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ミッドナイト・フォーチュンテラー  作者: 藍内 射尾
閑話:盛夏の避難所

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43/48

自由へのラフスケッチ

 ```

 しおりは作業台の端に、まるで精密機械が停止したかのような静けさで腰を下ろし、熱心にメモ帳を開いていた。

 昨日書き留めたはずのページを、指先でなぞるようにして何度も最初から読み返している。

「感情は燃料」「触れてみる」「余白」――僕が提示した抽象的な概念(ロジック)が、彼女の几帳面な、角の立った文字で整然と並んでいた。


 意味の定義そのものは、おそらく完璧に脳内へ格納されているのだろう。

 だが、書けていない。ペンを握ったまま微動だにせず、白紙の(プレッシャー)に射すくめられたような彼女の背中が、その行き詰まりを雄弁に物語っていた。


「なんか難しい顔してるな」

 天野が絵具の斑点が飛んだ手をタオルで拭いながら、横からひょいと覗き込んだ。

「昨日からずっと、その一ページと睨み合ってるじゃないか。キャンバスの地塗りでもしてるのかと思ったよ」


「……見ていたんですか」

 しおりが、防衛反応のようにわずかに肩をすくめる。

「当然です。部誌用の小説を、目下執筆中(ビルドアップ)ですので。無駄な時間は一秒もありません」

「その割には、筆が止まってるように見えるけど。インク切れか、それとも頭のヒューズが飛んだか?」


 しおりは少しの間を置いてから、自らの思考のバグを認めるように、観念した口調で話し始めた。

「登場人物が、大切な誰かを喪って悲しんでいる場面があります。悲しみの定義なら、辞書的にも医学的にも理解しています。喪失に伴う急性の情動反応、セロトニン欠乏による認知的評価の低下、および社会的引きこもり行動の増加……。ですが、いざそれを作中の描写(コード)に落とし込もうとすると、なぜか記号的で、驚くほど平板な文字列にしかならないんです」


 天野が僕の方を振り返り、困惑を隠しきれない様子で眉をひそめた。

「……おい藤崎。こいつ、小説を執筆するのに定義(スペック)から書き始めてるのか?」

「他に有効な方法が分かりません。正解を正確に記述するには、既知の公式(フォーマット)をなぞるのが一番確実ですから」


 しおりの断固とした回答に、天野は絶句したように黙り込み、助けを求めるような視線を僕に投げた。

 僕は指先でカードの角を揃え、その規則的な感触を確かめながら、二人の対話(セッション)を静かに傍聴していた。


「藤崎、お前の出番だ。なんとか言ってやってくれよ」

「……聞こえていたよ。最初からね」


 僕はしおりのメモ帳を一瞥し、情報の海で溺れかけている彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「瀬戸さん、一つ確認させてほしい。昨日、僕が『感じてみて』という課題を出したとき、君は具体的にどんな工程(プロセス)を踏もうとした?」


 しおりは脳内のデータベースを検索するように、視線を斜め上へと彷徨わせた。

「悲しみという情動について書かれた心理学の文献を三冊、臨床事例の論文をいくつか走査しました。……ですが、依然として出力に変化はありません」

「それは『感じる』ことじゃない。ただの検索(サーチ)だよ」


 図書室の空気が、ふっと冷えたような沈黙が落ちた。

 しおりは反論を試みようとしたが、唇を微かに震わせただけで、適切な反論の語彙を見つけられない様子だった。

「……私には、その二つの行為の差異(しきい値)が、よく分からないんです」


 天野が少し驚いたような顔をして彼女を見つめた。

 常に完璧な論理の鎧を纏っているしおりが、自分の不全感をこれほどまでに剥き出しの弱音として吐露するのは、僕にとっても予想外の出来事だった。


 僕は手元の山から、一枚のカードを抜き出した。――『聖杯(カップ)の三』。

