏った彼女の背中は、どんなムーンストーンよりも鮮やかに夜の闇を切り裂いていた。

  「晶くん、ありがとう。あの人の心、少しだけ『浮上』できたみたいだね」

「どうかな。現実は、明日からも容赦なく続くからね」

 僕は水盆の水を撒き、漆黒の底を拭き上げた。

  「でも、自分の中に『沈まない意志』があると知った人間は、昨日までよりは少しだけ、高く跳べるはずだ」

  水盆をトランクに収める。

 見上げた夜空には、秋の気配を孕んだ星々が、冷たく澄んだ光を放ち始めていた。

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