感情と創造
「次、私も……いいですか」
男子部員が晴れやかな顔で作業台から離れると、入れ替わるように、昨日図書室に来た女子部員が一歩前に出た。
さっきまで壁際で腕を組んで見ていた子だ。表情は硬い。
「もちろん。座って」
僕は彼女に向かい合う形で椅子を引いた。
「えっと……」
彼女はカードの束をちらりと見てから、視線を落とした。「最近、絵が描けなくて。部誌の締め切りも迫ってるのに、全然手が動かないんです」
「いつ頃から?」
「……梅雨明けくらいから」
天野が少し眉を上げた。何か思い当たることがあるのかもしれないが、口は挟まない。
「他に何か、その頃から変わったことはある?」
彼女は少しの間、黙った。「……好きな人ができました」
「なるほど」
「なんか、その人のことばっかり考えちゃって。絵を描こうとしても、気づいたら全然関係ないことを考えてて。感情に振り回される気がして、それが嫌で」
しおりが傍らでわずかに身を乗り出した。
「振り回される、というのは具体的にどういう状態ですか。集中力が持続しない? それともイメージが湧かない?」
「し、しおり先輩……?」
「純粋に興味があります。続けてください」
女子部員は少し面食らいながらも、続けた。
「どっちもです。描き始めても、途中でぼうっとしちゃうし、何を描きたいのかも分からなくなってきて」
僕はカードの束を差し出した。「シャッフルして。今の自分の気持ちをそのまま乗せながら」
彼女がカードを混ぜ終えると、僕は五枚を引いて、作業台の上に展開した。
中央に一枚。その上下左右を囲うように四枚。
|簡易十字法《ギリシャ十字・スプレッド》――直面している問題を多角的に分析するための配置だ。
「今日は少し多めに使うよ。上が現状、左が障害、下が過去の影響、右がアドバイス。そしてこの四枚が囲んでいる中央が、最終的な結果だ」
一枚目、上。――『聖杯の二』。二人の人物が杯を交わしている。
「現状はカップの二。感情的な結びつき、相互理解の始まり。君の中に誰かへの想いがある。それは本物だ」
二枚目、左。――『剣の九』。暗闇の中、頭を抱えて座る人物。
「障害を示す左側は、ソードの九。思考の暴走、自分で自分を追い詰めている状態。感情を持つことへの罪悪感が、君の手を止めている」
女子部員がはっとしたように顔を上げた。「……罪悪感、か」
「描けない自分を責めてる?」
「……はい。締め切りが近いのに、こんなことで悩んでる場合じゃないって」
三枚目、下。――『金貨の三』。職人が建物に彫刻を施している。
「土台となる過去の影響は、ペンタクルの三。積み上げてきた技術と努力。君はずっと、真剣に絵と向き合ってきた。だからこそ、今の状態が許せないんだね」
四枚目、右。――『星』。夜の水辺に立つ少女が、二つの器から水を注いでいる。
「解決への助言となる右側は、星。希望と、流れに委ねること。今の感情を、無理に排除しようとするんじゃなくて」
しおりがここで口を挟んだ。
「少し待ってください。カードが感情を排除するなと示している、ということですか? 集中を妨げている原因を取り除く方向ではなく?」
「そうじゃないんだよ」
僕はしおりを見た。
「感情や欲望は人間の動機だ。人間はこれがあるから、ここまで栄えてきた。もちろん振り回されちゃいけないけど、論理ばかりじゃ何も創作せないよ」
しおりの手が、メモ帳の上で止まった。「……動機、ですか」
「感情は燃料だ。制御できなければ火事になる。でも燃料がなければ、エンジンはそもそも動かないんだよ」
天野がぽつりと言った。「俺も、描けなくなるときって大体、感情を切り離そうとしてるときだな。冷静に、上手く描こうとして、かえって何も出てこなくなる」
女子部員が天野を見る。「天野先輩も、そういうことあるんですか」
「しょっちゅうだよ。特にコミケ前」
「……それでも描けるんですか」
「描ける。だって、描きたいからさ」
短い沈黙が落ちた。
僕は五枚目、全ての中心に置かれたカードをめくった。――『聖杯の六』。子供が花を贈っている、穏やかな絵柄。
「最終的な結果は、カップの六。純粋な喜び、原点への回帰。難しく考えなくていい。最初に絵を描き始めたとき、何を描きたかったか。その気持ちに戻れたとき、手は自然に動き出すよ」
女子部員はカードをしばらく見つめていた。「……その人の、似顔絵を描いてみようかな。上手くなくていいから」
「それでいいと思うよ」
しおりが口を開いたのは、女子部員がお礼を言って離れた後だった。
「……先輩。感情が動機だとして、それを創作に変換する過程というのは、どういう仕組みなんですか」
「仕組みか」
僕は少し考えた。「分からない。でも、タロットで言うなら、聖杯が棒――創造に繋がるとき、何かが生まれる。その間にある変換の過程は、論理で説明しきれないんだ」
「……それが、余白ですか。昨日おっしゃっていた」
「そう」
しおりはメモ帳を見下ろした。今日は随分と書き込まれている。
「私は今、部誌のために小説を書いています。でも書けない場面があって、ずっと言葉を探しています。登場人物の感情を、どう言語化すればいいのか分からなくて」
「それは」
僕は言葉を選んだ。「書けない感情に、まだ触れていないからじゃないかな。分析しようとして、手前で止まっている」
「触れる、というのは」
「その感情を、自分の中に一回入れてみること。理解するんじゃなくて、感じてみる。そこから言葉が来ることがある」
しおりは眼鏡の奥の瞳を細めた。「……非効率ですね」
「うん」
「でも、試してみます」
それだけ言って、しおりはメモ帳を閉じた。珍しく、何かを決めた顔をしていた。
天野が僕の耳元で小さく言った。「お前の占い、なんか部員より後輩の方に効いてないか」
「さあ」
僕はタロットの束を揃えながら、窓の外に目をやった。夏の光が、美術室の床に長い影を作っている。
求められる前から、もう次の問いが来る気がした。