 三人の人物が黄金の杯を高く掲げ、豊かな実りの中で喜びを分かち合っている、色彩豊かな絵柄だ。

「これを見て、君の中にどんな反応(フィードバック)が起きる?」


「祝祭の場面ですね。三という数字は共同体の最小単位であり、結束を示すカードです。意味としては、喜び、友情、あるいは収穫(リザルト)を――」

「それも頭の言葉だ」


 僕の声が、彼女の精緻な説明を物理的に断ち切るように響いた。


「定義の話をしているんじゃない。このカードの色や、人物の表情、突き抜けるような青空を視界に入れたとき、君の胸の奥で何かが波立つか? それとも、ただのインクの塊としてしか認識できないか?」


 しおりは、まるで未知の数式を解読するかのような真剣な眼差しで、カードを凝視した。

 満面の笑顔、掲げられた杯、足元に咲き乱れる花々。

「……何も、起きません。心拍数も、体温も、情動(パルス)も、一切の変化を検知できません」

「正直に言えたね。それは、自分の現在地を認めるという、とても大事な第一歩だよ」


 天野が「へえ……」と、感心したように、あるいは呆れたように小さく息をつく。


小アルカナ(マイナー・アルカナ)はね」

 僕はカードを指先で滑らせ、テーブルの上に並べ替えながら解説を続けた。

大アルカナ(メジャー・アルカナ)が、神話や宇宙といった抗えない大きな運命(マクロ)を語るなら、小アルカナはもっと泥臭い、僕たちの足元にある日常の話をするんだ。喉の渇きや、指先の熱、毎日の些細な心の揺らぎを扱う」


「先程の占いで示されていた、四つのカテゴリですね。カップ、ソード、ペンタクル、ワンド」

「そう。四つの種札(スート)は、世界を構成する四元素(エレメンツ)に直結している。聖杯(カップ)は形を変え続ける水、すなわち感情。(ソード)は不可視の風、冷徹な思考。(ワンド)は燃え上がる火、生命の情熱。金貨(ペンタクル)は固い土、手触りのある現実」


 天野がその言葉に触発されたのか、傍らのスケッチブックを奪い取るように引き寄せた。

「夏コミの新刊、小アルカナも擬人化して描こうと思ってたんだ。大アルカナであれだけ現代風に翻案(アレンジ)したんだから、この四つの属性なら面白いデザインが描けそうだな」

「いい試みだと思うよ。最初から全部を網羅しようとしなくていい。スートが持つ手触りを掴めば、あとはそこに重なる『数字』が勝手に物語を紡ぎ出してくれる」


 しおりが、伏せていた顔を勢いよく上げた。

「数字が……物語を生成するんですか?」


「一がすべての始まりで、十が事象の極点。その間には明確な段階(シーケンス)がある。例えば五は衝突による葛藤(コンフリクト)、六は均衡による調和(ハーモニー)、九は完成直前の張り詰めた緊張。スートという属性と、数字という段階を掛け合わせるだけで、そこには一つの具体的な情景が浮かび上がるんだ」

「……システムとして、驚くほど美しいですね。四元素と十進法のマトリックスによって、五十六通りの状況を自動生成できるわけですか」


「でも」と、僕は彼女の思考が再び数式の中に逃げ込まないよう、釘を刺した。

「その五十六通りの定義をすべて暗記したところで、目の前の人間を占うことはできないんだよ」


 しおりのペン先が、紙面の上でピタリと止まった。

「……なぜですか。変数をすべて把握すれば、解は導き出せるはずです」


「カードはあくまで状況を示す静止画(フレーム)に過ぎない。それを動かすのは、読み解く側の血の通った感覚なんだ。昨日の『カップの六』を覚えているかい? あの子が『似顔絵を描こう』と言い出したとき、あれはカードの解説書から引用した言葉じゃなかった。……カードに描かれた無邪気な子供の姿を見た彼女の瞳から、濾過(ろか)されずに溢れ出した純粋な意志だったんだ」


 しおりはゆっくりと、まるで聖書を閉じるような手つきでメモ帳を閉じた。


「俺もさ、最初デザインするときは、タロットの象徴の意味を片っ端から調べ上げたんだ」

 天野が鉛筆を回しながら、自嘲気味に笑う。

