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ミッドナイト・フォーチュンテラー  作者: 藍内 射尾
時雨の交差点

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夏の終わりに浮かべるもの

夏の終わりに浮かべるもの

 八月三十一日。夏休みという名の巨大な空白(ブランク)が、その幕を閉じようとしていた。

 夜の光が丘公園には、明日から始まる日常――あるいは「現実」という名の檻を前にした学生たちの、熱を帯びた声が満ちている。遠くの広場からは重低音の効いたダンスミュージックが響き、湿り気を帯びた夜風が、誰かの甲高い笑い声を運んできては消えていった。

 僕はいつものベンチに腰を下ろし、傍らにトランクを広げていた。

 今夜の相棒は、タロットでもルーンでもない。使い込まれたトランクの奥から、漆塗りの黒い水盆を取り出す。夏の終わりの、このひどく曖昧な時間を整理するには、水に浮かべて読むのが一番いいような気がしたからだ。

 ベンチの横に置いた水盆に、公園の水道から汲んできた水を静かに注ぐ。

 水面が落ち着くのを待つと、街灯の光を呑み込んだ漆黒の鏡が現れた。そこには、暮れなずむ空と、不規則に瞬く街の灯が静かに沈み込んでいる。

 「晶くーん!」

 聞き慣れた声に振り返ると、優子ちゃんとカルラさんが、見知らぬ誰かを連れてこちらへ歩いてくるところだった。二人とも練習用の身軽な格好で、その額には真夏の余韻のような汗が光っている。

 「今日の占い、まだ受付中かな?」

 優子ちゃんが少し息を切らしながら、期待のこもった目で僕を見た。

 「ああ。ちょうど準備が整ったところだよ」

 「よかった。この子、なんだかひどく悩んでるみたいでさ。話、聞いてあげてくれない?」

 優子ちゃんの後ろから、一人の人物が躊躇いがちに顔を出した。

 肩まで伸びた艶やかな髪、折れてしまいそうなほど華奢な体つき、そして長い睫毛に縁取られた伏せがちな瞳。その中性的な容姿は、夜の闇の中では性別の境界をひどく曖昧にさせていた。

 「ダンスを見学に来てたんだけどね」とカルラさんが低い声で補足した。「ずっと何かに怯えているみたいに元気なくて。晶なら、何か言葉をかけられるんじゃないかと思って」

 僕は軽く頷き、ベンチの隣を手で示した。

 「座って。……名前を訊いてもいいかな?」

 「……ツカサ、です」

 それは、微かな震えを孕んだ小さな声だった。周囲を警戒しているというより、自分の存在そのものを周囲から隠したいと願っているような、脆い響きだ。

 「僕は藤崎晶。ここで『整理屋』、あるいは占い師のようなことをしている。話したくないことは無理に話さなくていい。まずはゆっくり呼吸をして、リラックスして」

 僕が努めて穏やかに言うと、ツカサくんは少しだけ強張っていた肩の力を抜き、ベンチの端に腰を下ろした。優子ちゃんとカルラさんは、邪魔にならないよう少し離れた位置で、祈るような目で見守っている。

