盛夏の避難所
夏の終わりに、もう一歩
翌日も、僕は美術室に向かった。
占術道具を持って、という名目だったが、正直なところ、天野のデザイン案の続きが気になっていた。
「来ると思ってたよ」
天野は作業台に大判の紙を広げていた。昨日のラフスケッチが、一晩で随分と形になっている。目隠しをされた少女が、剣の森の中で足元を見つめている。
「良くなったね」
「お前のカードのおかげだ」
天野は照れもせずに言った。「今日は小アルカナのスート別のキャラクターデザイン案を見てほしい。四人の主人公、みたいな感じで」
机の上に、四枚のラフが並んでいた。
ワンドの人物は、スマホを片手に走っている少年。カップの人物は、イヤホンをして目を閉じた少女。ソードの人物は、ペンを構えて何かを書き留めようとしている青年。ペンタクルの人物は、手のひらに小さなコインを乗せて眺めている女性。
「それぞれのスートの性質を人物に落とし込んだ。火、水、風、土」
僕はしばらく四枚を見比べた。
「ペンタクルの女性、もう少し地に足がついた感じにした方がいい。今は少し夢見がちに見える。ペンタクルは現実と物質の元素だから、もっと重心を下に」
「ああ、確かに。浮いてるな」
「ワンドの少年はいい。動きがある。カップの少女も、内側に向かう感じが出てる」
「ソードは?」
僕はソードの青年を手に取った。ペンを構えた、鋭い目つきの人物。
「……少し頭でっかちに見える。ソードは思考だけど、思考は感情と切り離せない。鋭さだけじゃなくて、その下に何か痛みがあると、もっとリアルになる」
天野は黙って聞いていた。それから「なるほど」と呟いて、鉛筆を走らせた。ほんの数本の線で、青年の眉に微かな緊張が加わった。
「これだ」
「うん。それがいい」
しおりが後ろから覗き込んだ。
「……先程の指摘、小説にも使えそうです」
「どの部分?」
「思考は感情と切り離せない、という部分です。私が書けなかったのも、思考だけで感情を描こうとしていたからかもしれません」
天野が「また何か掴んだな」という顔でしおりを見た。
しおりは気づいていないのか、メモ帳に書き込み続けている。
「藤崎」と天野が言った。
「夏コミ、八月の後半なんだけど。終わったら報告に来ていいか」
「もちろん。何部刷るんだ?」
「大アルカナ編を百部。小アルカナ編は来年の冬コミで出せたら、と思ってる」
「冬コミまでに小アルカナ五十六枚、描き切れる?」
「お前が監修してくれるなら、たぶん」
僕は少し笑った。
「分かった。夏コミ終わったら感想も聞かせてくれよ。どんなカードが反応よかったか」
「それ面白そうだな。読者がどのカードに共鳴するか、ってことか」
「タロットはね、使われ続けることで意味が育つんだ。天野のデッキも、誰かの手に渡って初めて完成する」
天野はしばらく黙って、四枚のラフを見つめた。
「……そういう言い方をされると、急に責任感じるな」
「それでいいと思うよ」
帰り際、しおりが僕の袖を引いた。
珍しいことだったので、僕は少し驚いて振り返る。
「……一枚、引いてもいいですか」
「今?」
「はい」
僕はカードの束を差し出した。しおりは昨日より迷わず、すっと一枚を引いた。
『カップの一』。光の溢れる杯が、雲の上に浮かんでいる。
「カップの一。感情の始まり、新しい何かが注がれる予感」
しおりはカードを見つめた。少しの間、黙っていた。
「……昨日より、何か感じる気がします」
「どんな感じ?」
「うまく言えません。でも、何も起きないわけじゃない」
それだけ言って、しおりはカードを僕に返した。
表情はいつも通り、無表情に近い。でも眼鏡の奥の目が、昨日とは少し違う気がした。
「少しずつでいいよ」と僕は言った。「染み込むのに時間がかかる人もいる」
「効率が悪いですね」
「うん。でも、そういうものだから」
しおりは少し間を置いてから、僕を真っ直ぐに見た。
「……先輩。改めてお願いがあります」
「なに?」
「部誌への寄稿です。部長からの伝言はすでにお伝えしていますが、私からも正式にお願いします」
僕は少し眉を上げた。
「改めて、というのは」
「私が書くからです」
しおりは淡々と、しかし迷いなく続けた。
「私が書くので、先輩も書いてください。エッセイで構いません。占いについてでも、象徴についてでも。先輩が言葉にしてきたことを、そのまま書けばいい」
僕はしばらく黙った。
「……瀬戸さんが書くと決めたから、僕にも書けと?」
「そうです。一人では心許ない」
天野が遠くから「おい、それ口説き文句か」と言った。
しおりは振り返りもしなかった。
「……分かった」
僕は小さく笑った。
「書くよ。瀬戸さんが書き上げたら、僕も書く」
「順番が逆です。先輩が先に書いてください。私のモチベーションに関わります」
「それはずいぶん率直だね」
「事実ですから」
美術室を出ると、廊下には西日が差し込んでいた。
夏休みも、あと半分を切っている。
「先輩」としおりが言った。
「うん」
「部誌の、書けなかった場面。今夜、もう一度書いてみます」
「うまくいくといいね」
「うまくいくかどうかは分かりません。ですが、試みる価値はある気がします」
それはしおりにしては、ずいぶん曖昧な言い方だった。
僕は何も言わずに、廊下を並んで歩いた。
図書室に戻ると、閲覧机の前に一人の生徒が座って待っていた。
僕の顔を見るなり、立ち上がって近づいてくる。
「晶センセ、いますか。相談があって」
「いるよ」
僕は占術道具の入ったバッグを肩にかけ直した。
「座って。聞くよ」
窓の外では、蝉の声がまだ降り注いでいる。
夏はもう少し、続きそうだった。