「でも、知識を詰め込めば詰め込むほど、キャンバスが怖くなって絵が描けなくなった。正しい形、正しい意味……そんなものに縛られてさ」

「……どうやって、その停止状態(フリーズ)を解除したんですか」

「藤崎に、『一回全部ゴミ箱に捨てろ』って言われたんだ。そしたら、不思議なもんで、手が勝手に動き出した。頭じゃなくて、指先が覚えてたんだよ」


 しおりが、縋るような、あるいは疑うような複雑な眼差しを僕に向けた。

「先輩……それは論理的な矛盾を孕んでいませんか。苦労して学んだ体系を捨てるなら、最初から学ぶ意味そのものが消失してしまう」


「矛盾なんてしていないよ」

 僕は静かに首を振った。

「学び、細胞の隅々まで染み込ませ、そして意識の表層からは忘れる。その順序(シーケンス)が何より大切なんだ。知識が『体』の一部となったとき、それは初めて、思考を介さない鋭い直感として機能し始めるんだから」


「知識が……体に入る……」

 しおりは、自らの白く細い手を見つめた。ペンを握る指先に力を込め、しばらくの間、時が止まったかのように動かなかった。


「それが、先輩の言う『感じる』ということの定義(アウトライン)ですか」

「答えに近いかもしれないね」


「私には」

 しおりの声は、図書室の冷房の音にかき消されそうなほど静かだった。

「その変容のプロセスが、まだ理解の範疇を超えています。外部から情報を入力することは容易です。ですが、それが肉体に浸透し、感覚へと変換(コンバート)されるという現象が、どういう感覚を指すのか……」


 僕は整理し終えたカードの束を、しおりの目の前に差し出した。

「一枚だけ、引いてごらん。意味の検索を止めて」

「意味を検索せずに引く、というのは、ランダムサンプリングをしろと?」

「いいや。ただ、君の指先が『触れたい』と感じた一枚を、そのまま抜き出すだけだ」


 しおりは数秒間、カードの裏側の幾何学模様を凝視し、それから意を決したような迷いのない動作で、中央よりやや左の一枚を抜き出した。

 ――現れたのは『(ソード)の八』。目隠しをされ、泥濘の中に立ち尽くす人物が、八本の鋭利な剣によって包囲されている不穏な絵柄だ。


 僕はそのカードの内容を確認し、わずかに目を細めた。

「……なぜこれを選んだか、心当たりはあるかな?」


 しおりは絵柄の細部を食い入るように見つめた。視界を奪われた人物、四方を囲む冷徹な刃。だが、よく見ればその足元は縄で縛られてはおらず、本人が一歩踏み出しさえすれば、いつでもその包囲網を抜け出せる余地がある。

「……論理的な理由は説明できません。ですが」

「ですが?」

「何か……ひどく懐かしいものを見た気がしました。この、動けないふりをして自分を閉じ込めている、窒息しそうな閉塞感(フィードバック)に」


 天野が横から身を乗り出した。

「ソードの八か。……これ、今の状況だとどういう意味になるんだ?」

思考の束縛(セルフ・バインド)

 僕は短く答えた。

「自分自身の理屈で、自分を身動きできなくさせている状態。でも、目隠しの下にある瞳を開きさえすれば、いつでも自由になれる。……そういう暗示(シグナル)だ」


 濃密な沈黙が、三人の間に流れた。しおりは瞬きも忘れ、カードに描かれた囚われの人物から目を離さなかった。

「……先輩。これは、きっと脳内の検索エンジンで選んだんじゃないと思います。……多分」


 僕は何も答えず、ただ微かに口角を上げた。

 西日に照らされた図書室の窓から、オレンジ色の光が差し込み、机上のカードを鮮やかに、そして残酷なほど明瞭に照らし出している。


 天野は、取り憑かれたような手つきでスケッチブックに鉛筆を走らせ始めた。

 後に見せてもらったそのページには、目隠しをされたまま自らの足元――そこにあるはずの自由――を見つめ、震える唇で何かを語り出そうとする少女の、生々しい素描(ラフスケッチ)が刻まれていた。```


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