 「今夜は水面占断(ハイドロマンシー)をしようと思っているんだ」

 僕は足元の水盆を指し示した。

 「何か、身につけているものはあるかな? 自分の肌に一番近いところにある、アクセサリーとか」

 ツカサくんは戸惑ったように、細い自分の手首に目をやった。そこには、街灯の光をか細く反射する銀のブレスレットがあった。

 「……これで、いいんでしょうか」

 「うん。それを、この水面にそっと浮かべてみて」

 ツカサくんが震える指で留め金を外し、銀の鎖を水盆の縁に置いた。

 それから、消え入りそうな指先で軽く押し出す。

 表面張力ひょうめんちょうりょくに支えられた銀の鎖は、波紋を一つ描いた後、黒い水面を滑るように漂い始めた。

 「何を、整理したい?」

 僕は水面に映る光の歪みを見つめたまま、静かに問いかけた。

 長い沈黙が流れた。ツカサくんは膝の上で両手をきつく握りしめ、やがて搾り出すような声で言った。

 「……自分が、嫌いなんです。ひどく、気持ち悪いものに思えて」

 優子ちゃんが小さく息を呑む音が聞こえた。

 「どうして、そう思うんだい?」

 「僕は……男なんです。でも、女の子が着るような服や、綺麗なアクセサリーが好きで。それを……学校で見つかってから、ずっと……」

 言葉が、涙の予感に詰まって途切れる。

 「否定されたんだね」

 「……はい。バイ菌みたいに扱われて。僕がおかしいんだって、みんなが」

 僕は水盆の中をじっと見つめた。

 銀のブレスレットは、ゆっくりと円を描きながら漂っている。それは深淵へ沈み込むこともなく、かといって軽薄に跳ねることもなく、ただ水の上という「境界」を静かに保っていた。

 「ツカサくん。このブレスレットは、君にとってどんな意味がある?」

 「……中学のときの友達が、くれたものです。これだけは、捨てられなくて」

 「その友達は、君が綺麗なものを好きだと知っていたのかい?」

 「……はい。でも、その子は『ツカサにはそれが似合うよ』って、笑ってくれました。普通に、接してくれたんです」

 僕は水盆の銀光を指差した。

 「見てごらん。このブレスレットは、沈まない」

 ツカサくんが、吸い寄せられるように水面を見つめる。

 「沈まないのは、君を想う友達の言葉や、君自身がこれまで大切にしてきた感覚が、ちゃんと形を持っているからだ。それは誰かに『おかしい』と投げつけられた石よりも、ずっと確かな質量を持ってここに浮いている」

 「……でも、みんなは」

 「学校の人たちは、この水の外側にいる。君という水盆の外側で、好き勝手な騒音を鳴らしているだけだ。でもね、ツカサくん。外の嵐がどれほど激しくても、この水盆の中にある君の純粋な領域までは侵せない」

 僕は彼の潤んだ瞳を真っ直ぐに見返した。

 「沈まない限り、それは君の宝物だ。無理に自分を愛さなくていい。ただ、今この水の上で輝いている銀色が、君自身の真実だってことだけを見ていればいいんだ」

 ツカサくんの目から、溜まっていた雫が溢れ、膝の上に落ちた。

 「……そんなふうに、言ってもらえるなんて」

 水盆の中で、ブレスレットはゆっくりと回り続けている。

 それはまるで、周囲の騒音を寄せ付けない、冷たくて美しい結界のようにも見えた。

 「ツカサくん、私たちはあなたの味方だよ」

 優子ちゃんが歩み寄り、優しい声で言った。

 「あなたが何を選んでも、その感性はとても素敵だと思う」

 カルラさんも静かに頷く。

 「ダンスを見ていた時のあなたの目は、誰よりも真剣だった。美しいものを捉えようとするその瞳を、どうか恥じないで」

 ツカサくんは二人を見上げ、それから自分の手首に戻ってきた銀のブレスレットを愛おしそうになぞった。

 僕がタオルで丁寧に水気を拭き取り、彼に返すと、その手に伝わる微かな震えは止まっていた。

 「……ありがとうございました。藤崎さん。僕、もう少しだけ、このブレスレットを持ったまま歩いてみます」

 「また、整理が必要になったらおいで。水面を整えて待ってるよ」

 ツカサくんは深々と一礼し、公園の出口へと歩き出した。

 その細い背中は、最初に出会った時よりも、幾分か誇らしげに夜の闇を切り裂いているように見えた。

 「晶くん、ありがとう」

 優子ちゃんが僕の隣に座り、夜空を見上げた。「あの子の心、少しだけ『整理』されたみたいだね」

 「どうかな。現実は、明日からも容赦なく続くからね」

 僕は水盆に張った水を、近くの植え込みへと静かに撒いた。

 「でも、自分の中に沈まないものがあると知った人間は、昨日までよりは少しだけ、呼吸が楽になるはずだ」

 遠くで、最後の夜を惜しむ学生たちの笑い声がまた聞こえた。

 明日になれば、僕も彼らも、再びあの窮屈な教室へと戻っていく。

 水盆を拭き上げ、トランクに収める。

 見上げた夜空には、秋の気配を孕んだ星々が、冷たく澄んだ光を放ち始めていた。

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